連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.19 アルファロメオ・ジュリエッタSZ

アルファロメオの歴史はそれなりに複雑で、その起源をどこに求めるかによって始まりが異なる。一般的にはダラックがイタリアから去った後Anonima Lombarda Fabbrica Automobiri の頭文字をとったA.L.F.Aが誕生したことをその起源とするようである。第2次世界大戦以前のアルファは、いわゆる純然たる高級車メーカーであり、同時にスポーツカーやレーシングカーを生み出すブランドであった。

【画像】アルファロメオジュリエッタをベースとした純然たるスポーツカー、ジュリエッタSZ(写真13点)

それが戦後になってガラッとその様相を変える。そこに誕生したのがジュリアでありジュリエッタといったコンパクト且つ量産が可能なモデル群であった。その量産が可能なコンパクトなモデルであっても、それをスポーツカーに変えてしまうのが如何にもイタリア人らしい。そもそもジュリエッタは1954年に誕生したが、その最初のボディは流麗なベルトーネ製(フランコ・スカリオーネデザイン)のクーペで、セダンが誕生したのはその1年後のことである。そしてこのジュリエッタをベースとした純然たるスポーツカー(コンペティションカー?)として登場するのがジュリエッタSZであった。

元々自動車が誕生した頃は、シャシーとエンジンをはじめとした駆動部分を製作するのが自動車メーカーの仕事で、そこにオーナーの嗜好に合わせたボディを架装するコーチビルダー、即ちカロッツェリアが存在していた。イタリアではとりわけこのカロッツェリアの存在が他のヨーロッパ諸国と比べて強かったことから、その伝統が長く続いていたと考えられる。アルファロメオの場合、とりわけカロッツェリア・ザガートとの繋がりが深く、多くの名車がザガートの元で作り上げられたことは周知の事実である。

SZ誕生秘話はひとつのクラッシュから始まる。元々ジェントルマンドライバーだったイタリア人、Massimo Girolamo Leto di Priolo(マッシモ・ジローラモ・レト・ディ・プリオロ)が、デビューしたばかりだった高性能版のジュリエッタSV(スプリント・ヴェローチェ)を購入し、勇んで当時のミレミリアに参戦した。しかしながら彼はレース中にクラッシュ。ひどく傷ついた車に対し、病院からエリオ・ザガートと彼にチームにディ・プリオロが出した指令は、車両をライトウェイトGTにトランスフォームせよというものであった。

ジュリエッタの薄いスチールチューブ製シャシーに搭載されたのは総アルミ製の軽量ボディであった。車重はオリジナルのスプリント・ヴェローチェの895㎏に対し、僅か750㎏に仕上がっていた。こうして完成したスペシャルモデルはモンツァのコッパ・インテルヨーロッパでデビュー。並みいるスプリント・ヴェローチェすべてを打ち負かし、見事優勝するのである。これを見たライバルのSVオーナーたちはこぞってザガートに同様のトランスフォームを依頼。これが非公式なSVZ(後のSZ)の誕生であった。

ザガートによるジュリエッタのモディファイは成功したものの、当時アルファのエンジニアであったオラッツィオ・サッタやジュセッペ・ブッソは、SVの販売に悪影響を与えるという懸念を示し、ベルトーネも当然不満を持った。そこでアルファの経営陣はベルトーネに対し、ジュリエッタの新たな派生モデルの制作を依頼する。それがスプリント・スペチアーレ、SSの制作であった。

しかし今度はザガートも黙ってはいない。そこで彼らはアルファのマネージメントに対し、直接シャシー及びメカニカルコンポーネンツの供給を打診する。これがアルファに受け入れられ、エリオ・ザガートは正式に新たなコンペティションモデルの制作に取り掛かることになった。プロトタイプは1960年に完成し、その後171台以上のSZが生産されることになる。このSZは後年、より空力性能の改善を求めコーダ・トロンカボディに進化する。シャシーナンバーはラウンドテール(イタリア語ではコーダ・トンダと呼ばれる)のSZが00001から00171まで、それ以降00172から始まるシャシーナンバーはコーダ・トロンカもしくはクリップドテイルと呼ばれるリアエンドがカム理論を用いてスパッと切り落とされたデザインとされているもので、最終的にはシャシーナンバーが00217で終わっている。もっとも、そのシャシーナンバーすべてが生産されたわけではなく、正確な生産台数は解っていない。しかし、217台以下であることは間違いのない事実である。

ロッソビアンコ博物館には、初期のコーダ・トンダのモデルと、後期型のコーダ・トロンカのモデルが展示されていたが、写真はコーダ・トンダのみである。

文:中村孝仁 写真:T. Etoh