◆ 「必要としてくださるのが分かってすごくうれしかった」

 球界入りのきっかっけになった大先輩の殿堂入りを米国で知った。

 中日・小笠原慎之介投手にとって、年明けは米国フロリダ州で過ごす自主トレ期間。2月の沖縄キャンプへ向かうまでの約3週間、現地で過ごす。

 折り返しも過ぎた18日に飛び込んできたのが、横浜、中日で活躍し、左腕の入団した2016年に兼任から専任監督となった谷繁元信さんの殿堂入りだった。

「谷繁さんに指名してもらってなかったらプロ野球生活始まってないんで。殿堂入りされる方に指名してもらったこととても感謝しております」

 感慨深いのは2015年秋。小笠原ばドラフト会議当日、東海大相模高にいた。

 指名された選手の報道対応は2パターンある。会議スタートから報道陣の前でカメラを向けられるスタイルと、もう1つは指名されてから報道陣の前に登場するパターン。

「カメラが嫌とは思わなかったです。指名されなかったらされなかったで、仕方がないと思っていました。もしNPBがダメだったら、アメリカへ武者修行しに行こうかと思っていました(笑)その時、クジを引き当ててくれたのが谷繁さんでした」

 外れ1位だった。球団は昨季までソフトバンクに所属した高橋純平(県岐阜商)を外し、小笠原を選択。日本ハムとの競合となった。その時に当たりくじを引いたのこそ、谷繁監督だった。

「どちらの球団でもよかった。名古屋の方が(小・中の野球チームが同じで親交のあった高橋)周平さんがいるからやりやすいのかな、という程度でした。谷繁さんが派手にガッツポーズされていました。必要としてくださるのが分かってすごくうれしかったです」と振り返る。

◆ 2年連続最下位から上位進出へ左腕の決意

 プロのレベルを知ったのも、指導者の器に触れたのも谷繁さんだった。

 春季キャンプのブルペンで、谷繁監督へ投げた。

「高校までは、初めてボクのボール捕る人はミットが刺されました。専任監督で体も動かしていないのに、1球目からミットがまったく動かずにバチッと捕球された。これがプロかと思いました」

 負けん気の強い18歳。高卒1年目にとっては、驚きの体験だったという。

 プロ初勝利は9月4日の巨人戦(東京ドーム)。すでに事実上の解任として休養していたのは想定外。同僚の吉見一起さんから「谷繁さんから『よかったね、と言っておいて』と連絡があったよ」と伝えられた。電話番号を聞いて、初勝利を報告した。その時の声のトーンが忘れられない。

「すごくうれしそうな感じでした。『これからも頑張れよ』とおっしゃっていただきました」

 当時のチームスローガンは「竜魂燃勝」。あれから8年。左腕は魂を燃やして勝利に貢献する。

 プロ9年目。ドラフト入団選手は年下になった。1位入団の草加勝=亜大=は、新人合同自主トレで違和感を訴えて、「右肘内側側副靱帯(じんたい)損傷」と診断された。実は、小笠原は入団時、肘に痛みを抱えている。靱帯ではなかったが、遊離軟骨が投球に制限を与えていた。手術するかどうか、球団と話し合っている。

「ボクは高卒で草加くんは大卒。同じ1位でも『即戦力で何とか』って思っていたと思います。ショックは彼の方が大きいと思います。入団間もないころのケガ、という意味では僕はいくらでも話せる場合もあります。ただ、僕は靭帯じゃない。レベルが違う、という部分もあって、現時点では何とも言えないです」

 殿堂入りした恩師を持つ左腕は3年連続規定投球回を投げて、今オフのメジャー挑戦を公言する竜の先発陣では中心メンバーのひとり。

 2年連続最下位から上位進出を本気で狙っている立浪竜。小笠原は魂を燃やして勝つ。

 蓄えてきた知識、経験を凝縮させて大きなエネルギーをボールに加え、勝ちをつかんでいく。

文=川本光憲(中日スポーツ・ドラゴンズ担当)