においが少なく、静かな牛舎

琵琶湖の湖岸に沿って伸びる国道から山間の坂道をしばらく上ると、「大吉(だいきち)の近江牛」と書かれた大きな看板が見えてくる。約850頭の近江牛を肥育する大吉牧場だ。

滋賀県高島市にある大吉牧場。創業は1896年

筆者が訪ねたのは第3牧場。責任者で営業担当の廣田文毅(ひろた・ふみたか)さんに案内してもらった。ここには530頭の牛がいると聞いたのだが、とても静かだ。さらに印象的なのは、牛舎特有のにおいがあまり感じられないことだった。牛舎の間の道は舗装されていて、とても清潔だ。牛舎内の通路の床もきれいに掃除されている。牛の足元にある敷料も適度に乾いていてきれいなので、牛たちの毛の汚れも少ない。

牛の世話をするスタッフの皆さん。牛舎の前で

さらに廣田さんは、「牧場の中でも一番人懐こい牛」のところに連れて行ってくれた。敷料の上に寝転がった牛は、とても気持ちよさそうだ。その様子を見て牧場の廣田さんは、「こんなに警戒心がなかったら、草食動物としては失格ですけどね」と笑いながら、その牛を優しくなでた。

「大吉牧場の中でも一番人が好き」という牛と廣田さん

牛の腸活、人にもメリット大

大吉牧場では主に宮崎の繁殖農家から9カ月ほどに成長した牛を買って肥育している。牛たちは生まれ育った九州から長旅を経て滋賀までやってくる。長旅の疲れに加えて大きな環境の変化というストレスもあって、牛は体調を崩すことが多いという。風邪をひいて発熱したり下痢をしたりすると、エサも食べられない。そのため、一般的な肥育農家では子牛に抗生物質を与えるなど、薬に頼ることが多い。
一方大吉牧場では、その対策として2年ほど前から整腸作用と免疫向上の効果が認められているある資材を使っている。HS-08株乳酸菌を配合した飼料添加剤の「ゼオ・ラクト」だ。

ゼオ・ラクトを混ぜ込んだ配合飼料

人間も腸活のために乳酸菌のサプリメントを取る人は多いが、それを牛でも実践したわけだ。効果は期待通りだったと廣田さんは言う。
「腸の調子がよくなると、免疫力が上がって病気をしなくなります。下痢が少なくなると、しっかりエサを食べられるようになって、健康な牛になります」
メリットはそれだけではない。牧場が静かなのも、腸活の影響によるものらしい。
「人間もおなかの調子が悪かったら機嫌悪いですよね。牛もおなかの調子がよくて、エサを食べたいだけ食べられたら、ストレスが少なくなる。おかげで、牛がおとなしくなって扱いやすくなりました。うちは除角もしておらず、牛が暴れたら本当に危険なので」
牛が落ち着いていると牛同士のケンカも少なく、ケガの心配も減る。牛が痛がって荒れているところに、けがの治療のために人間が柵の中に入ることもなくなり、人への危険も減る。牛が健康であることは、人にとっても大きなメリットなのだ。

また、牛の下痢が少なくなったため、敷料の取り換えの頻度も少なくなって労力の削減にもなった。乳酸菌の効果もあってふん尿の分解も早く進み、においも少なくなったという。
全てが乳酸菌の効果ではないだろうが、大吉牧場が安全で作業効率が高く、さらににおいの少ない牧場であることは確かだ。今、牧場のスタッフは7人。2023年の春に農業大学を卒業した新卒の女性も採用できたのは、牧場の環境のおかげもあるのではと廣田さんは話してくれた。

牛が健康なら、肉質も上がる

レストランで提供される近江牛の希少部位ステーキ(画像提供:大吉商店株式会社)

大吉牧場の運営会社である大吉商店株式会社では、牧場のほかに精肉店やレストランも経営している。大吉牧場の牛の肉は、そのほとんどが自社で消費されることになる。そのメリットは、1頭を無駄なく使えることだと廣田さんは言う。
「よそに売ってたらほしい部位だけ買われてしまって、その他の部位は行き先がなくなってしまう。でも、うちはレストランもあるし、加工もやっているので、内臓まで全部使い道があるんです」
そこには大切に育てた牛の命を無駄にしたくないという意識もあるようだ。「牛は経済動物で、その牛のおかげで僕たちは生きていられる。全部活用するのは牛への供養です」

廣田さんは牛を長く育てることにもこだわりを持っている。
通常、和牛は月齢30カ月ほどで出荷される。しかし、中にはそれより早く出荷される牛もいるという。
「牛が健康でないと、大きくなりきらないうちに内臓に影響が出てエサが食べられなくなってくる。牛は自分の足で歩いて屠場に入らないといけないので、歩けなくなったら終わり。そうなる前に農家は出荷するので、月齢が十分でない状態で肉になることになります」
このような肉は脂も乗りきらず、ランクも上がらない。内臓は食用にならず、廃棄になることも多いそうだ。

大吉牧場ではこうした状況を避けるために牛の健康に気を配り、十分な大きさになる30カ月まではしっかり肥育している。さらに廣田さんは40カ月肥育にも挑戦している。

40カ月を目指して肥育している牛

長く肥育すればそれだけ飼料代もかかる。それでも、差別化で肉の評価を高めるために、大吉牧場ではさまざまな試みをしているのだという。「社長がいろんな挑戦をさせてくれます。40カ月肥育で目指しているのは『牛の生体熟成』です」(廣田さん)

こうした差別化によって大吉牧場の肉は高く評価され、高級店が立ち並ぶ京都の祇園にもレストラン出店を果たした。東南アジアの富裕層向けの輸出も好調だ。

地域との資源循環も

牛がたくさんいれば、出てくるふん尿も大量だ。それらは堆肥(たいひ)化して、周囲の農家が活用している。
大吉牧場に近い琵琶湖の湖畔の地域には水田が多い。冬場、稲刈り後の田んぼに堆肥を入れて、次期作に向けた土づくりをする。その堆肥の運搬と散布を行っているのも大吉牧場のスタッフ。しかも、堆肥は運搬も散布も含めて農家にタダで提供しているという。「堆肥は副産物だし、お互い様ですから」と廣田さんは言う。

「お互い様」というのは、大吉牧場で牛の粗飼料として使う稲わらを、堆肥を提供した農家からもらっているからだ。この交換は地域で長く続いている伝統だそうだ。
その伝統の堆肥にも、乳酸菌をえさに混ぜ始めてから変化があったという。牛が乳酸菌資材を摂取するようになってからの堆肥の成分を分析したところ、窒素・リン酸・カリウムともに数値が大きく上がったのだ。

その噂を聞いて、福井県坂井市の農家がわざわざトラックをチャーターし、片道1時間以上かけて堆肥をもらいに来るようになった。その農家、田中農園株式会社社長の田中勇樹(たなか・ゆうき)さんはコメ、小麦、大豆などを栽培する大規模農家だ。必要とする堆肥の量はかなり多いが、大吉牧場の堆肥は成分が高いので、まく量は少なくて済む。田中農園ではこの堆肥を使い始めたばかりなので効果がみられるのはまだ先だが、田中さんは「期待している」と話す。

田中農園の小麦の圃場。手前に積まれているのが大吉牧場から運んだ堆肥

牛の健康と幸せは人が守るもの

廣田さんが牛舎に入ると、くつろいでいた牛たちが立ち上がって柵の間から顔を出した。「もうすぐエサの時間やから、エサちょうだいって寄ってきてるんですよ」。牛たちもしっかり人間を見ているらしい。

エサの時間になり、給餌口から勢いよく配合飼料が出てくると、牛たちは汚れるのも気にせず、器用に舌を使ってエサを食べ始めた。ほかの牛に邪魔されてうまく食べられない牛を見つけると、廣田さんはその牛にエサを寄せてやった。

日々の牛たちの様子を観察することが一番大事な仕事だと廣田さんは言う。
「特にエサを食べているときはわかりやすい。エサやっても食べに来ないとか、耳が垂れてるなとか、目つきがとろんとしてるなとか。牛はどこが痛いとか言えないから、こっちが気づいてやらないと」。廣田さんには、牛のわずかな変化にもすぐに気づくセンサーがあるのだ。
そんなセンサーに守られて、大吉牧場の牛は健康に育っている。幸せかどうかは人間の基準では決められないが、おなか一杯に食べられて心地よく過ごしているのは確かなようだ。