グレイシー一族の名はブラジリアン柔術(BJJ)と同義で語られ、現在65歳のヒクソン・グレイシーは格闘技界で伝説的な存在だった。1980年の初試合以来、彼は世界を股にかけて戦い続け、その非公式な戦績は400戦以上無敗とされている。
【写真を見る】1995年「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」決勝戦、格闘家の中井祐樹に勝利したヒクソン
100億ドル規模のマネーが動くUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)からアメリカ各地のモールにある格闘技道場までが、グレイシー一族のおかげで存在すると言って過言ではない。この競技を確立するにあたって、ヒクソンとグレイシー一族ほど大きな貢献をした格闘家、あるいはアスリートは存在しないだろう。彼らはブラジリアン柔術のラシュモア山を形作っているだけでなく、建築家であり彫刻家なのである。
ヒクソンは自ら主宰する柔術セミナーで、黒帯の選手を何人も並べて、1人1人と組み手を行い、全員からタップを奪う。アメリカに格闘技を根付かせることに尽力したチャック・ノリスですらも、ヒクソンに太刀打ち出来ない。「ヒクソン・グレイシーとグラウンドの状態になったんだ。まるっきりの初心者になった気分だった」。伝説的な格闘家で俳優でもあるノリスは格闘技系WEBサイト”ブラディ・エルボウ”のインタビューで語っている。「おもちゃにされたよ」
ブラジルの映画監督ジョゼ・パジーリャはヒクソンの伝記のブラジル版に序文を寄せており、時代を超えたサッカーの巨人でありブラジルの生んだ最も著名なアスリートであるペレと例えている。ペレは自らの得意分野において世界最高峰だった。
それはヒクソンも同様だった。「誰かを世界最高峰と讃えるとき、他のスポーツを無視するという過ちを犯しがちなんだ」。パジーリャは語る。「ヒクソンはペレと同じぐらい優れているよ。何の違いもない。ペレが試合をするとき彼は支配者、フィールドで最高のプレイヤーだった。対戦するチームは、誰もが彼を止めようとする。ヒクソンは柔術で同じような位置にあったんだ」
だが今、ヒクソンは勝ち目のない強敵と向き合っている。彼が手の微妙な震えに気付いたのは、3年近く前のことだった。翌年、彼の主治医はパーキンソン病の診断を下す。モハメド・アリもパーキンソン病と関連する敗血症性ショックで亡くなっている。
ヒクソンが病状告白をしたのは今年の初め、キーラ・グレイシーのPodcastでのインタビューだった。パーキンソン病は脳の神経細胞が損壊する神経性の疾患で、ドーパミンが減少、脳の動きに支障が生まれる。手に震えが起こり、身体の動きがままならなくなるという病気だ。正しい治療をしないと、10年にわたって寝たきりになることもあるし、寿命は短くなってしまう。
ボクシングやMMAのような格闘競技で受ける頭部への衝撃がパーキンソン病とどのように関係するかは、1817年にジェイムズ・パーキンソンがこの病気を発見したときから議論されてきた。その後の研究で、頭部へのダメージがパーキンソン病発症のリスクを増加させることが明らかになっている。
頭部への衝撃とパーキンソン病の関連についての2006年の研究発表によると、衝撃を繰り返し受けることで発症のリスクが高まることが明らかになっている。2018年、ボストン大学メディカルスクールの研究でもまた、軽度でも脳への損傷が繰り返されることでリスクが高まるという結果が出た。どちらの研究においても両者に関連性があると論じられているものの、神経学者は必ずしもそう結論づけてはいない。そして関連性はともあれ、パーキンソン病はヒクソンにとって最後の対戦相手となったのである。
「パーキンソンをトランクに閉じ込めてやるんだ」
私がヒクソンにインタビューしたのは2年前、ベストセラーを記録した『ヒクソン・グレイシー自伝』について訊いたときだった。それは彼がパーキンソン病であると診断された時期とおおむね重なっている。紹介してくれたのは同書の共著者であり友人のピーター・マグワイアだった。そのとき、私は震えに気付かなかった。彼の動作が年齢のせい、そして苛酷な格闘人生によってややスローになっているように見えたが、まだアスリートらしいきびきびとした動きをしていた。
「しばらく前から疑いはあったんだ」と語るマグワイアは『ヒクソン・グレイシー自伝』の共著者であり、ヒクソンのパーキンソン病との闘いを描く続編を執筆中だ。「悲しく皮肉なことだよ。現役時代、誰よりも自分の身体をコントロールしていたのが彼だったからね」
私がヒクソンと再び会ったのは7月、カリフォルニア州トランスの工業団地にある彼のアカデミーだった。ここはトレーニング用スペースと小さな事務所だけがある、質実剛健な道場だ。到着したとき、彼はその場をうろうろしていた。我々はマットの近くにある2脚の椅子に落ち着く。私の向かいに座っている彼を見ると、パーキンソン病の兆候に気付かずにいられない。彼の膝はまるで赤ちゃんをあやしているように跳ね上がる。彼の手は震え、しばしば全身を振動が走る。
だがヒクソンは、そんな症状に慣れたと私に語る。彼にとってパーキンソン病は自動車の後部座席でいつまでもしゃべり続ける、迷惑な人間のような存在だ。自らの身体のコントロールを取り戻す決意を抱く彼は比喩を用いて話す。「パーキンソンをトランクに閉じ込めてやるんだ」
「死ぬのは怖くない」ヒクソンは語る。「誰だって死ぬんだからね。でも諦めることは受け入れられない選択肢だ」
1959年、リオデジャネイロに生まれたヒクソンは、18歳の頃には黒帯を締めていた。彼の父エリオ・グレイシーはリオのアカデミーを訪れる道場破りをことごとく返り討ちにした。試合を経るごとにグレイシー一族の名は高まっていき、柔術はMMAファイターからハリウッド俳優、アンソニー・ボーディンのような有名シェフまでが門を叩く世界的な現象へと発展していった。
「私はアートを代表しているんだ」。父親の肖像画が見下ろす中、ヒクソンは私に告げる。「私は生きざまを、一族を代表している。その責任はとてつもなく大きい、私自身の生命より重いものだ。死んでもいいと考えていたよ」
ブラジリアン柔術の頂点に位置するグレイシー一族の中でも、ヒクソンは最強と考えられている。彼が抜きん出ていた理由を問うと、彼は運動神経とよどみないテクニックを挙げた。だが彼はそれに加えて、勝利への執念が一線を画していたと主張する。
「基本的に私は人生ずっと無敗だよ」。彼の発言には皮肉のかけらもない。「さまざまなスタイルの相手と戦って、勝利を収めることが出来た」
ヒクソンにとってプロとして初の試合は1980年、キング・ズールとのヴァーリ・トゥード戦(ノールール、ベアナックルのMMA)だった。1994年から日本で2回のヴァーリ・トゥード・トーナメントとMMAマッチ3戦で勝利を収めている。2000年には東京ドームで4万人以上の観衆と3千万人のペイパービュー視聴者を前にした100万ドルのビッグ・マッチが行われ、日本の船木誠勝を撃破した。
1995年、東京で開催された『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』決勝戦。格闘家の中井祐樹にKO勝ちを収めたヒクソン(Photo by Yukio Hiraku/ALAMY)
アメリカ移住と夢の実現
彼にとっての大きなターニングポイントは、ブラジルを出たことだった。彼はアメリカで夢を実現させ、自分の望む人生を実現させようとしたのだ。
「この国で暮らして、子供を育てるのは、初日からエキサイティングな経験だったよ」。ヒクソンは語る。
彼がロサンゼルスにやって来たのは1989年のこと。兄ホリオンの道場でインストラクターとして手伝うためだった。アメリカにブラジリアン柔術を広めたのはホリオンだった。間もなくヒクソンは独立、自分のスクールを開いている。
ブラジアン柔術が知られるようになるまで、アメリカの格闘技界の大部分はブルース・リーとカンフーに夢中だったが、その中には映画で映えるが路上で使えない、実践的でないキックやパンチが多くあった。グレイシーはボクシングやカンフーの使い手が練習したことのないグラウンドの戦法を駆使して、圧倒的な勝利を収めることになった。
”ピコ・アカデミー”はロサンゼルスのセパルヴェダ・ブルヴァードとピコ・ブルヴァードの交差点の修理工場の隣にあり、夏は暑く冬は寒かった。
「酷かった。建物からして見すぼらしかったよ」。ヒクソンは私に言う。「でも、あの建物から新しいチャンピオン達が生まれたんだ」
ヒクソンは当初、同じスペースを空手道場と日替わりで共用。週3日のクラスを持っていた。それから彼は朝夕2回のクラスを行うようになり、最後にはスペースを占有、クラスは毎日となった。「おそらくアメリカで最高の格闘技スクールだったね」とマグワイアは私に言っている。
そのアカデミーは今では布地店で、99セント・ショップの隣にある。マグワイアが初めてヒクソンと会ったとき、まだ英語が流暢でなかったことを記憶している。当時ヒクソンはコーチとサーフィンをしていたが、後者の方により熱心だったという。マグワイアは言う。「良い波が来ると、彼はクラスに来ないこともあったよ」
だが、いざ教えるとなると、彼のクラスは苛酷なものとなった。マグワイアは昼休みの時間帯にレッスンを受けていたが、生徒は夜勤の警官や大麻の売人、定職に就かない遊び人など多岐にわたるものだった。彼はそれを「刑務所の庭でのランチタイム」と呼んでいる。トレーニングはまず1時間近くのウォームアップから始まり、続いて2時間みっちりとテクニック講習とスパーリングが行われる。マグワイアはシャツを2枚持参し、ウォームアップの後に着替えていた。「私は格闘技の修練を積んでいたんだ」。彼は言う。「それでもぎりぎりの限界まで自分を追い込んだ」
ヒクソンはブラジリアン柔術が最強格闘技であることを証明するためにどこでも、誰とでも戦う意志を持っており、再度にわたりそれを実証した。
そんな挑戦マッチの噂が広まったことで、ファイター達はその戦闘法を学ぶべく、彼のクラスを訪れるようになった。
「痩せっぽちのブラジル人たちが、あらゆる相手を倒していくんだ。私なんかより強い、世界レベルのキックボクサーとかをね」。マグワイアは語る。「こいつは怖いなと思ったから、じゃあ自分も習わなきゃって」
プロレスラー安生洋二の道場破り事件
ヒクソンへの挑戦で最もよく知られているのが1994年12月、安生洋二との一件だろう。発端は「VALE TUDO JAPAN OPEN 1994」でヒクソンが優勝したことだった。その後、日本の総合格闘家である高田延彦が挑戦を表明。それに対してヒクソンは次回のトーナメントにエントリーするよう求める。高田の団体の所属選手だった安生は師匠の挑戦のフォローアップとして、ロサンゼルスに向かった。
「挑戦してきた人間の大半は姿を現さないんだよ」。マグワイアは私に告げる。
マグワイアによると、ヒクソンは戦う心構えが常に出来ており、「犬には勝手に吠えさせておく」ままにしていた。だが今回、安生は報道陣やプロモーター達を引き連れてピコ・アカデミーを訪れ、ヒクソンが臆病者だと挑発したのだった。
ヒクソンは自宅で就寝していたが、息子の運転する車でアカデミーに向かい、車内で拳にテーピングを巻いた。安生のみがアカデミーの中に迎えられ、報道陣やプロモーターは外で待たされることになった。マグワイアによると、戦いが始まると安生が数回蹴りを放った。ヒクソンはまだウォームアップ中だと告げる。だが彼の準備が出来ると、安生をマットにテイクダウン。日本人ファイターの安生はヒクソンの口に親指を突っ込み、頬に向けてフックして引っ張ろうとする。それに対してヒクソンは、安生にメッセージを伝えることを決意し、指を口から出すと、逃げられないように押さえ込んだ。
パンチが雨のように降り注ぎ、安生の鼻は平らになる。一連の打撃の後、ヒクソンは安生をチョークで失神させた。それから数日後、安生は再びアカデミーを訪れたが、このときは侍の兜を手土産に、非礼を謝罪している。
ブラジリアン柔術で黒帯を締める12人ほどのアメリカ人の1人であるクリス・ハウターは初期からのアカデミーの門下生だった。彼はマグワイアと同じく、ブラジリアン柔術を学ぼうと門を叩いている。
これまで対戦してきた他流派のファイターについて、ハウターは「彼らはマスケット銃(16~19世紀に使われた前装式の歩兵銃)を持っているようなものだった」と例える。「我々はM-16を持っているんだ」
マリブから30分、ソーンヒル・ブルーム・ステイト・ビーチを隔てたパシフィック・コースト・ハイウェイ沿いに、100フィートの高さの砂丘がある。週末になると大勢の観光客が、足場が固められた経路をトレッキングしている。頂上まで登ると、太平洋の透き通ったブルーの海岸線が何マイルも伸びていくのを一望することが可能だ。だが90年代、世界最強の格闘家として最盛期にあったヒクソンにとって、早朝の砂丘は恐怖の対象だった。
まだ観光客がフウフウ言いながら登り始める前の未明、彼はパシフィック・パリセイズの自宅から車で砂丘に乗り付ける。浜辺とアスファルトが交差するハイウェイの路肩に車を停めると、彼は太平洋を背にして、砂丘の柔らかい足場を頂上まで登り下りする。何度も、力が尽きるまでだ。砂丘を登るのと同じ胸の圧迫感と脚の疲労感をリングでも感じることが出来れば、彼は山を征し、頂上に立つことが出来るのだ。どんな格闘者であっても、自分が最もタフであると信じ込ませる何かがあるものである。マグワイアによるとモハメド・アリはスカルプ・ヒル山を駆け上がり、マイク・タイソンは毎日10から12ラウンドのスパーリングをこなし、マーヴィン・ハグラーは軍靴を履いてランニングをしていたという。
グレイシー一族:エリオ・グレイシー(左から2人目)と彼の息子たち、左から、ホイラー、ホウケル、ヒクソン、ロビン(Photo by David Yellen/Getty Images)
体質管理の試練
パーキンソン病と戦うにあたって、ヒクソンは砂丘の代わりに体質管理の試練を乗り越えようとしている。
病気の診断があってから、医師は通常通り投薬による治療を行うことにした。それによって症状は軽減されたが、その体質に大きな向上は見られなかった。投薬による副作用で、ヒクソンは体調不良を見せるようになっている。
「リスク回避を重視するアメリカの医療体制に盲目的に従うというのは、剣と盾を明け渡して、自分の墓穴を掘るシャベルを手にするようなものだ」。ヒクソンは自伝の執筆用に行われたインタビューのひとつで、マグワイアに話している。
ヒクソンは治療の効果を高めるべく、食事とエクササイズの方法を変えることにした。彼は牛肉と小麦粉を摂るのを止めている。彼はまたファスティングを始め、ボトル入りの水のpH値が彼の体調に影響を及ぼすことから、水質化学まで掘り下げるようになった。それに加えて、彼は格闘家としてのコンディションを保つためのハードな訓練も欠かしていない。
「集中して運動するように心がけているんだ」。彼は私に言う。「自転車、レジスタンスグローブとフットウェアを着用しての水泳とかね。より効果を増すために、ワークアウトするときシュノーケルを付けたりもしているんだ。そんなトレーニングを毎日行っているよ」
ヒクソンの体質管理はモチベーションであり希望の源となっているが、それと同時に砂丘と同じく、人生最大のバトルに向けて自信を付けるための障壁でもある。我々は誰であろうがいつかは死ぬものだが、医師からパーキンソン病の宣告を受けることは、人生の最終章が始まったことを意味する。事故にでも遭わない限り、彼は自分の人生がどのように終わるのか知っているのだ。闘いに明け暮れ。命を賭けてきた男が、いずれ生命を奪いに来ると予測される手の震えに直面したとき、どう対処するのだろうか?
「もし私が17歳でパーキンソン病の宣告を受けたら、大きな打撃を受けていたかも知れない。まだ人生経験が浅かったし、自分というものが判っていなかったからね」。ヒクソンは私に話す。「でも今日まで人生でさまざまなことをしてきた。自分が何者なのか分かっているんだ。パーキンソン病を自分に順応させるつもりだよ。ハッピーな知らせではないけれど、可能な限り快適な状態に出来ることだよ」
長男の死と「目に見えない柔術」
過去10年、ケガやパーキンソン病を経て、ヒクソンは柔術に関して新しい考え方をするようになった。人間の自信を刺激してポテンシャルを引き出す、よりスピリチュアルな考え方である。戦わずして勝利するという考え方を、彼は”目に見えない柔術”と呼んでいる。
柔術に対するスピリチュアルな視点が生まれた理由のひとつは、彼の長男ハクソンの死によるものだった。
1981年に生まれたハクソンにとってブラジリアン柔術は親しみやすいもので、彼はグレイシー一族で最高の才能に恵まれていると言われるようになった。
19歳になった頃、彼はロサンゼルスを出て、モデル業を目指すべくニューヨークに向かった。ホクソンは家族から距離を置くようになったが2001年1月、死体となって発見されている。身元確認の根拠となった腕の刺青は”世界最高の父親・ヒクソン・グレイシー”と彫られたものだった。
ニューヨーク市警がハクソンの遺体を発見したのは前年12月、マンハッタンのプロヴィデンス・ホテルでのことだった。死因はドラッグの過剰摂取だった。彼は当初共同墓地に葬られたが、後に火葬され、遺灰はマリブのビーチに撒かれた。
この悲劇を経て、ヒクソンは人生を再考するようになった。彼は予定されていた試合をキャンセル。それ以来プロとしてはリングに上がっていない。
彼は鬱との闘いを余儀なくされ、離婚も経験している。2番目の奥方となるキャシアと出会って、彼はロサンゼルスに戻った。その人生は勝利の連続だったが、息子の死は乗り越えることが不可能に近かった。
「練習に復帰したとき、私はもうトップになるためのトレーニングを出来る年齢とは言えなくなっていた」。ヒクソンは語る。「しかし私はそれを乗り越えて、自分の人生と家族を正面から見据えることにした。そして人生を良い方向、ポジティヴな方向に持っていくことが出来たんだ」
悲しみと折り合いを付けるため、彼はブラジリアン柔術にテクニックだけでなくハートの要素を取り入れた新しいヴィジョンをもたらす必要があった。彼は”目に見えない柔術”を残していくことを望んでいる。
「実際に人を癒やすことが可能なんだ」ヒクソンは私に言う。「柔術によって前向きな影響を受けられる。砂漠で水を手に入れるような気分だよ。それは自分のエゴのためではない。自分の持つ価値を喉が渇いた人々に提供することの重要性を考えているんだ」
”目に見えない柔術”は戦闘に焦点を当てるのでなく、それを超えた武道であると彼は主張。内面の成長と自己評価、そして自己の最上の姿を見出す自信を築くことに重点を置いている。ヒクソンは具体的に説明するのに苦労している。その多くの部分はいかにもありがちな”潜在能力を引き出して自信を持つ”という、ヒクソンよりもトニー・ロビンズ(訳注:アメリカの自己啓発文筆家)が言いそうなセリフだ。
ある意味その発言は、ヒクソンがかつてのようなアスリートたり得ないゆえのものだろう。ここ15年、彼は腰と背中の怪我に悩まされてきた。サーフィンのポップアップは遅くなり、闘いの喜びは消えていく。その結果、彼は柔術がマットの上だけでなく、人生においてどんな意味を持つのか、深く考える必要を感じるようになった。彼は精神性により焦点を当てるようになったのだ。自信、戦略、忍耐、彼はそれらを、格闘技の”目に見えないツール”と呼んでいる。
Photo by Cassia Gracie
「今でも柔術によって自己表現したいと強く思っている」
「戦わずして勝利する、というコンセプトに、より心地よさを感じるようになったんだ」ヒクソンは私に言う。「今でも柔術によって自己表現したいと強く思っている。ただ、違ったやり方でね。かつてのように競技としてではなく、自己認識に重点を置くんだ」
ジョゼ・パジーリャはヒクソンとトレーニングしたことがあるが、それはヒクソンが物事を肉体的に理解するからだと主張する。
「ヨガの体勢のような複雑な動きを説明されるとしよう。私だったら頭の中でそのイメージを浮かべて、身体をそれに当てはめようとする」。パジーリャは語る。「ヒクソンの場合、そうではないんだ。彼の学び方は異なっている。彼は実体験を通じて学ぼうとするんだ。知覚よりも感覚によって知識を吸収するタイプだと思うね」
だからこそ彼がパーキンソン病と診断されたことは、より残酷な事実である。
パーキンソン病は身体的な病気であり、ヒクソンはこれまで身体を使って生き抜いてきた。
インタビュー中も彼は言いたいことを口に出来ないが、手振りで説明することが出来る。彼は相手に触れることで相手を測定しているようだ。握手をするときじっと眼を覗き込んでくる彼は、右手で相手の右手を握りながら、左手で上腕三頭筋から広背筋までを探る。まるで相手の心を読んでいるように。
ヒクソンは動作とアクションによって自らの考えを明確に表現する。
さまざまな意味で、言語は彼にとって妨げといえる。彼の手に触れるまで、私はその天賦の才能を判っていなかった。だがその後になると、彼が達人であることは明らかだ。ヒクソンはマグワイアに、ブラジリアン柔術を実体験してみるまで、文章にすることは不可能だと語った。彼の言う通りである。