急造・星稜応援団が教えてくれたこと
2024年は能登半島地震と羽田の航空機衝突事故で不穏な幕開けとなった。何はさておき被害に遭われた方にお悔やみとお見舞いを申し上げたい。「お屠蘇気分が吹っ飛ぶ」という表現があるが、今年は正月がなかった感じがする。サッカーの仕事でツエーゲン金沢、アルビレックス新潟に知人がいて安否確認をしたり、高校サッカー選手権の石川県代表、星稜高校の試合に応援部隊が来られない(交通手段がストップした)と知って、柏の葉競技場へすっ飛んで行ったりしてるうちに仕事始めの日を迎えてしまった。
野球コラムでサッカーの話をするのも何なんだけど…。
正月2日、体験した星稜高校のサッカー応援は、「応援」の原点を思い出させてくれるものだった。皆、地震のニュースや、星稜高校関係者の「行ける人がいたら代わりに応援してやって」のSNS発信等を見て、取るものも取り合えず駆けつけた人ばかりだ、関東で働く星稜OB、石川県出身者ももちろんいた。が、「何の関係もない人」もめちゃくちゃ多かった。素晴らしいのは大会敗退が決まったばかりの神奈川県代表、日大藤沢サッカー部が(スクールカラーのピンクのジャージの上に)監督さんの家にあったという黄色のゴミ袋を着て応援歌(チャント)を歌い続けたことだ。首と手を通すところに穴を開けて、胸には下手くそな字で「星稜高校」と大書してあった。柏レイソル、ジェフ千葉、栃木SCといった黄色いクラブのサポーターもいた。ちなみに僕はベンチコートの上にびろんびろんに伸ばした黄色のTシャツを着た。おわかりかと思うが、星稜のユニフォームは黄色なのだ。つまり、星稜応援席は義侠心だけで押しかけた「非・星稜」の巣窟だ。試合は市立船橋に負けてしまったが、皆、最後まで一心に応援した。
※対戦相手の市立船橋は星稜側に応援メガホンの友情貸与をしてくれた。また勝ち上がった準々決勝、名古屋戦では、託された「石川 星稜」「がんばれ! 日本の絆 今こそ強く」のダンマクを掲げてくれた。
「応援」の原点。それはやっぱり気持ちなのだと思う。僕自身の行動を振り返ってみると、元日の19時台には「これは放っとけないな」とセブンイレブンへ走って、翌日の前売りを買っていた。特段、誰にも声をかけたりしない。皆、お正月で予定があるだろう。単独行動。別に自分が星稜を応援すれば勝つとか、それが被災地のためになるとか1ミリも思っていない。とにかく「放っとけない」のだ。考えるより先に動く。理由は後から考えればいい。
半世紀も一喜一憂し暮らしてきた
胸に手を当てて考えてみると、僕が50年前、ファイターズを応援しはじめた頃の気持ちはまさにこうだった。東映-日拓の後を受け、日本ハムファイターズという風変わりな名前のプロ野球チームが誕生したのだ。パッと見、実業団チームのような(伊藤ハムと試合しそうな)イメージだった。僕は当時、九州に住む中学生で、多分に自意識過剰なきらいがあった。なんかよくわからないが日本ハムファイターズと自分を重ね合わせたのだ。風変りな名前のプロ野球チームはお世辞にも強いとはいえなかった。だけど、何か気になる。放っておけない。平和台球場へ出かけた。
その後、父に転勤の辞令が出て、川崎市の郊外に引っ越すことになるのだが、驚いたことに町の肉屋さんのレジ脇には後楽園球場の内野自由席券が束で置いてあった。ちょっと足をのばせば2軍の練習場「多摩川グランド」(グラウンドじゃなく、「グランド」が正式表記だった)があった。鉄路が寸断された星稜高校の応援のようにせっぱつまったものではない。「ここで行かなきゃ男が廃(すた)る」という義侠心に駆られてもいない。だけど、足が向いた。自分が行かなかったら誰が見てくれるのだと思っていた。考えるより先に動いた。何でわざわざ「多摩川グランド」まで出かけるのか理由はそのときにはわからなかった。
実はファイターズは創設50周年のアニバーサリー・イヤーを迎えた。信じられないことに僕は半世紀も(!)この風変わりな名前のプロ野球チームに呼吸を合わせ、一喜一憂し暮らしてきたことになる。おかげで大沢親分の胴上げも知ってるし、ダルビッシュ有の初登板、大谷翔平のデビューにも立ち会った。だけど、本当の本当はそんなエポック・メイキングな試合ではなく、「チームの連敗が止まらない」「もう今日落としたら終戦だ」というような日に矢も楯もたまらず駆けつけたときの方が大事だった。もちろん自分が応援すれば勝つとか、世の中のためになるなんてことはない。無力といえば大変に無力だ。大概の場合、連敗は伸びたし、土壇場の試合に敗れ、僕がガックリ肩を落として家路についた。そうやって生きてきて14歳の中学生は64歳になったんだ。僕はこの正月、ああ、自分にはまだ放っておけなくて走る馬力があったんだなと面白かった。ファイターズを応援した最初の最初。お調子者で、気になると放っておけなくて、衝動のままとにかく走る体質。
昨秋、球団の方と会食する機会があり、お誘いを受け50周年アニバーサリーに協力することになった。フロントに東京時代のことを知ってる人がほとんど残っていないということだった。そりゃ頼ってもらうのは嬉しい。僕にできることがあったら何でも協力する。
だけど「昔のことをよく知ってる人」ではなく、「放っておけなくて走る人」でありたい。それがいちばん幸福なのだ。日大藤沢サッカー部のワカゾーたち。応援に駆けつけるとき、黄色いゴミ袋を見つけて、それに穴を開けて首を通し、でっかい字で「星稜高校」と書いたとき笑顔だったはずだ。僕も下手くそな字で「キヨ子~!!」とか「松本GO!」とか応援バナーが書きたい。
というわけで50周年アニバーサリー・イヤーも「放っておけなくて走る」方向に注力することになった。ただ新庄監督、お願いだから「チームの連敗が止まらない」「今日負けたら終戦」っていうシナリオは用意しとかないでくださいね。