1993年12月25日、人気絶頂の司会者が、48歳の若さでこの世を去った。フジテレビアナウンサーからフリーになり、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ)など、各局で高視聴率番組を抱えていた逸見政孝さん。異例の“がん告白会見”の衝撃が冷めやらぬ中でのクリスマスの訃報に、日本中が悲しみに暮れた。

『SHOW by ショーバイ!!』をはじめ、『夜も一生けんめい。』『いつみても波瀾万丈』と、逸見さんが出演していた日本テレビの全レギュラー番組のプロデューサーだったのが、後に日テレ社長も務めた小杉善信氏。「一生であんなに泣いたことがない」という別れから30年の節目で、思い出を振り返ってもらった。

前編では、逸見さんとの出会いから『SHOW by ショーバイ!!』でのエピソードなどを回顧。真面目で几帳面ながらユーモアも兼ね備えた人柄で一気にスターの道を駆け上がり、当時の司会者では“逸見一強”の印象を抱いていたという――。

  • 小杉善信氏(左)と逸見政孝さん(逸見太郎氏提供)

    小杉善信氏(左)と逸見政孝さん=逸見太郎氏提供

バラエティ未知数も“航空母艦の艦長”に

――まずは逸見さんとの最初の出会いから伺わせてください。

逸見さんがフジテレビを辞めるというのが内々に決まったときに、(フジ退社後に所属する)三木プロダクションの三木(治)社長が、うちで『11PM』や『木曜スペシャル』をやっていた当時チーフプロデューサーの高橋進に昔恩義があったというので、元フジテレビのプロデューサーと来社されて、僕も立ち会ったんです。そこで、逸見さんが(88年)3月いっぱいで辞めると言ってるので、フリーになった最初は日本テレビの番組にしたいというお話を持ってこられました。で、改めてご本人と話そうということになって、3月に辞められて、初めてお会いしたのは初夏だったと思います。

――本人とお会いしたのはフジテレビを辞められた後なんですね。

逸見さんはそのあたりの仁義がしっかりしてるので、辞めて少し時間を置いてから会いましょうとなったのです。それで会ったときに、逸見さんはずっと報道畑でやってきたけれど、クイズ番組がやりたかったんだとおっしゃって。その頃、僕らも『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』という企画でクイズ番組をやろうと思っていたので、そこで合致したんですよ。

――日テレのプロジェクトとしてクイズ番組の企画開発を行っていた時期ですね。

当時の日本テレビの状況を言うと、代表的なクイズ番組がなかったんです。フジテレビは『なるほど! ザ・ワールド』、TBSは『世界まるごとHOWマッチ』(MBS制作)が大ヒットしていて、そういう番組をうちもどうしても作りたかった。それは、期末期首に母体にして、番組対抗の特番が作れるから。うちも番組対抗はやってたんですけど、言わば“無国籍”のような形で、全然視聴率がとれていなかったんです。自分の思い描いていた絵は、タイムテーブルが連合艦隊だとしたときに『SHOW by ショーバイ!!』を航空母艦にしようと。その艦長に逸見さんは適任だと思ったんです。

当時の逸見さんは、真っ白なキャンパスみたいな方だったんです。報道キャスターの色はあったけどバラエティは未知数(※)で、僕のイメージと逸見さんの方向性が一致したというところがあったと思います。

(※)…当時、フジテレビで夕方のニュース番組『スーパータイム』のキャスターを務めていた。

――『SHOW by ショーバイ!!』がスタートするのが88年10月ですから、その年の初夏に初めて会うというのは、なかなかタイトなスケジュールですよね。

そうですよね(笑)。でも、あの当時の日本テレビはゴールデンの数字が悪かったから、どんどんスクラップ・アンド・ビルドしていて、そのスピードが速かったんだと思います。

台本の全ての自分の発言に「逸見」スタンプ

――そうして『SHOW by ショーバイ!!』が立ち上がりました。

スタートまでに台本を渡して、何回か顔を合わせて打ち合わせするんですけど、そこでびっくりしたのは、逸見さんは台本の自分のしゃべる全ての部分に「逸見」というスタンプを押してるんですよ。しかも向きが一切曲がってない。あんな人は初めて見ましたね。ドラマのセリフじゃないんだから、そこまで厳密じゃなくてもいいはずなんだけど、「ここは僕がしゃべるところだ!」と、ものすごく自分の役割を意識されてたんだと思います。僕と同じB型で水瓶座なんですけど、すごく生真面目で、几帳面で、全然性格が違うなと思いました(笑)。僕はまず全体を作れば、細かいところはそんなに気にしないんですけど、逸見さんは細部にまでこだわる人だと思って、それがすごく印象的でしたね。

真面目な面でもう一つ感心していたのは、逸見さんは番組を途中で投げたことがない。長くやってると、VTRが悪かったり、ゲストが悪かったりして、途中で「今日の収録うまくいってないな」っていうのが分かって、「今日の出来は俺関係ないよ」って態度に出ちゃうMCもいるんですよ。でも逸見さんは1回もない。どんなにキツい収録でも投げない。これは(明石家)さんまさんも一緒で、逸見さんとさんまさんは、どんなにひどいネタが出てきても、最後まで自分が何とかしようと貪欲なんです。

――それはスタッフの士気も上がりますよね。

やっぱり、「この人のために頑張ろう」と思いますよね。

――生真面目で几帳面でありながら、バラエティのアドリブにも抜群の対応力でした。

逸見さんは決め事に関してはきっちり任務遂行してくれるんですけど、その生真面目さと同時に、関西人ならではのユーモアに加えて、何かを言った後にニコっと笑う姿とか茶目っ気があるんですよ。それで天性の好感度を持っていて、意外と下ネタも嫌いじゃないんだけど、全く下品にならない。だから、生真面目さとユーモア、茶目っ気、これを兼ね備えた司会者としてナンバーワンだったと思いますね。『SHOW by ショーバイ!!』の途中ぐらいから一気に花が開いてスターの道を駆け上がって、他の司会者が霞む“逸見一強”のような感じが、個人的にはしていました。

――制作側として、その魅力を存分に生かすのにどんなことをされていたのですか?

僕なんかがやっていたのは、逸見さんに何かしら刺激を与えると、こっちが想像するリアクションから違うところに行っちゃって、それが面白いんですよ。“逸見さん、これどうするかな…?”っていうのを30分番組だと2つくらい、1時間番組だと4つくらいまぶしておくと、『SHOW by ショーバイ!!』で思わず正解を言っちゃうとか(笑)。クイズの司会者が正解を言っちゃって、しかもそれを解答者からのツッコミで気づくなんて見たことないですよね。だから逸見さんはもちろんしゃべってるときが魅力的なんですけど、しゃべってないときもすごく魅力的だったんです。徳さん(徳光和夫)がよく「テレビは人間性を映す鏡だ」と言ってるんですけど、逸見さんはまさしくそれで視聴者に受け入れられた代表じゃないですかね。

それで言うと、「普通」でいられることも人気の要因だと思います。「昨日あの人とメシ食ってさ~」とか芸能界のいろんな話を得意がってすることもないし、時間に遅れることは1回もない。こちらがハイヤーを手配して車でいらっしゃるんですけど、道が混んでると途中で降りて、麹町(日本テレビ)まで地下鉄で来てましたから。あんな人気者なのに「よく電車乗れましたね」って言ったら、「当たり前ですよ。僕はフジテレビまで何十年も電車で通ってたんだから、何の問題もないですよ」って(笑)。そういう人間的な魅力、タレントとしての魅力というのが、逸見政孝という一つの素晴らしい個性を作っていた気がしますね。