12月21日、サントリーホールとYouTubeにおいて、「だれでも第九」コンサートが開催されます。オーケストラと合唱団、ヤマハの技術と音楽家の情熱、そして障がいのある3名のピアニストの努力と希望が紡ぎ出すシンフォニー。その舞台裏にお邪魔しました。
AIのアシストでピアノを弾ける「だれでもピアノ」
2015年、「ピアノを弾けるようになりたい」という障がいのあるひとりの少女の願いを叶えるため、ヤマハと東京藝術大学は「だれでもピアノ」を開発しました。
「だれでもピアノ」は、AI (人工知能)のアシストにより、だれもがピアノを弾く体験を得られることを目指した楽器です。自動演奏機能付きピアノ「Disklavier (ディスクラビア)」をベースとし、演奏追従システムとペダル駆動装置によって、身体的なハンデや音楽経験、演奏者の年齢に関わらず音楽を奏でることができます。
12月21日、この「だれでもピアノ」を使い、障がいのある3名がオーケストラとともにピアノを奏でるコンサート「だれでも第九」が開催されます。場所は東京都港区のサントリーホール ブルーローズ、開演時間は16時30分。曲目はもちろん、ベートーヴェンの「交響曲第9番」です。コンサートの模様は、Youtubeでも無料ライブ配信され、どなたでも観覧することができます。
関係者一丸となり準備を進める「だれでも第九」リハーサル
上演を控え、現場はいまリハーサルの真っ最中。ピアノを演奏する宇佐美希和さん、古川結莉奈さん、東野寛子さんはもちろんのこと、技術者、作曲者を初めとした関係者が一丸となって練習に取り組んでいます。
障がいを持った方が演奏するとはいえ、ただAIに演奏に任せるわけではありません。ピアノを弾く達成感、心震える演奏を実現するためにピアニストに課せられたハードルは決して低い物ではなく、練習に練習を重ねなければ本番での成功は難しいでしょう。それでも音楽を愛するピアニストの3名は、くじけることなく練習を繰り返します。
宇佐美希和さんは、生後まもなく脳性麻痺と診断され、両手足に障がいがあり、車椅子を使用しています。ピアノと出会ったのは小学2年生の時。お姉さんがピアノを習う姿をみて、宇佐美さんも習い始めたそうです。ヤマハと東京藝術大学が「だれでもピアノ」の共同開発を行った最初のきっかけも、2015年に宇佐美さんのピアノ演奏を聴いたことでした。
古川結莉奈さんは、先天性ミオパチーという筋疾患により身体を動かすことが難しく、普段からベッドで一日を過ごしています。小さい頃から音楽が大好きで、右手の親指で電子キーボードを弾いていたそうです。2021年には自宅の電子キーボードから横浜市庁舎の「だれでもピアノ」を演奏し、オーケストラとの共演を夢見てきました。
東野寛子さんは、生まれつき右手に欠指の障がいがあります。子どもの時はお姉さんも演奏していたピアノを習いたかったそうですが、障がいを理由にバイオリンを習うことになったそうです。現在はミュージカルやダンスの舞台、SLOW CIRCUSのトレーナーとして活動しており、東京2020パラリンピック開閉会式にも出演しました。
特別感を持たずに聴いてもらえたら
今回、3名のピアニストの中から東野さんにお話を伺うことができました。東野さんは、大学4年生のころ生の音楽、生の舞台に感銘を受けてミュージカルを始め、大学卒業時にバイオリンを辞めて、それから歌に集中してきたそうです。
「4歳のころからピアノに対しての憧れはずっとありました。弦楽器と違って、ピアノってそれ一台で豪華な音が出るじゃないですか。そういうのがすごくうらやましくて。ピアノは諦めていたところがあったので、参加が決まったときは『新しいことに挑戦できる!』と喜びました。35年の歳月を経て、再びピアノに挑戦するっていう感じです」と東野さん。
だれでもピアノに初めて触れたときは、自動演奏とは異なる、音が追いかけてくるような感覚にびっくりしたとのこと。合奏やお芝居にある、人と人の“間”や“空気感”がなく、最初は「こんな子(ピアノ)と、どうやったら仲良くなれるのかな?」と考えたと話します。
「最近は『私がちゃんと弾けば、この子はちゃんとついてきてくれる』とわかってきました。AIのサポートといっても完全に弾いてくれるわけではなく、私がやるべきことをちゃんとやれば、それに付き合ってくれるんです。それがわかってきたときに、達成感や自分の成長を感じるようになりました。AIといってもやはり人の手は絶対入っているものなので、人とAIの調和という意味で、今後の社会にも繋がる取り組みなんじゃないかと思っています」(東野さん)
だれでもピアノに慣れてきて、いまはオーケストラとの共演や、観客が入ってきたときの空気などに備え、メンタル面についても考えているそうです。東野さんに本番に向けた意気込みを伺うと、「とにかく楽しんで弾けたらいいな、いろんな方に特別感を持たずに聴いてもらえたらいいな、と思っています」と話してくれました。
ひとつの音にかける重みに衝撃を受けた
3名のピアニストともに「だれでも第九」に挑戦するのは、作曲家の高橋幸代さん。高橋さんは今回の音楽プロデュースと編曲を担当しているだけでなく、「だれでもピアノ」の開発とインクルーシブアーツ研究にも携わってきました。インクルーシブアーツとは、“全ての人たちが芸術を通して等しく交流することで、芸術が身近にある社会を目指す”というものです。高橋さんは、だれでもピアノのはじまりを次のように語ります。
「障害のある方々がどのように音楽を鑑賞するかに重きを置いて、2011年から『障がいとアーツ』というイベントと授業をずっとやってきました。そういった中で『手足などに障害がある方でも演奏できる楽器が作れたらいいよね』みたいなアイデアが生まれ、筑波大学附属桐が丘特別支援学校を伺ったところ、宇佐美希和さんと出会ったんです」(高橋さん)
ピアノが大好きな宇佐美さんは、ショパンの「ノクターン」をずっと演奏していました。その姿に高橋さんは衝撃を受けたそうです。
「希和さんは、鍵盤に顔がつきそうなぐらい一生懸命に1音1音を弾いていました。ひとつの音にかける重みに言葉にならないほど衝撃を受けて、すぐに静岡県浜松市にあるヤマハの研究所に突撃したんです。そこで演奏に追従して伴奏できたりする機能を見せていただいて、これで希和さんの演奏を支援できないかなと思ったのがきっかけです」(高橋さん)
こうしてスタートした、だれでもピアノ開発。左手の伴奏とペダル操作を自動演奏にし、右手の演奏は宇佐美さん自身で行ってもらう、という計画でした。高橋さんは左手の伴奏音源を作り、それをヤマハでシステムと合わせてもらいながらデータを作っていきます。さらに、宇佐美さんの演奏に合うようにペダルデータも人の手で作らなければなりませんでした。
「一般的にピアノ演奏する人がペダルを踏むのとは違う工夫が必要でした。例えばノクターンは“シ”から“ソ”に跳躍するところから始まります。普通は手で音を繋げるのですが、希和さんの場合はペダルを踏んであげることで1本指でも弾くことができるのです。ペダルには響きを作るだけじゃなく、本当に音と音を繋げる役目があるんだなと気づかされました」(高橋さん)
そして宇佐美さんだけのノクターンが完成します。そして、だれでもピアノをもっとたくさんの人にと言う想いから、次第に「ふるさと」や「きらきら星」などが追加されていきます。さらに「ちょっと豪華な伴奏がつくといいな」と、だれでもピアノの可能性はどんどん広がっていきました。
「初めからたくさんの人に楽しんでいただこうと思っていたわけではありません。目の前にいる『ピアノが大好きだけどちょっと弾くのが難しい』という人に寄り添うなかで、だれでもピアノは発展してきました。私は伴奏作りだったり、演奏される方の特性を理解するというところを担当しただけです」(高橋さん)
高橋さんは、だれでもピアノを「ピアノを弾きたいという想いがある全ての人を取り残さない楽器」「障がいのある方だけでなく、お子さんから高齢の方まで、チャレンジしたい方を後押しする楽器」と表現します。そして「だれでもピアノの機能は、あくまで人間をサポートするものです。人間自身が自分の持っている可能性に最大限挑戦していけるというところが魅力だと思っています」と話します。
だれでも第九において、高橋さんは3人のピアニストの身体的特性、音色、そして個性や性格を各楽章の音楽性に照らし合わせながら編曲を行ったそうです。そもそも、第九にはピアノパートがありません。ピアノを引き立たせつつ、オーケストラや合唱という楽曲本来の魅力も伝わるよう試行錯誤が繰り返されました。
「1・2楽章を担当する東野さんは右手の指が3本しかないので、3本の指と左手のパートを自分で弾けるようにしました。これはだれでもピアノとして新たな挑戦で、当日はAIと東野さん、どちらが弾いてるかわからない形にするのが最大の目標かなと思います」(高橋さん)
「3楽章の結莉奈さんはピアノの鍵盤を押すこと自体にハードルがあります。ですがキーボードではすごく上手に音楽を奏でます。自動伴奏もオーケストラも、彼女の弾くメロディを際立たせつつ寄り添うようなハーモニーを奏でるというところが基本になっています」(高橋さん)
「4楽章は希和さんです。これまでメロディを自分で弾いていくのを基本としていたので、今回もそれを活かせるようにしました。彼女のメロディをユニゾンさせてオーケストラの中で際立たせるようにしたり、だんだん華やかに重厚になっていくみたいな変化をつけています。彼女の緊迫感のあるソロから始まって、最後に壮大なアンサンブルになるという場面もあります」(高橋さん)
最後に高橋さんは、観客と視聴者に向けてだれでも第九の聴きどころを語ります。
「ピアニストそれぞれが響かせる音色をぜひ聴いてほしいです。そしてオーケストラ・合唱と響き合ったときにどういう音楽が生まれるのか。お客さまが演奏を聴いてどのように感じるのか、私自身もすごく楽しみにしています。だれでもピアノは人と人を繋ぐ楽器だと思っているので、ピアニスト、オーケストラ、合唱団、そしてお客さまがひとつになれる瞬間を分かち合えたらいいなと思います」(高橋さん)
心震える体験を一人でも多くの人に
世界的な楽器メーカーとして知られるヤマハは、どうして「だれでもピアノ」を作り、そして「だれでも第九」を企画したのでしょうか。ヤマハ ブランド戦略本部 コーポレート・マーケティング部 CXマーケティンググループ 主事を務める、東奈穂さんに伺ってみました。
東さんは、「だれでもピアノは、ディスクラビアをベースにして、演奏の追従とペダル駆動ができるというものです。簡単に言うと、その奏者の弾いたメロディ、速度、強弱に伴奏がついてきてくれるシステムですね」と、その仕組みを説明します。
2015年からスタートしただれでもピアノの活動は、ワークショップやコンサートを通じて多くの人に感動体験を届けることになりました。「この心震える体験、一人で弾ける達成感をより多くの人に伝えたい」「音楽を通じて、何かに向けて一歩踏み出してほしい」、そんな想いから企画されたのが、オーケストラや合唱団との共演だったそうです。
「『やるなら第九だね!』という共通認識はあったと感じます。クラシックは縁遠い方も多いと思うのですが、第九はだれもが知っているし、曲の持つ力も強いですし、歌詞もいろいろな人たちが一つになるメッセージを含んでいると思いました。ベートーヴェン自身が耳の障害を乗り越えて作った曲だということも、このプロジェクトの目指すところと一致しています」(東さん)
「情熱があっても、それを叶えられない」に対して、テクノロジーの力でアプローチしたのがだれでもピアノであり、その晴れ舞台が今回のだれでも第九といえるでしょう。AIはあくまで“サポート”であり、その本質は“音楽を通した体験”にあります。
「『もしかして簡単に弾けてるのかな』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、決してそうではありません。演奏しているのはテクノロジーではなく、演奏者なんです。本当に努力されていますし、すごく練習しているのを私もそばで見ています。3名のピアニストの情熱が込められた音楽を、ぜひ多くの方に聴いてほしいと思っています」(東さん)