日本で初めて鉄道が走ったのは、いまから約150年前の1872(明治5)年10月。その後、軽便鉄道、路面電車、モノレール、トロリーバスなど、数々の路線が誕生しては、やがて姿を消していった。
筆者は先月から、神奈川新聞電子版「カナロコ」で「かながわ鉄道廃線紀行」と題する連載を執筆している。神奈川県内にかつて存在した鉄道等の廃線跡から10路線を選び、現役当時の写真や路線図を交えながら毎週1路線ずつ紹介。単に廃線跡をたどるだけでなく、なぜそこに鉄道が敷設されたのかといった歴史的・社会的背景や、沿線における産業の盛衰と鉄道の関わりなども触れている。
「かながわ鉄道廃線紀行」で紹介する路線の多くは、過去に本誌(マイナビニュース)でも取り上げてきた。今回は連載で紹介する廃線跡10路線の概要や最近のトピックなどを紹介したい。
【1】箱根登山鉄道軌道線(小田原電気鉄道) -全国で4番目の電気鉄道-
1887(明治20)年に東海道線が横浜~国府津間まで延伸されると、そこから枝葉のようにさまざまな鉄道・軌道(路面電車)が延びていった。その先駆けとなったのが、1888(明治21)年10月に開業した小田原馬車鉄道(国府津~小田原~箱根湯本間)だった。
険阻な箱根の山々を避けるために、東海道線の国府津以西が現在の御殿場線ルート(国府津~松田~御殿場~沼津間)で計画されると、小田原や箱根の人々は鉄道ルートから外れることで、町が衰退することを危惧した。そこでこの馬車鉄道が計画された。
小田原馬車鉄道は、1900(明治33)年3月までに全線の電化を完了し、商号も小田原電気鉄道に変更。京都、名古屋、川崎(京浜急行電鉄の前身、大師電気鉄道)に次ぐ我が国で4番目、神奈川県内で2番目の電気鉄道開業となった。その後、関東大震災の後の経営危機を経て、新たに設立された箱根登山鉄道の軌道線となる。
当初は国府津~小田原~箱根湯本間を結んでいたが、最終的には小田原駅前~箱根板橋間に縮小され、路線が小田原市内で完結するようになったことから、「市内線」とも呼ばれた。この軌道線は最後まで収益好調だったというが、戦後の自動車交通量の増大による道路改修を機に、1956(昭和31)年5月31日をもって廃止された。
2020(令和2)年12月、かつて軌道線で走っていた車両が、小田原へ「里帰り」を果たして話題になった。軌道線が廃止された後、長崎電気軌道に譲渡された車両のうち1両(202号車)が、2019(平成31)年3月に長崎での役目を終えて引退。長崎電気軌道が受入れ先を探していたのに対し、小田原の有志団体が名乗りを上げ、「里帰り」を実現させたのだ。「かながわ鉄道廃線紀行」では、車両の「里帰り」プロジェクトの苦労話などを紹介する。
【2】豆相人車鉄道(熱海軽便鉄道) -人が押す鉄道があった?-
人力車ならぬ人力鉄道があったと聞けば、多くの人が驚くだろう。レール上の客車を車夫が押す鉄道は「人車(じんしゃ)鉄道」と呼ばれた。
小田原と熱海を結ぶ豆相(ずそう)人車鉄道が全線開通したのは1896(明治29)年3月。小田原と同様、熱海も当初の東海道線ルートから外れたため、鉄道の敷設が熱望されたが、採算を考慮した結果、人車が採用されたという。
人車鉄道といえば、他に東京都葛飾区の帝釈人車鉄道などが知られているが、勾配の多い小田原~熱海間によく人車を走らせたものだと思う。
この人車鉄道の旅がどのようなものだったかを知るには、明治の文豪・国木田独歩の短編小説『湯ヶ原ゆき』を読むのがいい。品川駅から汽車に乗り込み、国府津駅で小田原電気鉄道の電車に乗り換え、さらに早川口で人車に乗り換えて湯河原に向かう道中の様子が活写されている。
また、人車の客車を実寸大で再現している人がいる。小田原市根府川で「離れのやど 星ヶ山」を営む内田昭光氏だ。
実際に再現された木造の客車を押してみると、予想以上に重たい。この客車を坂道で押し上げる車夫たちは、どんなに大変だったことだろう。しかも、人車鉄道はしばしば脱線・転覆事故を起こしたらしい。そんな危ない車両に乗り込むのは、当時の人々にとってもスリリングだったかもしれない。「かながわ鉄道廃線紀行」では、国木田独歩の小説を軸に、人車鉄道の廃線跡をたどっていく。
【3】湘南軌道(湘南軽便鉄道) -葉煙草を運んだ軽便鉄道-
神奈川県の鉄道路線図を見ると、南北のラインを結ぶ路線が非常に少ない。とくに神奈川県中西部の平塚市北部や中井町付近には、鉄道空白地帯が広がっている。
いまから1世紀ほど前、このエリアを縦断する軽便鉄道が走っていた。現在の秦野市から中井町を経て、東海道線の二宮駅までを結んだ湘南軌道である。
この小さな軽便鉄道は、1906(明治39)年8月に開業した湘南馬車鉄道を前身とし、1913(大正2)年2月に動力を蒸気機関に変更。社名を湘南軽便鉄道、さらに湘南軌道と変えつつ、秦野の物産品である葉煙草(はたばこ。刻みたばこの原料)や落花生を運んだほか、沿線の人々や大山への参詣客の足でもあった。
昭和の初めの頃まで、わりと好業績だったというが、1927(昭和2)年を境に利用者が激減し、やがて廃止に追い込まれる。業績悪化の理由を探っていくと、興味深い事実にたどり着いた。