アフリカに稲作を広めた日本人
みなさんは「ネリカ」をご存じだろうか。この名はNew Rice for Africa(アフリカのための新しいコメ)の略語で、サブサハラアフリカ(以下、アフリカ)で植えられている稲の品種を指す。1992年に西アフリカ稲開発協会(現アフリカライスセンター)で育成が開始、JICA(国際協力機構)がその普及に大きく関わった。
アフリカで今日、ある程度稲作が広まっているのは、ネリカのおかげだと言ってもよいだろう。そのネリカ普及のきっかけを作ったのが、JICA稲作上級技術アドバイザーの坪井達史さんだ。
ネリカは、アフリカ稲作の救世主
坪井さんが普及に尽力したネリカの最大の特長は、水稲ではなく「陸稲」であることにある。実はネリカは水稲の品種も開発されたが、坪井さんによれば、アフリカでは断然陸稲のほうが育てやすいそうだ。「水田での稲作だと、初期費用が膨大であるほか、苗を上手に作って、代かきした田んぼに植えていかなければなりません。日程的にも技術的にもいろいろな面で経験が必要ですよね。しかしネリカは、畑を耕して種をまいて土を掛けて雨を待てばいい。トウモロコシを作る延長で作れるんです」
しかも、トウモロコシや大豆といった畑の作物が過湿のために育たない低湿地にも植えられる。坪井さんによれば、アフリカには2億ヘクタールあまりの低湿地が眠っており、そうした場所の多くは畑作に不適として放置されてきたとのこと。ところがネリカであれば「10センチ、20センチ程度であれば水没しても問題はない」ので、その点にも利があると言えそうだ。
1人の情熱が、日本政府を動かした
「アフリカ」と「稲作」が結びつかない読者も多いのではないだろうか。実際21世紀に入るまで、多くのアフリカの人々にとって稲作は遠い国の話だった。そうした状況を一変させたのがネリカである。
そもそも日本がアフリカの稲作を支援しはじめたのは1970年代後半。当初は水稲ばかりを支援していた。しかし「1ヘクタールの水田を作るためには2万ドル(約300万円)くらいかかる」(坪井さん)こともあり、稲作の普及は遅々として進まなかった。1990年代に入り、JICAは稲作支援をやめてしまうのではないかという声も聞こえてきたくらいだと坪井さんは振り返る。
そんな中、歴史の表舞台に突如として上がってきたのがネリカだ。1992年、西アフリカでイネの品種改良に取り組んでいた研究者、モンティ・ジョーンズ博士のもとを訪れた際、坪井さんはアジアイネとアフリカイネの交雑種ができたと報告を受けた。「当時の通説では、アジアイネとアフリカイネを交配しても、コメが実らない不稔(ふねん)になるはずでした。ところが実際に見せてもらった交雑種には、たった3粒だけでしたが、確かに実っていたんですね。そこから彼のところには月に1回くらい通うようになり、『生育が旺盛だね』とか『穂が大きく粒数が多いね』と意見交換をしていくうちに、選抜が進んで徐々に品種として使えるようになっていったんです」(坪井さん)
ネリカの可能性を自分の目で確認した坪井さんは、「アフリカの稲作支援はネリカの普及だ」と確信したという。一部の人からは無視され、一部の人には「陸稲なんて……」と猛反対されつつも、「やってみなければ分からない」と主張しつづけた結果、日本による資金拠出にこぎつけた。2002年には南アフリカで開催された環境開発サミットにおいて小泉首相(当時)がネリカ普及について声明を発表し、日本のネリカに対するスタンスが固まる。
日本政府を動かした坪井さんは、自らウガンダに赴きネリカ普及の拠点を設置。青年海外協力隊員とも連携しつつ、東南部アフリカ11カ国へのネリカ普及に尽力する。「最初は協力隊員数人に研修を受けてもらって、農家と一緒に種まきをしてもらうことから始めました。少しずつ成果が出てくると手を挙げてくれる隊員も増えてきて、気づいたら350人の隊員が稲作支援に携わっていました」と坪井さん。こうしていつの間にか日本国としての活動に幅を広げていったそうだ。
アフリカのコメ生産を再び倍増させられるか
坪井さんは70歳を超えた今でも、ネリカ普及に精力的に関わっている。坪井さんに刺激される形で、JICAの青年海外協力隊や専門家の人々も普及活動を行っている模様だ。
それに加えてJICAは、2008年から「アフリカ稲作振興のための共同体(CARD)」を立ち上げ、コメの生産量倍増に取り組み、実現させた。そこにネリカが果たした役割は非常に大きいものの、新たな課題も生まれたと坪井さんは話す。「2018年までの取り組み“CARDフェーズ1”では、ネリカを普及させることで稲作面積を増大させてきていました。しかし初めて稲作をする農家が多かったこともあり、単位収量は当然ながら低かったんです」
現在のところ、アフリカにおける稲作の収量は1ヘクタールあたり2トン程度で、世界平均の半分くらいだと坪井さんは言う。
2019年から始まったCARDのフェーズ2ではさらなる生産量倍増を目標に掲げており、稲作の栽培面積をさらに広げるのと同時に、平均収量の増加にも取り組まなければならない。坪井さんは、「稲作は、マニュアルを配ればできるというものではありません。僕たちが農家のところに行って一緒に汗を流す大事さを忘れてはいけない」と話す。
ネリカの立ち位置は今後とも変わらないと坪井さんは考えている。耕作可能地域が広く、バナナやトウモロコシと比べて圧倒的に高く売れるネリカは、農家にとっての希望だと言えるだろう。「アフリカの稲作の先は長い。中途半端に終わらせるのではなく、長い目で見て継続して支援することが大事だ」。坪井さんはそう締めくくった。
坪井さんの次の世代もアフリカで稲作支援にあたる
坪井さんの弟子にあたる松本俊輔(まつもと・しゅんすけ)さんにも話を聞いた。松本さんは農学を専門とする博士で、10年以上、アフリカの各国で坪井さんと一緒にネリカの普及に尽力してきた。
松本さんにネリカの魅力を聞いたところ、その一つとして栽培期間の短さを挙げた。「播種(はしゅ)から100日程度で収穫できることもあります」とのこと。病虫害への耐性も含めて、過酷な環境の中でも育てられる点にネリカの強みがあるようだ。
松本さんが実際に普及を進めている中で、ネリカの意義を感じることも多かったのだという。「ネリカは畑で育つので、初めて稲作をする農家さんでも育てやすいんです。ネリカ栽培で稲作に触れて、感触をつかんだ農家さんが水田に移行することもあります」。収量・単価ともに高い水稲栽培への足がかりとして、まずは育てやすいネリカに挑戦する農家もいるようだ。
国際協力について、松本さんは「お金をただ配ったり、ネリカの魅力を口で説明したりするだけでは、アフリカの研究者や政府の人の信用は得られません。実際に私たちが現地でネリカを植えて、優れた品種であることを身をもって実感してもらうことが大事」だと言う。一方で一度信用してもらえれば、スピーディーに事が運ぶことがアフリカの良さだとのこと。ネリカをはじめとした稲作支援を通じて、農家の収入向上に貢献できることや国全体を巻き込んでプロジェクトを遂行できることが国際協力のやりがいだと話してくれた。
坪井さんや松本さんによるこうした支援は、日本のプレゼンス(存在感)を増加させることに加えて、アフリカの人々の生活向上にもつながっている。農家の収入向上により貧困や飢餓を削減させることは、国連が掲げるSDGsにも貢献するものだ。ネリカ普及をはじめとした日本の国際協力は、日本にとってもアフリカにとっても価値ある活動だと言えるだろう。