脱サラして、有機栽培の世界へ

雲英さんは、飛騨市内の有機農家グループである「飛騨V7」のリーダーを務める飛騨市きっての有機栽培農家だ。自身が経営する「ありがとうファーム」では、飛騨の自然や栽培する野菜に「ありがとう」の思いを込めて、トマト、コマツナ、ナスなど季節の野菜を中心にさまざまな種類の野菜を栽培している。
有機JAS認証の取得やV7での活動など、積極的に活動をしている雲英さんだが、意外にももともと農業に関心はなかったという。

ありがとうファーム代表 雲英顕一さん(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)

雲英さんが育てたナス。有機JAS認証を取得し、細心の注意を払って栽培している(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)

「大学を出た後は一般企業に就職して、農業とは無縁の生活でしたね。でも20代後半の時に環境問題や食料廃棄に問題意識を持つようになって、自分でもできることをやろうと思ったんです。最初は野菜の宅配サービスを消費者として利用していたんですが、次第に生産者として農業に関わっていきたいと思うようになりました。そこで、千葉に約30アールの田畑を借りて、コメと野菜の有機栽培をスタートしたのが就農のきっかけですね」(雲英さん)

平日はサラリーマンをしながら、週末に農業をする生活を5年続けたという雲英さん。地域にもなじみ、障がいのある子どもたちに農業体験をしてもらうイベントを企画するなど、精力的に活動していた。

3.11を契機に、飛騨へ移住

しかし2011年、東日本大震災。雲英さんの畑や地域全体も震災による影響を受けた。
「ちょうど育苗をしていた時期でした。今までそんなことは一度もなかったけど、3.11の時、苗を枯らしてしまった……。ここでやっていく気持ちが途切れてしまったように思いました」

農家である以上、農作物を栽培し販売しなければ収入を得られない。そこで、以前、名古屋のマルシェに出店した際、知り合いになった高山のコメ農家に連絡を取った。
「飛騨地域に絞って農地を探すことにしました。この時、飛騨市がとても親身に対応してくれたんです。住む場所や畑をすぐに紹介してくれたのは大きかったですね」
そして、飛騨市への移住を決断。飛騨でも有機農業に取り組むことにした雲英さんは、2011年の5月には移住とともに作付を開始し、新天地での農業が始まった。

飛騨市は、岐阜県の最北端に位置し、深い山々に囲まれた自然豊かな環境だ。面積の93%が山地で、降った雨や雪が山に浸透し、奇麗な水が湧く。一方で農業に適した平地は少なく、大規模農業には向いていない。雲英さんは「農業1本で生活するというより、農業+好きな仕事で暮らしていくにはぴったりな場所ですよ」と話す(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)

V7の始まりは、飛騨の人たちへの感謝の思い

飛騨での活動が次第に軌道に乗るにつれ、雲英さんの心を占めるようになったのは、移住にあたって手厚いサポートをしてくれた飛騨市のことだ。
「親切にしてくれた飛騨の人たちに何か恩返しをしたい」
そう思うようになった頃、環境と人のあり方を考えるNPO法人Earth as Motherの活動を岐阜で始めた。

時を同じくして、近所に住む飛騨市農林課の方から雲英さんに声がかかった。
「飛騨市内に有機農業をしている人が何人かいるから、一緒にやってみたら?」
この声かけをきっかけに、2015年3月、Earth as Motherの支援のもと、有機農業を活用した街づくりや食農教育を行う団体「飛騨市有機農業推進協議会」が発足した。

「最初は3人から始まりました。最初は固い名前でやっていたんですけど、メンバーが6人になった時、農林部の麻生さんがV6(ベジタブルシックス)でいこう!と命名してくれました。VはVegetableの頭文字です。今は7人になったのでV7。人数が増えるごとに名前もバージョンアップしていきます」(雲英さん)

V7は、困った時に助け合える仲間たちでもある。有機栽培は栽培方法が確立していない部分もある。一人では行き詰ってしまうことも、メンバー同士で解決策を考えられるのは、有機栽培の難しさをお互い理解しあえるメンバーならではだ。また、飲み会を開いて親睦を深めるなど、普段の暮らしの中にもV7は息づいているようだ。
「一人ではできないことも、メンバーと協力すれば成し遂げられるんです」(雲英さん)

飛騨市有機農業推進協議会は「環境保全循環型農業の普及啓もう等を通じて、産業の活性化と全ての生き物が自然と共生する豊かな社会の実現を目指す」ことを共通の目的としている。個性豊かな自然栽培農家や有機農家が、この考えに賛同しながら、普段はそれぞれの価値観で日々の暮らしを紡いでいるが、困った時には助け合える仲間たちでもある(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)

有機野菜によって、飛騨に新たな付加価値を生み出すV7

V7は有機栽培に専念するだけでなく、有機栽培に関する知識共有のほか、共同でマルシェに出店をしたり、飛騨市内や都内飲食店のレストランでのイベントに参加したりするなど、広報的な活動も担う。

●「飛騨市ファーマーズキッチン」
首都圏のシェフや料理家が、V7の野菜を使ったメニューを都内レストランにおいて提供。V7の新鮮野菜も店頭販売。
●「飛騨市まるごと食堂」
都内と飛騨市内で開催される「飛騨市まるごと食堂」では、V7をはじめとする飛騨市内農家と都内飲食店によるスペシャルコラボメニューを期間限定で提供。

上記はほんの一例だが、さまざまなアプローチから飛騨市有機野菜のアピールに尽力している。
「飛騨市としても、今後、有機野菜をさらにアピールしていきたいと考えています。有機野菜は収量が安定せず、形もまちまちなので流通に乗りづらい。行政として付加価値を生み出して、飛騨市の有機野菜を広く周知していきたいですね。その結果、全国から飛騨市に人が集まる将来像を描いています」(飛騨市農林部 農業振興課 担い手支援 葛谷智徳さん)

飛騨市農林部 農業振興課 担い手支援 葛谷智徳さん

飛騨市にとってV7の活動は、飛騨産有機野菜の広報にとどまらない。就農を考える人たちにとって、V7は就農後の未来予想図でもある。今後は就農イベントでも、V7とともに飛騨市への新規就農を呼びかけていくという。

直売所で有機野菜のプロモーションを行う雲英さんたち。市内はもちろん、東京などのイベントに参加することもある(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)

さまざまな価値観、ライフスタイルの農家が集まっている。それがV7

一般的な生産部会では、農業が常に中心にあり、規格に合った作物をいかに効率よく生産できるかが焦点となる。しかしV7は、メンバー一人一人が生産する農作物、栽培のこだわり、暮らしの中に息づく農業のスタイルなど、飛騨と有機野菜の魅力を地域内外へアピールすることを大切なテーマとしている。V7の生みの親でもある飛騨市農林部 食のまちづくり推進課 麻生貴秀さんはいう。

「飛騨市は雪深いところで、冬の農閑期が長いんです。一年を通して農業をすることができません。その一方で、農業ができない時期があるからこそ、その時間を活用して、生活を楽しむ、新しいことを生み出す、そういった時間の使い方ができるともいえます。単に有機農家が集まっているのではなく、さまざまな価値観やライフスタイルの農家が集まっている。それがV7なんですよ」(麻生さん)

飛騨市農林部 食のまちづくり推進課 麻生貴秀さん

雪に包まれる長い冬。農閑期ではなく、農と暮らしが融合する時間

V7のメンバーは、冬の間、どんな暮らしをしているのだろうか。
「コメ農家はみそや甘酒づくりに時間をかけています。それ以外にも、農家カフェをやったり、冬は和紙職人やスノーボードインストラクターをしていたり。地域のコミュニティビジネスや小水力発電などを手掛けるメンバーもいます。

農業もやりたい、好きなこともやりたい。理想の暮らしを追求しながら生活できる場所がここにはあります。V7メンバーが作り出す豊かな農産物、メンバー一人一人のライフスタイル、農と暮らしが融合する彼らの新しい価値観。これらをフックにして、地域内外に飛騨の農業を広く知っていただくことを意図しています」(麻生さん)

山中和紙を漉くV7メンバーの長尾さん。冬の間は和紙職人として地域伝統の和紙を作り、販売している(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)

トマト、トウモロコシ、大豆などを栽培する石橋さんもV7メンバー。自身が経営する農家レストランで、厨房(ちゅうぼう)に立って腕を振るう。地場産の特産品と有機野菜を使った料理は好評を呼んでいる(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)

無農薬・無化学肥料・不耕起で野菜を栽培している井関さん。冬になると、スノーボードインストラクターとして多くの観光客にスノーボードを教えている(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)

個性豊かなV7メンバーを紹介!

自然に、ありがとう。「ありがとうファーム」

◯雲英顕一さん
雲英さんはV7の会長として、環境に優しい農業に挑戦している。
また、長期間引きこもり状態にある方を受け入れ、農業を通じた社会復帰支援なども行っている(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)。
<栽培野菜>トマト類・コマツナなど。

イケメントマト農家! 「長九郎農園」

◯松永宗憲(まつなが・むねのり)さん
松永さんは飛騨の雪解け水を使って、愛情たっぷりに農業に取り組む好青年。
見た目や味が変わらなくても、愛情なく育てた作物を食べていただくのは、農家として誠意がないと思う。自分たちが楽しんで栽培することが、長九郎農園の心得だ(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)。
<栽培野菜>トマト・ミニトマト類

農家で料理人! 「石橋自然農園」

◯石橋智(いしばし・さとし)さん
標高1000メートル近い高地で野菜を栽培する石橋さん。
楽天ふるさと納税返礼品 野菜部門全国1位を獲得したトウモロコシや、幻の大豆といわれるさといらず大豆を栽培している。
また自身で農家レストランを経営し、コース料理を提供している(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)。
<栽培野菜>トマト・ミニトマト類、トウモロコシ、さといらず大豆など

自然栽培の種取り職人! 「ソヤ畦畑(うねはた)」

◯森本悠己(もりもと・ゆうき)さん
飛騨在来の豆類をはじめ、国内外の固定種・在来種を中心に季節の野菜を約50品目栽培する森本さん。自家採種にこだわり、地域にあった野菜栽培を心がけている。
冬になると、栽培した青大豆や丹波黒豆を使ったパウンドケーキを自ら作って販売する(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)。
<栽培野菜>ズッキーニ、鈴ピーマン、万願寺とうがらし、ナス、白たまご(インゲンの一種)

和紙職人、そしてトマト農家! 「長尾農園」

◯長尾隆司(ながお・たかし)さん
有機農法でトマトをはじめ、万願寺とうがらしやほおずきを栽培している長尾さん。
農閑期の冬には、地域に800年前から伝わる山中和紙を作る和紙職人として活躍している(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)。
<栽培野菜>トマト・ミニトマト類、万願寺とうがらし、ほおずきなど

コメや大豆を極めたい! 「サノライス」

◯佐野朋之(さの・ともゆき)さん
耕作放棄地となった田畑を借り受け農業を営む佐野さんは、元バンドマン。
手間ひまかけておいしいおコメを作っている。農閑期には栽培した大豆を使ってみそづくりも行っている(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)。
<栽培野菜>コシヒカリ・ササシグレ、大豆、など

自然栽培に挑戦! 「井関農園」

◯井関貴文(いせき・たかふみ)さん
無農薬・無化学肥料・不耕起で野菜を栽培しているという井関さん。
栽培のほかにも、子ども向け農業体験などのイベントも行っている(写真提供:飛騨市農林部 食のまちづくり推進課)。
<栽培野菜>トマト・ミニトマト類、ナス、万願寺とうがらし、豆類など

飛騨の農業コミュニティに、有機農家を増やしたい

雲英さんたちは、地域の農業コミュニティにさらに貢献していきたいと考えている。

「環境や社会福祉の問題、農業人口の減少など、社会にはさまざまな問題が山積しています。飛騨でも同じです。今後は私たちの活動に賛同してくれる仲間をさらに増やして、有機農業をしながら地域を作り上げる意識を持つ、そんな農家を増やしていきたいと思っています」(雲英さん)

V7はもともと、有機農業を広めることで、未来の世代に緑豊かな環境を残したいという雲英さんの思いでスタートした団体だ。有機農業の技術向上や啓蒙活動、飛騨有機野菜のPRなど活動内容は多岐にわたるが、行政と生産者の柔軟な連携は注目に値する。有機農業を活用しながら街づくりに取り組む雲英さんたちの挑戦は、まだ始まったばかりだ。