1970年代後半から80年代にかけて名将・西本幸雄が率いた近鉄バファローズの主力選手のひとり、平野光泰が兵庫県姫路市内の病院で他界した。9月9日、午前5時20分のこと、享年74。

  • 大舞台に強かった漢、平野光泰。リードを許しベンチが暗くなりかけた時、幾度も彼のバットが火を噴いた(写真:近鉄バファローズ大全)

野球に対して、人一倍熱い漢だった。昭和の時代に長きの間、「お荷物球団」と呼ばれ続けた近鉄バファローズが初めてのリーグ優勝を果たした1979年の平野の躍動、そして彼の執念が起こした奇跡を振り返る。

■型破りのトップバッター

「ガッツマン、ガッツマン、平野! ガッツマン、ガッツマン、平野!」
1977年の途中から、80年代前半にかけて近鉄バファローズの1回の攻撃は、スタンド応援団からのこの掛け声で始まっていた。

平野は「らしくない」トップバッターだった。
足は速かったが、選球眼に優れた確実性のある打者とは言い難い。ボールを見極めようとするタイプではなく、打てるボールは積極的に打ちに行く。時には大ヤマも張り、クソボールを強振することもあった。長打力があり、ウリは思い切りの良さ、どちらかと言えば5番打者タイプだったように思う。

しかし、監督の西本幸雄は平野を1番打者に据えた。型破りではあったが起用の理由はよくわかる。平野が最初に打席に立つとチームが勢いづくのだ。闘志満々にボールに向かっていく姿勢が、その日のスターティングメンバー全員に伝わるのである。「ガッツマン」と呼ぶに相応しい男だった。

明星高校時代はピッチャー。
3年生時には強豪校揃いの大阪府大会を勝ち抜き、春・夏連続して甲子園の土を踏んだ。卒業後、ノンプロチームのクラレ岡山に入り、この時に外野手に転向している。そして、71年秋のドラフト会議で6位指名を受け近鉄に入団した。

入団当初は、それほど目立った選手ではなかった。何しろ71年秋のドラフトは近鉄の大豊作。1位が佐々木恭介で2位は梨田昌崇、4位に羽田耕一がいたのだ。ルーキーシーズンは1軍で3試合に出場したのみ、その後も5年間は1軍と2軍を行き来している。
頭角を顕したのは、背番号が「37」「22」を経て一桁の「9」になった入団6年目。77年シーズンの途中から「1番センター」に定着した。

近鉄一筋の通算成績は、14シーズンで1183試合に出場、打率.264、107本塁打、423打点、106盗塁。数字だけを見れば、特筆するものではなく、打撃タイトルも一度も獲得していない。だが平野は、大舞台にとてつもなく強い男だった。
「パ・リーグ、その中でも弱かった近鉄は人気がなかった。だからスタンドはいつもガラガラ(笑)。だから(大一番の試合で)お客さんがいっぱい入ってくれると嬉しくて、特に燃えたんですよ」
そう話していた平野は、80年プレーオフのMVP、同年の敗れた日本シリーズでもひとり気を吐き、優秀選手に選出されている。オールスターゲーム(80年の第2戦)で決勝ホームランを放ちMVPに輝いたこともあった。

  • 勝負強さが持ち味、「ここぞ!」の場面での活躍が目立った平野光泰。記録よりも記憶に残るガッツ溢れるプレイヤーだった(写真:近鉄バファローズ大全)

■ロッテベンチに殴り込もうと

彼の幾多の活躍の中で、もっとも印象深いのは近鉄が初めてリーグ優勝を果たした79年シーズンだろう。
この年、近鉄は開幕ダッシュを決めいきなり首位に立ち、なんと5月29日という早い段階で前期優勝へのマジックナンバー「18」を点灯させた。
これで前期優勝は確実かと思われたが、そう上手くはいかない。チームは悲運に見舞われた。

マジック点灯から11日後の6月9日、エースの鈴木啓示が背筋痛で1軍登録から抹消される。さらに、この日に主砲も失った。
ロッテ・オリオンズの投手、八木沢荘六から”赤鬼“チャーリー・マニエルが顔面にデッドボールを喰らい顎を骨折したのである。
口から血を流しながらも八木沢に向かっていこうとしたマニエルだったが、激痛に見舞われグラウンドに倒れ込んだ。
スタンド、近鉄ベンチが騒然となる中、ロッテベンチから心無い野次が飛ぶ。
「デッドボールくらいでガタガタ言うな!」

これに平野が怒った。
バットを手に駆け出しロッテベンチに殴り込もうとしたのだ。周囲にいた選手たちがカラダを抱えて平野を止める。それでも藻掻きながら凄まじい形相で「許さん!」と絶叫していた。
彼にとって、野球はスポーツなどではなかった。グラウンドは、生き抜くための闘いの場だったのである。

その直後、今度は平野がアクシデントに見舞われた。
盗塁を試みた際に左肩を脱臼、マニエルとともに戦線離脱を余儀なくされた。
エース、4番打者、斬り込み隊長を一気に欠いてしまった近鉄は、ここから失速。連敗する中でマジックは消滅し2位につけていた阪急ブレーブスに追いつかれてしまう。さらには逆マジックも灯されてしまった。

縺れにもつれた79年パ・リーグ前期の優勝争い。
結局のところ、南海ホークスとの最後の3連戦が勝負となった。優勝するための条件は3連勝、もしくは2勝1分け。1つでも負けたら優勝は阪急にさらわれてしまう。
平野は、肩の痛みに耐えながら戦列に復帰した。
そしてガッツマンが、この「絶対に負けられない闘い」で奇跡を起こす─。

『近鉄球団をリーグ初優勝に導いた、平野光泰「執念のバックホーム」』に続く>

文/近藤隆夫