大河ドラマ『どうする家康』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)の第33回「裏切り者」では、長年、徳川家康(松本潤)に仕えてきた古参の家臣・石川数正(松重豊)が出奔。向かった先は、豊臣秀吉(ムロツヨシ)の元だった。
■石川数正の出奔は、保身のため or 家康を守るため?
交渉に出向くたび、秀吉から家臣にならないかと熱心に誘われていた数正。いろいろ気難しい性格とはいえ、いや、だからこそ秀吉に寝返るなんて信じられない……。史実でも数正の心変わりは、家康を見限ったのか、守るためだったのか、謎とされている。『どうする家康』では数正の出奔をどう描くか、作家の腕の見せ所である。第33回までの物語から数正の心情を考えてみたい。
数正の秀吉への評価は、庶民に愛されていること。元々庶民の出なので、庶民受けがいい。民衆に支持されることは強いと数正は思っている。これは、いわゆる、視聴者の“豊臣秀吉”像である。これまでの秀吉はこの庶民感覚で視聴者に愛されてきた。ただ、『どうする家康』の場合、それが素ではなく、狙ってやっているように描いている。
秀吉は庶民の出だから庶民感覚は理解しているのでそれをうまく利用して民衆の心を掴んでいる。第33回では、調子に乗っているところを寧々(和久井映見)に窘められ、「みっともねえなまりを忘れんようにせんと」と反省する。政治家や芸能人にもこういう人はいる。元は田舎の出だったり貧しかったりしてそこから成り上がったことで同じような環境の人たちに憧れられるのだ。
地位や名誉や財産を得ると、生活が変わるし気持ちも変わるものだが、それが如実になると庶民にそっぽをむかれるので、できるだけ抑制し庶民のように振る舞い続ける。それが人気維持の秘訣である。というようなことを数正は感じ、それがこれからの世の中には求められているが、家康にはできないだろうと数正は思ったとは考えられる。また、家康の息子・於義伊(岩田琉聖)が秀吉の養子という名の人質になり、自分の息子をついていかせることになったこととも関わりがあるのではないだろうか。
迷う数正を、酒井忠次(大森南朋)、家康が次々に引き止める。どうしようと迷った末、家康に「わたしはどこまでも殿と一緒でござる」と決意を語るが、それもつかの間、妻・鍋(木村多江)と家来を連れて岡崎を出る。
はたして、数正が秀吉の元に行ったのは、保身のためか、はたまた、家康を守るためか。
■2度言った「わたしはどこまでも殿と一緒」の真意とは?
去り際、数正は「わたしはどこまでも殿と一緒」という台詞をもう1回、念を押すように言った。「決してお忘れあるな」と前置きもして。松重は、松本市公式チャンネル「松本のシンカ」の「松重豊さんが松本城と大河を語る!市長との対談@松本城」で、出奔のときの最後、台詞を加えたと語っている。でもそれは見た人の解釈に委ねられるようなものだったと。
台本を元にして描かれたノベライズでは、「わたしはどこまでも殿と一緒」を1回しか言っていないため、2度目を松重が加えたのかなと推測できる。この台詞は、家康を油断させるための嘘とも思えるが、2度言うことで、嘘をつきながら、本当のことを言っている可能性が強まる。そう思うと、ちょっと泣けてくる。
もしも付け加えた台詞が、この繰り返しであったとしたら、松重はとても上品な俳優だなと感じる。勝手に台詞を創作するのではなく、作家の書いた台詞をもう一度繰り返すことで、作家をリスペクトしたうえでさらに作家の思いを増幅させたのだから。
古沢良太氏の脚本は本音をベタベタに語らない。ベタベタにストレートのようで、その裏に何かありそうな気にさせるのだ。そこが良さなのだが、ともすれば何を考えているのかわからない、あるいは、表層的と誤解される場合がある。たとえば、松重が以前出演した古沢氏の『デート~恋とはどんなものかしら~』(15年 フジテレビ系)は、独自のルールにこだわる個性的な娘・依子(杏)と、同じく独自のルールから一歩も出ようとしない高等遊民・巧(長谷川博己)がいかに近づいていくかを描いたラブストーリーだ。依子と巧はどちらもコミュニケーションが苦手で、言うべきときに本音がうまく言えず、言わなくていいときに自我を主張し譲らない。松重は、不器用なふたりをはらはら見守る、依子の父・俊雄を演じた。
『どうする家康』の登場人物も、『デート』と同じく本音と建前がうまく機能していない。家康と信長(岡田准一)、家康と数正……。誰もが本音を言えず意地を張っている。不器用な人たちのなかで秀吉だけが表裏をうまいこと使い分けている。本音がうまく機能しない人たちを描く古沢氏の世界観をよく知っている松重だからこそ、数正の、嘘のようで本音という、絶妙な台詞を際立たせることができたのではないだろうか。すごく台本を読み込んでいると思う。
■ひしひしと伝わって来た数正の孤独
数正の本音はわからないが(第34回でどれほど明かされるか気になるところ)、簡単に本音を口にしない人物の孤独だけはひしひしと伝わってくる。
松重豊は孤独が似合う。『デート』でも妻に先立たれ、就職した娘とは別々に暮らしていて、いまは広い家にひとり、という設定で、派手な見せ場はなにもかかわらず、松重は、娘を心配する生真面目な中年を立ち姿だけで十分表現していた。ちなみに、このとき亡くなった妻役が和久井映見であった。
孤独といえば、彼の出世作『孤独のグルメ』(12年~テレビ東京系)。個人事業者の主人公・井之頭五郎が仕事の合間にひとり、飲食店にふらりと立ち寄り食事をしながら、脳内で感想を語るもの。ここでは、五郎は他者から見たら何を考えているかわからないが、モノローグで延々語っているので、視聴者には心情が丸わかりである。だがモノローグを聞かずとも、松重の豊かな表情と食べっぷりで、いかに食事が美味しいかわかる。
『どうする家康』第33回の、家康との別れのやりとりも、眼がものすごく饒舌に物語っていた。出奔することのみ隠して、あとはたぶん、本音。でも隠していることがあるのと、それゆえ、本音が単なる本音にならない複雑さ。それが瞳の動かし方に全部詰まって見えた。真実は自分にしかわからない孤独。第34回で、数正の瞳をぐりぐりと動かしている、心の内がどれくらい明かされるのか。本編終了後の紀行コーナー「どうする家康ツアーズ」のナレーションは出奔しても連投するのか。気になってならない!
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