岩手県遠野市と聞くと、里山に伝わるカッパや妖怪などの民話を集めた「遠野物語」をイメージする人が多いのではないでしょうか。そんな遠野のもうひとつの顔が、ビールの原料「ホップ」の産地。このほど4年ぶりに開催された「遠野ホップ収穫祭2023」の数日後に遠野を訪れ、ホップ栽培の現場を見学することができました。
ホップ栽培60周年を迎えた遠野市
ビールの苦みと香りに、ホップは欠かせません。このホップの栽培に適した気候が北緯と南緯それぞれ35度~55度の冷涼な地帯で、代表的な世界の産地はアメリカやドイツ、チェコなど。日本ではホップ生産量の94%を、東北地方が占めています。なかでも遠野は国内最大級のホップの産地で、その栽培が始まったのが1963年。冷害に悩まされ作物がなかなか育たないこの地で、たどり着いたのがホップでした。ただ、この“未知なる作物”の栽培は決して順調とはいかず、台風や病虫害などの災害や危機にも直面。試行錯誤をする中で栽培方法を確立しながら、今年でホップ栽培60年を迎えました。
遠野の名がホップの産地として一躍知られるきっかけになったのが、2004年の「キリン一番搾りとれたてホップ生ビール」の発売でした。“岩手県遠野産ホップ使用”と銘打ち、パッケージに遠野の地名が入ったビールの登場は、ホップ農家はもちろん、地域にとっての希望の光に。以来、限定商品としては異例の発売20年目を迎えた同商品の累計販売数量は、3.5億本を突破するまでに。
日本産ホップの約7割を購入しているキリンと遠野市はこの商品を機に、2007年に遠野のTとキリンのKをとって名づけた「TKプロジェクト」を発足させ、ここから“ビールの里”構想がスタートしました。ホップ生産地としての知名度が劇的に上がったとはいえ、ホップ農家の高齢化や後継者不足、それに伴う収穫量の減少と、現在進行形で課題は山積み。
2016年に40軒ほどいたホップ農家は、今では20軒ほどまで減っているそうで、生産者が減ると栽培面積も減り、このままでは日本産ホップはいずれなくなってしまう……という危機感を、生産地とメーカーが共通で抱いています。
移住者はホップ農家、醸造家、ツアーガイドとして、地元の人たちと連携
「2016年に僕が遠野に移住して最初にやったのが、醸造所の立ち上げでした。ホップの産地でありながら、その当時は町の中に遠野のビールが飲める場所がなかったので、駅の近くに醸造所を作って、人とアイディアが集まる場所を創ろうと。ホップという資源で“新しいビールの文化”を立ち上げたいと、地域の人たちと一緒に連携しながらやってきて、地元の人にもたくさん飲んでもらいながら、5周年を迎えてなんとか続いています」と話すのが、“ビールを軸に社会課題を解決する”をミッションを掲げるブリューグッドの田村淳一さん。前職はリクルートで、SUUMOで新規事業立ち上げなどに携わっていました。
タップルームを備えたブリュワリー「遠野醸造」の立ち上げに始まり、ホップ農家や新たな移住者の支援、ビアツーリズムや収穫祭イベントの運営とPR活動、ふるさと納税を活用した収益確保のスキームづくりなど、「遠野のホップに関わることは、大体なんでもやっている」という田村さん。
この数日前には4年ぶりに「遠野ホップ収穫祭2023」が開催されたばかり。「ゲリラ豪雨やJRの計画運休などの課題はありましたが、週末の2日間で9,000人が遠野に集まり、みんなでホップの収穫を祝って楽しみました。ホップの収穫時期に全国から遠野に来て、ビールの楽しい思い出を作ってもらう。遠野のホップが大事なものだと体感してもらうことが、遠野のホップを守ることにつながります」と、村上さん。
単なる「ホップの里」では、原料を買ってもらったらそれで終わってしまう。大事なのは、たくさんの人たちに、実際に遠野に足を運んでもらうこと。ホップ畑や美しい里山、遠野の歴史と伝承、遠野産の美味しいグルメとともにビールを楽しみ、楽しい思い出を作ってもらう、そしてビールの里・遠野の“応援者”になってもらう――“ホップとビール”を軸にしたこの「ビールの里プロジェクト」は官民連携で、地元の人も移住者も含むさまざまなメンバーで構成され、「どうやってこの町を面白くするか」という議論を毎月行っているそうです。
「外からも移住者を呼び込みながら進めています。僕が遠野に来て以降も25人くらい、ホップとビールの仕事をするために移住して、ホップ農家をやったり、醸造家をやったり、ビアツーリズムのガイドやったりと、地元の人たちと協力しながらやっています」(田村さん)。
「持続可能なホップ農業」を目指す
こうして町が盛り上がってきても、ホップ農家の減少や、施設や機械の老朽化といった課題は残ります。生産者が減るとその分、修繕費など一人あたりの栽培コストも増える。夢を持って遠野に移住してきた新規就業者の中には、すでにやめてしまっている人もいるそうで、「日本のホップ栽培の各地で、『これ(施設や機械)が壊れると、なくなってしまう』というのが課題としてあり、農業の構造的な課題の解決が必要」だと田村さんは言います。
その課題解決のひとつとして取り組んでいるのが、ふるさと納税制度の活用と、寄付金付き商品や寄付付きツアーによる、財源確保のスキームです。たとえば遠野産ホップIBUKIを100%使用したクラフトビール「遠野麦酒ZUMONA」や、道の駅「遠野風の丘」を運営する遠野ふるさと商社が手がけるホップフレーバーの炭酸飲料「ホップソーダ」などの売り上げは、一部が寄付として還元される設計に。
集まった寄付金は、高騰する資材の購入費用の補助制度や、人手が不足する農家へのボランティア派遣、収穫量を増やすための土壌検査や、ホップ乾燥施設の改修工事費用に充てられ、“地域のファンが農業を支える”という図式になっています。ホップ農業の構造的課題を解決することで、新規就農者も経済的に自立できるモデルを実現する――これが、遠野が目指す「持続可能なホップ栽培」の第1フェーズなのだとか。
遠野産ビールの人気の高まりで、現在はビール不足で販売量を制限している状況のため、新たな醸造所の設立も計画されています。並行して、遠野オリジナルのホップの品種改良も進められ、新品種ホップも開発中。さらに今年から、ホップの新規就農者の募集も強化……と、「ビールの里プロジェクト」は精力的に進行中。次の世代にバトンタッチをしながら、ホップ生産量の増加を目指し、遠野を「日本産ホップの産業集積地」とする未来像を描いています。