テレビ新広島のドキュメンタリー番組『アイ アム アトミックボム サバイバー ~小倉桂子が伝え続ける理由~』が、6日(14:00~)に放送される(フジテレビは11日27:55~)。
被爆者の高齢化が進み、被爆者たちが「自分に残された時間」と対峙(たいじ)している中、2021年3月からカメラが追いかけたのは、小倉桂子さん(85)。英語で被爆証言をする数少ない語り部だ。今年5月、G7広島サミットで各国首脳との面会にひとりで臨み注目された。
小倉さんは、8歳のとき爆心地から2.4キロの牛田町で被爆。多くの被爆者もそうだったように彼女も長年、日本国内で自らの被爆体験については口を閉ざしてきた。過去を語ることは心をえぐられるような思いであり、家族への差別も恐れていたからだ。結婚して専業主婦として幸せに暮らしていた。
しかし、広島平和記念資料館の館長も務めていた夫が、平和宣言の草稿執筆中に急死。夫と交友のあった海外ジャーナリストからの後押しもあり、夫の遺志を継いで被爆証言者の通訳をするようになる。独学で必死に英語を学び直す日々、彼女の暮らしは一変した。
証言活動を始めた頃は通訳に徹していた彼女だが、ある時、広島を訪れた外国人から「通訳では時間がもったいない。質問をする時間がなくなるから、桂子の被爆体験を聞きたい」と懇願されたことをきっかけに、重い口を開くことに。それからは「見えない苦しみを伝えられるかもしれない」と、自らの被爆体験を伝えるようになった。夫の死後、年間2,000人のペースで約40年間、国内外へ発信を続けてきた。
番組スタッフが小倉さんと出会ったのは、新型コロナウイルスの影響で被爆証言者の伝える場がなくなっていた時のこと。そんな中でも、彼女は当時83歳にしてパソコンを勉強してウェブ配信を試みるなど、前向きに活動を続けていた。取材中には、小倉さんと共に被爆証言をしてきた著名な被爆者が次々と亡くなった。彼女自身も高齢になった中、残された時間に自分ができることを考え、「若い世代へバトンを託す」ために行動を起こす。
そして今年5月、G7広島サミットでの各国首脳への被爆証言、さらに電撃来日したウクライナのゼレンスキー大統領との面会が急きょ決まる。この歴史的瞬間に被爆者それぞれが思いを持つ中、彼女はこの大役を受けることに「荷が重すぎる」と葛藤した。それでも覚悟を決めてたったひとりで重責を担った3日間に密着。コロナ禍の2年半、被爆者・小倉桂子は何を思い伝えてきたのか、平和のバトンを渡された人たちは何を受け取ったのか。被爆者の今と継承を描く。
ナレーションを務める岡田将生は「僕は誕生日が終戦記念日で、いつか平和について自分にもできることがあれば何か作品として関わりたいなと思っていました。この作品では、小倉さんの気持ちをナレーションとして背負ってというか、寄り添って、この出来事を伝えたいという思いで今回のお話を受けさせて頂きました。ナレーターとして言葉を操るのはとても難しいことでした。だからこそ小倉さんがメディアの前でメディアの方々に『正しいことを伝えてほしい。メディアに関わる人間には責任がある』と伝えるシーンには、ものすごく重みを感じました。自分自身その重みをかみしめながらやろうという気持ちで臨んだので、この作品を見る方々にも本当の事実をかみしめながら見てもらえればと思います」とコメント。
石井百恵ディレクターは「小倉さんとの最初の出会いは、夕方ニュースの取材先に小倉さんが被爆証言に来られていたことでした。 その人間力と言葉の力に魅せられ、映像に残さなければという思いに突き動かされました。 取材を続ける中で小倉さんの側にいると、いつの間にか人が集まり、次から次へと何かが起こります。私は自然とそれを追わずにはいられませんでした。『私の役目は、若い人の心のろうそくに火を灯して、私がやらねばという気持ちを起こさせること』と小倉さんはいつもおっしゃいます。 私もいつの間にか、火を灯された一人なのだと思います。気が付けば番組になっていました。平和公園にある慰霊碑には"過ちを繰り返しませぬから"という碑文が刻まれていて、小倉さんたち被爆者は「もう誰にも自分と同じ思いをしてほしくない」と伝え続けてきました。しかし今、ロシアによるウクライナ侵攻が起こり、それが揺らぐ事態となっています。今こそ、見えない苦しみを抱えてきた被爆者の声に耳を傾けてほしいです。2年半の間、小倉さんは国内外でたくさんの平和の種蒔きをしてきました。小倉さんのメッセージを、番組をご覧になった皆さんにも受け取っていただきたいです。それをきっかけに、心に芽吹くものがあり、いつか花開くことを願っています」と話している。