「耳なし芳一」の話でも知られる琵琶法師。言葉としては広く知られている一方で、明治時代以降にその存在が急激に減少したこともあって、身近な存在であるとは言えません。
本記事では琵琶法師の詳しい意味や歴史、その役割を解説。『平家物語』との関係や、耳なし芳一のあらすじもまとめました。
琵琶法師とは
琵琶法師とは、日本で古くから演奏されている「琵琶」という楽器を演奏しながら、経文を唱えたり、さまざまな物語を語ったりする、目の不自由な僧侶や芸能者のことを指します。
ここでは、琵琶法師についてより詳しく見ていきましょう。
琵琶法師の歴史
琵琶法師という存在が誕生した経緯には諸説がありはっきりとしていませんが、平安時代には存在したとの記録があります。
琵琶法師は元々は、琵琶の伴奏に合わせて経文を唱える盲目の僧侶のことを言い、その後、琵琶の伴奏に合わせて物語を謡う盲目の放浪芸能者の流れが生まれました。
後者について、当初はさまざまな物語が語られていたようですが、鎌倉時代末期になると語るのは『平家物語』に限定されました。有名な「耳なし芳一」の怪談でも、芳一が語るのは『平家物語』です。そのため、琵琶法師=平家物語の語り手というイメージが定着しています。
琵琶の伴奏によって平家物語を語ることを表す、「平曲(へいきょく)」という言葉も生まれました。
その頃、当道(とうどう)という自治組織も結成されました。この際に多くの視覚障がい者が組織に加わったことから、琵琶法師は琵琶を使って弾き語りを行う、盲目の芸能者という色合いが濃くなりました。
江戸時代に入ると三味線の人気が出るものの、琵琶は幕府から式楽として保護されていたため、その文化は続きます。しかし当道制度は、明治時代に廃止されました。
現在、琵琶法師はほとんど存在しておらず、琵琶を使った平曲の文化も失われつつあります。
琵琶とは
琵琶は少なくとも奈良時代に日本に伝わり、江戸時代頃まで広く演奏される楽器でした。しかし、現在ではあまり目にする機会はないため、どのような楽器なのかわからないという方も多いのではないでしょうか。
琵琶とは、ペルシャ周辺発祥の楽器です。ギターや三味線などと同じように弦を弾いて音を出す撥弦楽器(はつげんがっき)であり、主に東アジアに広がり、日本でも定着しました。
琵琶法師の役割
琵琶法師は琵琶の奏者であるため、音楽家というイメージがあります。しかし、実際には物語の語り手という役割が大きなウェイトを占めているとも言えるでしょう。特に鎌倉時代末期以降は、『平家物語』の語り部という役割を担ってきました。
なお前述のように、元々は琵琶で伴奏をしながら経文を読誦(どくしょう)する僧も琵琶法師と呼ばれており、僧侶としての役割を担うこともあります。
この僧侶たちの文化は、現在でも九州などの一部地域でわずかながら残っています。
琵琶法師は全員盲目?
後に詳しく述べる「耳なし芳一」の話からも、琵琶法師は盲目というイメージが持たれています。実際に琵琶法師の多くは目の不自由な人でした。
しかし、盲目でなければならないという決まりはなく、中には目の見える琵琶法師も存在したとされています。
それぞれの時代の琵琶法師
すでにご紹介した通り、琵琶法師は平安時代頃から活躍するようになり、江戸時代頃までその組織や文化などは続きました。しかし、時代によって琵琶法師のあり方や立場は少しずつ変化しています。
ここでは、それぞれの時代の琵琶法師について詳しくご紹介します。
平安時代の琵琶法師
琵琶法師は、平安時代から活躍するようになります。この時代の琵琶法師は、琵琶を伴奏として経文の読誦などを行ったり、さまざまな物語を語ったりしていました。
当時流行していた琵琶という楽器を宮中のみでなく、民間に広げるといった役割も担っていたと言えるでしょう。
鎌倉時代の琵琶法師(『平家物語』とのつながり)
鎌倉時代末期になると、琵琶法師の自治組織である当道なども作られ、文化としてより明確に形作られるようになりました。僧侶以外の人も琵琶法師として数多く活躍するようになり、芸能従事者としての色合いがより濃くなっています。
そしてこの時代の琵琶法師とは切っても切れない関係にあるのが『平家物語』です。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」という『平家物語』の冒頭を覚えている人も多いでしょう。
それまでの琵琶法師はさまざまな物語のレパートリーを持っていましたが、鎌倉時代末期に入ると語られるのは『平家物語』に限定されるようになりました。
そのため、現在でも琵琶法師=『平家物語』の語り部というイメージが持たれています。この形が作られたのが鎌倉時代なのです。
江戸時代以降の琵琶法師
日本音楽の世界で存在感を放っていた琵琶でしたが、江戸時代に入ると三味線の人気が高まったこともあり、琵琶文化は徐々に衰退し始めます。
一方で、江戸幕府は琵琶を式楽として保護し、また当道の保護政策を行っていたこともあり、琵琶法師は主に江戸、京都で活動を続けていました。
このとき、平曲以外に三味線音楽や箏曲(そうきょく)を扱う琵琶法師も増え始めました。
琵琶法師は現在も存在する?
琵琶法師が活躍したのは、主に江戸時代までのことです。江戸時代においては、三味線の流行もあって琵琶法師は段々とその勢いを弱めていきました。
そしてすでにご紹介した通り、明治時代に入ると琵琶法師の自治組織である当道も廃止されたことによって、琵琶の演奏家そのものが激減し、琵琶法師もほとんど見られなくなっています。
現在は、平安時代以降の琵琶法師の組織、文化はほとんど失われてしまいました。その一方で、ごく少数ではありますが琵琶法師は現存しており、その心は受け継がれ続けています。
怪談として有名な「耳なし芳一」も琵琶法師
琵琶法師というと真っ先に耳なし芳一を思い浮かべる方も多いでしょう。ここでは、耳なし芳一について、概要やあらすじを紹介します。
耳なし芳一とは? あらすじも紹介
「耳なし芳一」は昔話、怪談として全国各地に伝わっている話です。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』にも収録されています。
細かい内容は諸説ありますが、基本的なあらすじは以下の通りです。
赤間ヶ関(現在の山口県下関)に、芳一という盲目の琵琶法師が住んでいました。彼は平曲が大層上手でした。
友人の住職に誘われて寺に住んでいた芳一。ある暑い夜、芳一が留守番をしていると、主に芳一を連れてくるように言われたという武士に声を掛けられ、立派な屋敷に訪れます。
そこで平家物語を弾き語ると、屋敷の者たちはひどく感動し、そして物語の悲しさにむせび泣きました。
芳一はこの後6日間、毎晩屋敷に来て演奏をするように言われます。しかし実は、その者たちは平家の亡霊であり、芳一は安徳天皇の記念の墓の前で演奏をしていたのでした。
そんな芳一の身を案じた住職は、芳一の体中にお経を書き込みました。しかし耳にだけ書きそびれてしまいます。
その夜、芳一を迎えに来た平家の亡霊に、芳一の姿は見えません。しかし耳だけは見えたため、亡霊は耳をひきちぎり、それを持って帰っていきました。
それ以来亡霊は芳一のもとを訪れることはなく、この不思議な話とともに、芳一の琵琶の腕前が各所に伝わりました。
この耳なし芳一の話は怪談の中でも特に有名なもので、伝説や伝承を語り継ぐ人々という琵琶法師のイメージを、現代に伝える役割も担ってきたと言えるでしょう。
歴史の貴重な語り手である琵琶法師
琵琶法師は、主に平安時代から江戸時代にかけて活躍した琵琶を演奏する語り部です。時代によってその役割や活動の方法なども変化しましたが、歴史の語り部として重要な役割を担ってきました。
現在ではかなり数は少なくなりましたが、歴史は受け継がれています。機会があればぜひ一度、その語りを聞いてみてはいかがでしょうか。