宮沢賢治は、37歳の若さでこの世を去っています。本記事では宮沢賢治はなぜ死に至ったのか、その詳細を時系列で追いながら、病が悪化した理由を考えていきます。
最愛の妹・トシの死因や、宮沢賢治は何をした人なのか、有名な作品についてもまとめました。
宮沢賢治の死因とは
宮沢賢治は1896年(明治29年)8月27日、岩手県の稗貫郡花巻川口町(現・花巻市豊沢町)に生まれ、1933年(昭和8年)9月21日に37歳の若さで亡くなりました。
その死因について、詳しく見ていきましょう。
宮沢賢治の死因は急性肺炎
宮沢賢治の死因は、急性肺炎であるといわれています。その詳細を時系列でみていきましょう。
まず1928年(昭和3年)、32歳のときに、急性肺炎となります。当初は胸部の写真に影が映る「両側肺浸潤」と診断されたそうです。
その後病床につくことが続きますが、1930年(昭和5年)、34歳になると病状がやや良くなります。
1931年(昭和6年)の2月には、東北砕石工場の技師となります。その傍ら、『風の又三郎』などの執筆にも精を出します。
ですが同年9月に発熱し、死を覚悟した宮沢賢治は、遺書を書きます。その後も病状は回復せず、11月には手帳にまるで自分を励ますかのように、あるいは自分の生涯の願いを言葉にするように、詩『雨ニモマケズ』を書き記します。
なんとか生きながらえた宮沢賢治は作品の執筆や推敲を続けますが、1933年(昭和8年)、37歳のときに、病状が悪化し実家で息を引き取りました。
その際、宮沢賢治は、熱心に信仰していた日蓮宗の法華経を1,000部印刷して知人に配布するよう、父に遺言したそうです。
当時、肺炎は死亡原因の第2位
そもそも肺炎とは肺に起こる炎症の総称で、原因は細菌やウイルスなどの感染によるもの、放射線や薬剤などによるものとされています。主な症状としては、発熱や咳(せき)、痰(たん)、呼吸困難などがあります。
宮沢賢治が亡くなった1930年代、肺炎は非常に恐れられている病でした。
厚生労働省の人口動態統計年報によると、1930年、1935年ともに、「肺炎及び気管支炎」は死因順位の第2位となっています。
肺炎が悪化した原因は、過労や栄養不足?
宮沢賢治が肺炎で命を落としてしまった理由については、今より医療が発展していなかったということもあるでしょう。
ですがそれ以外にも、宮沢賢治の努力家であり、また人のために労を厭わぬ性格が、過労を招いてしまったのではないかともいわれています。
宮沢賢治は前述のように、亡くなる直前まで執筆を続けた他、具合の悪い中で農民の肥料相談にも応じています。
また宮沢賢治は菜食主義だったときがあります。彼の残した有名な詩『雨ニモマケズ』の中にも「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とあります。
そういったことから栄養不足に陥り、体力が落ちていて、肺炎に打ち勝つことができなかったのでは、ともいわれています。
宮沢賢治の妹・トシの死因は結核
さて宮沢賢治には、大層かわいがっていた妹、トシがいたことも有名です。
トシは1898年(明治31年)11月5日生まれ。宮沢賢治にとってトシは、最大の理解者でした。
花巻高女の教師も務めたトシでしたが、1922年(大正11年)の11月27日、結核のために24歳にして亡くなりました。このとき宮沢賢治は26歳でした。
詩集『春と修羅』には、トシの死をうたった「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という詩が収められています。
宮沢賢治は「本当の幸せとは何か」「生きる意味とは何か」を生涯、考え続けました。これらの詩には、妹を思う気持ちとともに、そんな彼の人生観、死生観が込められていると言えるでしょう。
「永訣の朝」(宮沢賢治)の全文と現代語訳・意味を紹介! 詩の背景も解説
宮沢賢治とは? 生涯や代表作は?
宮沢賢治は、1896年(明治29年)に岩手県の稗貫郡花巻川口町(現・花巻市豊沢町)に生まれ、1933年(昭和8年)に37歳の若さで病により亡くなりました。
裕福な質屋・古着屋の長男として生まれた宮沢賢治は、浄土真宗の信仰の中で育ちましたが、中学卒業後に法華経(日蓮宗)の熱心な信者となります。
詩人や童話作家、教師、科学者、農業研究家、宗教家など複数の顔を持っていました。特に不作、不況にあえぐ農民に対しては、その生活向上のため、熱心に指導を行ったり相談に乗ったりしていました。
宮沢賢治は現在では、信仰に基づく壮大な宇宙観、農業や自然に対する思い、人間愛、献身性などから成る独自の作風が、多くの人に評価されています。しかし実は、生前に発行された著書は自費出版した『春と修羅』『注文の多い料理店』の2冊だけで、当時は世間に作品が認められることはほとんどありませんでした。
家業への反発、父との対立からの家出や愛する妹の死、自らの病との闘いなど、苦労の多い人生だったといわれています。
代表的な作品としては、病床に伏し自らの死を覚悟した宮沢賢治が、1931年(昭和6年)の11月の手帳に書き記した『雨ニモマケズ』や、最愛の妹、トシの死を自らが受け入れるために登場人物を重ねて書いたともいわれる物語『銀河鉄道の夜』などがあります。
37歳の若さで亡くなった宮沢賢治は、自らの人生観や死生観を作品に残した
自らを律し、人のために尽くす中で、人生とは何か、本当の幸せとは何かを常に追い求めた宮沢賢治。
37年という短い生涯ではありましたが、その熱く尊い魂は、数々の作品に今も生きています。
宮沢賢治の死因をはじめとして、彼の人生や背景を知った上で作品を読むと、彼が作品を通して人々に何を伝えようとしていたのか、より理解が深まるかもしれません。