◆和気優さん プロフィール
1964年栃木県生まれ。1993年にロックバンド「JACK KNIFE(ジャックナイフ)」のボーカル&ギターとしてメジャーデビュー。自らのバンド活動のほかアイドルグループTOKIOに楽曲提供も行い、「フラれて元気」は70万枚セールスとなった。1999年から少年院をバイクで訪問しライブを行う。そこで農業にいそしむ少年たちに出会ったことをきっかけに、千葉県でコメの栽培を始める。一方で都内で農をテーマにした「農民カフェ」を経営。2015年に大分県臼杵市に移住し、耕作放棄地を開墾して約2ヘクタールの「縄文ファーム」とゲストハウスやカフェを開く。現在は稲作の時期は農業に従事し、収穫後は軽トラックで全国をライブツアーで回りながらコメを売る活動をしている。

子供時代のつらい暮らしから救ってくれた音楽との出会い

──和気さんは現在、農業をベースとした暮らしや音楽活動をしていますが、もともと農業とは縁があったんですか?

俺は10歳になるまで親の顔を知らず、親父(おやじ)の実家に預けられていて、そこがコメ作りをやっていました。そのころは農業に興味はなくて手伝ったこともなかったけど、刈り取った草のにおいとか田んぼの風景とかよく覚えていて、それは全然嫌じゃなかった。
それに、沖縄で戦死した実の祖父は百姓でした。本当は祖父も百姓を続けたかっただろうなと。農業を俺がやるのは祖父の願いでもあるなと感じることがあります。会ったことはないけど。

──和気さんの子供時代はつらいこともたくさんあったそうですね。

うちは特殊な家で、親父がヤクザでほとんど刑務所に入っていたんでね、親父の実家で祖父母と暮らしていました。とはいえ実の祖父は戦死してるんで、じいちゃんは祖母の再婚相手。じいちゃんにとって俺は血のつながった孫じゃないんで、かわいくないわけですよね。世間じゃ孫はかわいがられているのに、なんで俺はこんなに冷たくされるんだろうって、小さいころから疑問でした。でも周りの大人は誰もそんな事情を説明してくれなかった。そういう環境の中で救いを求めて、本能的に何かにしがみつきたかったわけです。それが音楽でした。

──つらい時期に音楽と出会ったんですね。

当時暮らしていたのは栃木の田舎でしたけど、近所のお兄さんたちがかけている音楽を垣根越しに聴いたりしていました。いい歌を聴くと胸が熱くなって、親に抱きしめられているような気持ちになったりもして、だんだん音楽にすがりつくようになっていきました。

──和気さん自身が荒れた時期もあったそうですね。

10歳で親と暮らすようになって、宇都宮の街なかに引っ越しました。これで当たり前の暮らしができるようになったと思ったら、今度は親父とおふくろは常にぶつかるわけです。もう殴る蹴るでね。それで親父は覚せい剤に走って逮捕され、懲役10年をくらいました。
そんなことがずっと続いてたんで、自分が非行に走るなんてことはごく当然の流れでした。家にいられなかったですからね。何度も補導されました。
ただ、世間一般から見れば俺は荒れているように思われていただろうけど、やっぱり音楽を聴いている時だけはまともな自分でいられた。中学に入るころ、ギターを握るようになっていました。

──ミュージシャンになろうと思ったのはなぜですか?

中学の時の学校行事で、それぞれ得意なことを披露する場面があったんですよ。それで会場にあったギターを弾きながら、自分が作った曲を歌ったんです。いろんな思いを書きなぐった曲で、すごく荒い演奏だった。するとみんなしーんとなってね。「あれ、失敗したかな」と思ったら、その後どーっとすごい拍手が起きて、クラスメートが近寄ってきて「すげーよ、俺もお前とおんなじ気持ちだ」って言ってくれた。それまでみんな俺のことを危ないやつだと避けてたけど、気持ちを音楽に乗せて伝えると人は離れるどころか寄って来る。その時「音楽の力はすごいんだな。俺は音楽に救われているけど、自分自身が音楽で人々に影響を与えることもできる。これはマジックだな」と気づいたわけです。それ以来、音楽でやっていこうと決心しました。

音楽から食へ、愛のリレー

──その後和気さんはロックバンド「JACK KNIFE」でメジャーデビューし、アイドルへの楽曲提供など音楽の世界で活躍しました。一方で、飲食店の経営もしていたとか。

音楽活動では印税などもあって、結構な収入も得ました。でも、「自分が本当に伝えたいことは違う。音楽での成功もいずれ尽きるだろうな」と思っていました。それで、もともと食に興味があったんで、バンド活動の傍ら東京の三軒茶屋にワインとチーズの店を出したんですよ。それがけっこう当たって飲食業が面白くなって、バンドの活動を休止しました。

──飲食店を開くほど食に興味があったんですね。

10歳まで暮らした親父の実家が麹(こうじ)屋もやっていて、古い麹の室(むろ)があったんです。そこで作ったみそがおいしくてね。だから既製品のみそを食べてもおいしく感じないんですよ。
実の両親と宇都宮で暮らすようになって、食事が粗末になったんですよね。親父が刑務所に入っている間、おふくろは夜の商売をしていて、学校から帰ってくると冷えた焼きそばとかしかない。「暮らしがすさむ」というのはこういうことなんだなと感じていました。

──そこで食の大切さを感じたと。

食というのは、素材そのものももちろん大事なんだけど、その素材を誰かが育てて、誰かがそれを料理して、それを誰かが食べるというリレーなんです。そしてそのリレーに愛がなければ意味がないと思うんですよ。音楽と同じで、食は愛で人の心をこじ開けられるカギなんです。

ロッカーが農業と“再会”したのは少年院

──飲食店経営の傍ら、少年院を一人で回ってギター1本と歌だけのライブを行う活動も10年以上していたそうですね。

自分らしい音楽の現場が欲しくて、少年院をツアーで回ろうと思いつきました。当時はロック歌手が少年院でライブをするなんて前例がなくて、あちこちの少年院にライブをさせてくれと直接連絡したけど全然ダメで。その中で1カ所だけ、新潟少年学院の院長だけが「やってみましょう」と言ってくれて、それがきっかけで1999年から毎年、少年院だけじゃなくて児童養護施設や児童自立支援施設も含めて50カ所ぐらいでライブをするようになってね。ギターを背負ってバイクに乗って全国回りましたね。

──そこで農業に再会したわけですね。

ツアーで回る施設の中に、少年たちに農業を教えている場所があったんですよ。少年院に近隣の農家がボランティアで農業を教えているのを見て、「農というのは音楽と同じだ。相手を選ばないし、学歴も必要ない」と思ったんです。
それに、自分の店で提供する料理の素材を自分で作るのもめちゃめちゃ面白いなと。それでまずはコメ作りをしたいなと思って、田んぼを貸してくれる人を探したんです。そしたら2003年に千葉の流山市に2反(約20アール)の田んぼが見つかって、見よう見まねで始めました。しかも畑の外から肥料も農薬も何も持ち込まない自然農で、機械も使わず手でやろうと。

──それは大変ですね。農作業は和気さん一人で?

うちの店に飲みに来ているやつ20人ぐらいを店に泊まらせて、朝一番の電車に乗せて田んぼに連れていって、草取りやら何やらさせて。人海戦術ですよね。そういうことやっているうちに、コメ作りにのめり込んでいったんですよ。
それで今度は2009年に「農民カフェ」という農をコンセプトにした店を出したんです。下北沢にある古民家をリノベーションしてね。自然農の野菜で作ったランチ主体の店で、その店もバカ当たりして繁盛しました。

──少年院で出会った少年たちとその後も交流はあったんですか?

少年院を出た子たちがうちに来るようになりました。下北沢の店は一軒家だったんで、少年たちを泊めてやれる部屋もあったんで、シェルターみたいな感じで。最初は寝起きするだけだけど、そのうち店を手伝ってもらったり、慣れてきたら田んぼに連れて行ったり。彼らは結構寡黙で、一生懸命やってくれるんでね。一通り作業が終わって、あぜに座って一緒に握り飯なんか食ってると、いろいろ話してくれて、ぼろぼろ泣き出したりする。そんな少年たちを見ていると、農というのはただ食べ物を生産するだけじゃなくて、人間を浄化してくれるんだなと。田んぼの水なのか農作業なのか、そこにあるいろんなものが、彼らの気持ちを解きほぐしてくれる感じがしました。
少年たちの中には自分の実家に帰ってコメ農家になったやつもいます。そういうやつらを見て、農業っていうのは人を変えていくなと、音楽と同じで人間が普遍的に求めているものでもあるなと思うようになりました。
それで、農と食と音楽、俺はこの3つの要素で暮らしていこうと決めたんです。

大分への移住で、百姓の暮らしを実現

──農業も都内での飲食業も順調な中、和気さんは今暮らしている臼杵市に移住しました。何かきっかけがあったのでしょうか?

東日本大震災があって、東京で暮らし続けることに疑問を感じ始めたことがきっかけです。移住前は下北沢で4店舗ほど経営していて、毎月200万円ぐらいの家賃を払っていました。でも会ったこともない大家に大金を貢ぎ続ける東京の仕組みがまやかしにすぎないと感じるようになって、自分の足元を変えたい、百姓になりたいと思ったんです。
ただ、地方で農業をやるといってもすぐには無理で、日銭を稼がないといけないので、飲食店と住居が一緒になっているような物件を探していて、見つかったのがたまたま臼杵だった。それで、東京の店は仲間に任せて、2015年に家族で臼杵に移りました。

──それで、すぐに田んぼは借りられたんですか?

最初に5畝(約5アール)ぐらいの小さな田んぼを借りて、そこに通ううちに1町(約1ヘクタール)ぐらいの耕作放棄地を見つけました。地域の人に聞いたら、もう20~30年ぐらい何も作ってない土地だそうで、どうやって借りようかなと市役所の担当課に相談したんです。そしたら地権者を探してくれて、それが14人もいたんですよ。公民館にその人たちを集めて説明会を開いて、土地の利用権を設定するための調印式をやって、やっと借りることができました。
そこから大急ぎで近所の農家の戸をたたいて機械を探して、コンバインとトラクターと田植え機をまとめて10万円で譲ってもらって、それを修理しながら耕作放棄地を開墾して。
それを見ていた周りの農家が俺のところに「田んぼを預かってやってくれないか」と言ってくるようになって、2町ぐらいに広がりました。今は種とりから育苗、栽培、もみすりまで全部自分のところでやってます。

臼杵市でやっと借りた耕作放棄地(2017年3月撮影)

──軽トラックも、臼杵に来て初めて購入したとか。

車の免許を持ってなかったんですよ。50になってから臼杵の教習所に通って免許を取って、その年に軽トラを買いました。その軽トラに収穫したコメを載せてライブ会場で売る、走行距離1万2000キロの全国ツアーもやりました。
今は臼杵にいる間は百姓三昧、秋に収穫が終わったらライブに行って。でもやっぱり百姓で暮らしを立てていくことは、自分にとって大きなテーマです。

──今和気さんが栽培しているのは普通の品種のコメとは違いますね。

古代米の黒米と赤米と緑米、それにイセヒカリという伊勢神宮由来の品種をミックスして「縄文米」として売っています。普段食べているコメに少し混ぜて炊く、雑穀米のような感覚で使えるコメです。
あと、マコモも育てています。マコモの実は縄文人が食べていたもので、今は「ワイルドライス」と呼ばれています。これは収穫から脱穀・もみすりまで手でやらないといけないんで、大量に出せないんですよね。それで、マコモのワークショップをやって参加者がもみすりして炊いて食べると。マコモを育てているところがあんまりないんで、そういうのが好きな人たちがわっと押し寄せてきます。

黒米・赤米・緑米・イセヒカリをミックスした縄文米

「農ある暮らしの磨き上げ」へ

──ワークショップ目的の人だけでなく、全国から多くの人が和気さんの田んぼにやって来るそうですね。

今まで一緒にやってきた仲間も来るし、ライブのお客さんも来る。そうやって俺に関わってくれた人のうちの相当数が、百姓になったり農ある暮らしを実践したりしています。
自分は「植物は太陽で育って月で実る」と言ってます。植物は光合成という、地球だけじゃない宇宙のエネルギーで育ちますから。だから、百姓がどんなに人間の都合で植物を急いで成長させようとしてもダメ、天気にも左右される。農ではそんな宇宙の時間軸が見えてくるなと。それで、俺は自分の農業を、自然農を超えた「宇宙農」と呼んでるんです。
こういう話をすると、興味を持って聞いてくれるのは特に若い人たち。やっぱり社会に矛盾を感じている人たちが、自分の人生を普遍的なものに変えていきたいと思った時に、農に興味を持つんですよね。
今はマイホームや車を持つことじゃなくて、自然の力に乗っかって農ある暮らしを磨いていくことが大切だと気づいた人が増えたということですよね。それで俺は「農ある暮らしの磨き上げ」が大事だと言ってるわけです。

──最近ではコロナの影響もあって、農業や地方での暮らしに興味を持つ人も増えました。

チャンスなんですよね。今、俺は農業をやらなくなった人の田んぼを借りてるんですが、基本的に地代はタダです。昔は土地というのは生命線である食料を作るものだったから、そんなことありえなかった。
でも今は就農のサポートも手厚いじゃないですか。こんないい時代はないなと思うわけです。都会で高い家賃を払うために働いている人はたくさんいる。それを乗り越えて自分の夢をつかむための精神力と体力と知恵があればいいけど、なかなか難しいですよ。そうやって生活にうずもれてしまうぐらいなら、田舎で「農ある暮らしの磨き上げ」をしようと。農地も家も田舎では余ってるんですから、新しいものを作る必要はなくて、今あるものを磨きなおしたらいい。田舎に新しい人が入って頑張る姿が地域を刺激していくしね。もちろん、いろいろ問題は起きると思いますよ。でも、それを怖がっていたら先に進まないんでね。

──地域が移住者を受け入れるために大事なことはありますか?

「地域の多様化」が必要なんじゃないかなと。地域の多様化というのは、地域が広く人を受け入れるということ。都会ではいろんな人がいて、ミソもクソもいる。地域の方はいい人ばっかりを受け入れようとするんじゃなくて、ちょっと仕方のないやつも大目に見てやるぐらいの懐の深さがないと。それが地域力ですよ。

──今回のインタビューで和気さんの懐の深さも感じました。

東日本大震災もコロナもあったし、最近ではいろんな自然災害も極端になってる。でも自分たちはそういう世界に生きているのだから、いろんなことを受け入れていかなくちゃいけないと思っています。いろんなつらいことも、気付きを与えてくれますから。

【取材協力・画像提供】