阿部寛がローマ人のように濃いことは多くの人が知るところである。古代ローマ人役で主演した映画『テロマエ・ロマエ』シリーズでその印象を絶対のものにした阿部だが、どんな役をやっても彫りが深く目力強めの顔立ちと、重量ある低音ボイスは隠しようがない。大河ドラマ『どうする家康』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)で演じている武田信玄は坊主頭とたっぷり長いあご髭で、阿部寛史上最も濃い役ではないだろうか。
信玄は劇中、しょっちゅう山の上で座禅を組んでいて、雪が舞うなかでも薄着で、彼がストイックかつ丈夫なことがわかる(実は病に罹っているのだが)。えいやと槍をふるう様も力強く、武術に優れていることも一目瞭然。千代(古川琴音)という忍者を放ち、各地に情報収集及び、凋落活動を行っていて、その千代との関係はなんだか少し色っぽくも見える。あらゆる面で濃い。CGによるやや誇張した背景にも負けないどころか、さらに浮き上がって見える阿部の輪郭の太さ、力強さは、さすがアニメ『北斗の拳』のケンシロウのイメージぴったりと、その声を演じただけはある。
そんな阿部だがデビュー時は、いわゆる爽やかイケメンで、少女漫画の王子様のような役を演じていて、そこから脱却を図ったことも阿部寛伝説として流布している。80年代、ファッション誌『メンズノンノ』のモデルとしてデビュー、俳優業の最初は、人気少女漫画『はいからさんが通る』のヒロインの相手役。女性人気を得たが、やがて、つかこうへいの舞台で激しい業を抱えた人物を熱演したことで、イメージを大きく刷新し、その後、ドラマ『トリック』シリーズで当たり役を得て、息の長い活躍を続けている。
演技派の印象にプラスして、その恵まれた身体を活かし、スケールが大きく濃密な生のエネルギーを感じさせる役を担うことができることは唯一無二である。戦国武将や王様のような役が似合う。20年と22年、舞台『ヘンリー八世』(シェイクスピア作、吉田鋼太郎演出)ではエリザベス一世の父である英国王ヘンリー八世を演じたとき、戴冠式のシーンで観客に旗が配られ、それを振る演出があった。そういう客いじりみたいなことは照れくさいものだが、舞台上の王様に対してなんの躊躇もなく、むしろ喜んで旗を振ってしまう、それだけのパワーに阿部は溢れていた。
だから『どうする家康』第16回「信玄を怒らせるな」の終盤、三方ヶ原の戦いを前に、真紅の甲冑、ヤクの毛をつけた兜をかぶって、大勢の兵士たちの前で演説している場面も、説得力が絶大。こういう派手ないでたちを着こなせることが凄い。また、そこまで盛りに盛ることで、徳川家康(松本潤)が彼と立ち向かうことがどれだけ恐怖かということが手に取るようにわかる。
暴力的な織田信長(岡田准一)も怖いが、信玄は実体がわからず、もっと怖いという印象を受ける。戦国時代は、令和の今と比べたら情報を得ることが難しく、写真もなく、現存する肖像画は絵師に命じてこう見せたいという当人の希望によって描かれていた節もある。実際、どんな人だったかわからないのは当時の人たちも同じであろう。“噂に聞くあの人”として想像が膨らんで、なんだか凄い人に祀り上がっていく雰囲気を、人気武将・織田信長も武田信玄もおもしろく見せているのが『どうする家康』だと感じる。その中で主人公の家康だけは等身大で、後に語られる、神のごとき凄い人ではない、常に何かにおびえている、ごくごく普通の人として描かれているように見えるのだ。
家康は第11回ではじめて信玄に会うまではどんな人か知らずにいた。「正体は猫のような貧相な小男」ではないかと本多平八郎(山田裕貴)たちと想像して笑っていたら、怖そうな大男が現れてゾッとするエピソードは面白かった。そのとき、領土の切り取り方を団子のかじり方で示してみせるのも印象的だった。
このエピソードで思い出したのは、阿部寛の代表作『トリック』シリーズの堤幸彦監督の言葉である。筆者が取材した『トリック劇場版』のパンフレットのコメントに「もしかして阿部さんは(実は)すごく小さな人で、芝居が終わると(身長1m89cmの)阿部寛の外皮を脱いでるかもしれないと。阿部マシーン、阿部レイバー、フルメタル阿部寛なんじゃないかと。偶発的であるってことなんですけど」というものがある。
阿部を一躍人気者にした『トリック』の上田という役が、頭脳がものすごく明晰だが、なんだかいじましく、やたらと尊大で、自分を大きく見せようとする見栄っ張りな人物だったことから、堤監督はこのようにユニークな発言をしたのだと想像するが、妙にこの表現がしっくりくるというか、そうだったら面白いなあと思うのだ。阿部の俳優としての才能は、圧倒的に説得力ある見た目ももちろんのこと、にもかかわらず、もうひとつ先に意外な何かあるのではないかと想像できる余白があることなのだ。
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