フジテレビ系情報番組『めざましテレビ』(毎週月~金曜5:25~)が、この4月で30年目に突入した。ニュース、スポーツ、エンタメをはじめ、「きょうのわんこ」「今日の占いCOUNT DOWN」といった名物コーナーなど様々な情報を発信し続け、2022年度の番組平均個人全体視聴率は5年連続で民放同時間帯トップを記録(※ビデオリサーチ調べ・関東地区)。多くの視聴者にとって朝の時計代わりの存在となっている。
そんな同番組の初代女性メインキャスター・八木亜希子、番組スタートから現在に至るまでエンタメ一筋のキャスター・軽部真一アナウンサー、そして現在の第8代チーフプロデューサー・高橋龍平氏が、22日・29日に放送される同局『週刊フジテレビ批評』(毎週土曜5:30~ ※関東ローカル)で鼎談。テーマは「進化と果たしてきた役割」だが、大いに盛り上がった収録は、30分番組にもかかわらず1時間以上に及んでしまった。
そこで、放送でカットになってしまった部分を大幅に盛り込み、『めざましテレビ』30年の貴重なエピソードや、今後の展望などを語ったこの鼎談の模様をレポート。前編では、番組スタート前の様子や、今や代名詞である「エンタメ情報」の誕生秘話などが明かされた――。
■「3年のつもり」が30年に
――八木さんは第1回放送のことを、どのように覚えていますか?
八木:最初は2時間の番組だったんですけど、前の日にリハーサルがあって、3時間かかったんです。だから、「これが入るんだろうか…」っていうドキドキがあったのを覚えてます。それで早口になって、テンションが高かったのかもしれません(笑)
――軽部さんも若かったですね(笑)
軽部:入社10年目で31歳ですよ。それでいきなり、八木さんから「怪しげなテディベア」って言われて。すごい紹介でしょ?
八木:きっと台本通りだったんですよ(笑)
軽部:でも、八木さんが言った通り、前の日のリハーサルのことはよく覚えています。それが沸き立つようなお祭り騒ぎで、本当に楽しかったんですよ。これだけ長く続く番組の前日リハーサルだったんだなって、まざまざと蘇ってきます。
――「『めざましテレビ』を担当してください」と言われたときのことは覚えていますか?
八木:あの頃のアナウンサーは、持ち回りで朝の担当が来るような感じだったので、「私も今度朝なんだな。早起きなんだな。1年、2年ご奉公すればいいか」くらいの気持ちでいました。そしてお相手の大塚(範一)さんは直前まで公表できなくて、3月の番組宣伝のスポットは、1人で暗い中を歩いてるみたいな撮影で、「これどうなるんだろう…」みたいな感じでした。
軽部:僕もアナウンス室長から、「早起きは大変だから、まあ1年とか2年、やって3年のつもりで」って言われたんです。『めざましテレビ』が始まるまで、フジテレビの朝の番組は、なかなか定着しなかったんですよ。もって2年、短いときは、1クールずつ番組が代わってましたからね。
それと僕が覚えてるのは、もう1つスポットを作ってたんです。それは、八木さんがいて、ニュースをやっていた向坂(樹興)さんと、スポーツ担当の奥寺(健)くんと、初代お天気お姉さんの華ちゃん(角田華子)が出てるんですけど、僕も小島奈津子さんもいなくて、その時点ではまだ出演が決まってなかったんですよ。僕らは『おはよう!ナイスデイ』の司会をやっていて、『めざまし』に移ることになるんだけど、正式に決まるのは一番最後で、エンタメコーナーみたいなものを作るのが決まったのも、小島奈津子さんが月~金で中継するっていうのも、本当に直前に決まったんです。
■蝶ネクタイじゃなかったら、もうアナウンサーをやっていないかも
――軽部さんのエンタメのコーナーは最初からあったのですか?
軽部:最初の頃は「ワイドショー早出しチェック」っていうタイトルだったんです。『めざましテレビ』の後に、当時はワイドショーと呼ばれていた『おはよう!ナイスデイ』があって、『ナイスデイ』でやることを先に見せるっていうコンセプトだった。それは当時、TBSの『ブロードキャスター』で山瀬まみさんがやっていた「お父さんのためのワイドショー講座」っていうのがとても評判で、あのコーナーはワイドショーの後だけど、うちは前にやってしまおうと。それで、仕事や学校で見られない会社員の方とか学生さんたちに見せるということだったので、必ずしも「エンタメ」ではなかったんですよ。だって、僕が最初に伝えたのは、「ロス疑惑」ですから。
だけど半年くらいたって、克さん(鈴木克明・初代チーフプロデューサー)が突然、「これではいかん。もっとちゃんとエンタメ本体を伝えなきゃ」と言ったんです。いわゆるゴシップとかスキャンダルとかじゃなくて、映画、音楽、舞台といったものをきちんと伝えるということ。それで半年後に「見たもん勝ち」というコーナーが生まれまして、王道のエンタメを伝えるようになっていったんです。
――軽部さんのトレードマークである蝶ネクタイは、最初から着用していたのですか?
軽部:これは最初からです。僕は『ナイスデイ』で事件とか事故の現場に行ってハードなことをやっていたので、見た目から変えようという話になって、みんなでアイデアを出し合った結果、サスペンダーを着けることにしたんです。これはCNNの名物司会者ラリー・キングさんがトレードマークとして常に着けていて、当時の広報資料では、「日本のラリー・キングを目指す」って謳ってたんです。それに合うように蝶ネクタイにしたんですけど、秋が来て寒々しいんでベストを着て、冬が来たらもっと寒いんでジャケットを着て、2年目の春になったら「もうサスペンダーはいいよね」っていうことでそのまんまジャケットになって、結局サスペンダーが消えて蝶ネクタイだけ残るということになったんですよ。
――そのおかげで、ハリウッドスターにも「カルベサン」と認識されるようになりました。
軽部:これでうれしいことがあったんですけど、(レオナルド・)ディカプリオにインタビューして、何年後に『レヴェナント』で念願のオスカーを獲って、会見をしたんです。あれは加藤綾子の最後の出演だったと思うんですけど、2人で会見に行って手を挙げたら、ディカプリオが僕のほうを見て「また会いましたね」って言ったんですよ。「bow tie!」って。これはうれしかったですね(笑)。だからトレードマークとしての蝶ネクタイの効果は、我々の予想を上回りました。これで僕も番組も認知度を上げていったので、蝶ネクタイにしていなかったら、『めざましテレビ』をもうやっていないかもしれないし、アナウンサーもやっていないかもしれないと思います。
八木:でもサスペンダーは、視聴者の方からお叱りもあったんですよね。「あれは本来中に着るものだ」とご指摘があって、悩んでいらした。
軽部:そうでしたっけ? 全然覚えてないですね(笑)