農業アプリ会社のCEOになった今でも、やっぱり農家

前回伊藤さんを取材したのは2019年の秋。元エンジニアの農家が、農家の目線で農薬散布の管理ができるアプリを開発したと聞いたのがきっかけだった。

そのアプリ「アグリハブ」は、小規模の少量多品目農家の営農を支援するために、伊藤さん自身の経験や理想に基づいて作られた。そこからさらにユーザーからの意見も取り入れて機能を追加。2020年には、農業関連のさまざまな課題解決を目指すビジネスプランを支援するJAグループ主催の「JAアクセラレータープログラム」の優秀賞を受賞。2021年には東京都農林水産振興財団東京都農林総合研究センターとも連携し、東京都が開催した都庁DXアワードも受賞、さらに日々機能のアップデートを重ねている。
2023年3月現在、ユーザーは約2万8000人。今やアグリハブは多くの農家に支持されるアプリに成長し、伊藤さんは株式会社AgrihubのCEOとして知られる存在になった。

そんなわけで、さぞ毎日アグリハブの開発に忙しいことだろうと思いながら畑に向かったのだが、再会してみると伊藤さんは相変わらず「農家」だった。

伊藤彰一さん

近況について聞くと、「今でも父と一緒にほ場に出ていますね。学校給食用や近所のスーパー、収穫体験などで売る野菜を作っています」と以前と変わりない様子。前回の取材当時から体験農園のイベントも行っていたが、今はさらに規模を拡大しているという。「体験農園の栽培は僕だけでやっていますが、運営は妻とパートさん任せ。妻が運営するようになって、売り上げがかなり伸びましたよ」とのことで、農業経営も順調そうだ。

伊藤農園で開催されている体験農園の様子(画像提供:伊藤農園asobibatake)

アプリ開発はほぼ一人でやっているというが、その様子に忙しさは感じられない。「先日は家族で温泉に行きました」とのことで、プライベートを犠牲にしているようでもない。「農作業で体を動かすと頭がスッキリして、短時間でパパっとプログラムが書けたりします。両方やっているとどっちにもいい効果がありますよ」と伊藤さんは言う。
アプリ開発と農業、どちらかをメインの仕事と決めることはしない。「自分はずっと農家であり続けると決めています」と断言した。

農家が栽培に集中できる環境をつくる

もちろん、伊藤さんが農作業にしっかり取り組めるのは、アグリハブで仕事を効率化しているからだ。その効率化への欲求と情熱が、アグリハブの開発の背景にある。「今、自分が農業界で必要だと思うものはみんなも喜んでくれるもののはず」と、農業全体を良くしたいという思いも語る。

アグリハブはもともと、伊藤さんのような小規模の少量多品目農家をターゲットとして開発された。品目ごとに異なる農薬散布の管理や記録が面倒だったからだ。アグリハブの登場以前は、農家は農薬散布についての情報をノートなどに記録して管理することが多かった。それをデータで、しかも畑にも持っていけるスマホで管理することで、一気に省力化を目指した。もちろん、農薬の誤使用や使い過ぎも防げる。

それが今ではさらに進化し、当初の機能だった栽培日誌や農薬管理だけでなく、Googleマップ上で栽培エリアを指定するだけで、過去の栽培履歴が表示され、連作障害を防いだり、肥料をどこにどれだけまいたか記録したり、在庫の管理をしたり、資材のコストが可視化できたりと、機能は次々と追加されている。サービスのほとんどは無料で使用できる。

アグリハブの機能一覧。この記事では紹介しきれないほど多い(画像提供:株式会社Agrihub)

「農業日誌はすべての基本」と語る伊藤さん。アグリハブをさまざまな民間企業や行政の農業システムとつなげることで、農業界全体を大きく変化させる、農業DXを実現したいと考えている。機能の追加は、伊藤さん自身が思い描く「農業日誌アプリが進むべきビジョン」に沿って行われているという。それは、農業に関するすべての情報をデータ化し、つなげる未来だ。

農業界から「紙」をなくしたい。データ化が大切なわけ

農業界の「紙文化」からの脱却が、農業のデータ化を目指す伊藤さんの大きなテーマだ。
「農家って、意外と事務作業の時間も長いんです。例えば、直売所に出荷する時に出す生産履歴の書類も紙。紙での事務処理のせいで、ほ場に出られないこともある。他の業界ではシステム同士がデータ連携していて、自動でできる時代なのに」と、伊藤さんの紙嫌いは徹底している。そこで、紙をデジタル化して、農家の事務作業を楽にするための新たなサービスを生み出した。「アグリハブクラウド」だ。

農家がJAや直売所などに野菜を出荷する場合、農薬の使用履歴などを書いた生産管理記録帳票の提出が求められる。従来、これを農家が紙に書かなければならず、農家の負担は大きかった。さらに、その紙を目で確認する出荷先の職員の時間と労力も大変なものだった。
これがGAP認証や特別栽培認証を受けた農産物の生産管理記録帳票ならなおさらだ。項目がさらに増え、これを人の目で行うとなると、注意していてもチェック漏れの可能性がある。
そこで伊藤さんは、生産者がアグリハブで付けた栽培日誌をそのまま出荷先にデータ連携し、AIが自動的に農産物の栽培履歴をチェックする仕組み、「アグリハブクラウド」を作った。これを導入したとあるJAの実証実験では、従来の紙による農薬の検閲の時間が9割削減できたという。農家側はアグリハブで記録を付けているので、農薬名などの記載ミスがないというメリットもある。さらに、アグリハブクラウドを通じて、直売所のPOSレジシステムへのデータ連携もできる。

アグリハブクラウドでは、生産者がアグリハブで付けた栽培日誌を出荷先のPOSレジシステムに自動で反映させることで、JAや直売所での生産管理記録帳票のチェック等が楽に(画像提供:株式会社Agrihub)

今後は国の「みどりの食料システム戦略」の推進などもあり、農薬の適正使用管理や特別栽培の管理がますます求められていくと予想される。消費者の食の安全へのニーズも高まる中、こうした機能の活躍の場は広がっていくだろう。

データ化の先に、農業の未来がある

データ化を推し進める伊藤さんだが、「データがすべて」と思っているわけではない。しかし、「正しい判断をするためにはデータの可視化が必要」と言い切る。
農家には「勘と経験」も必要だということは、もちろん伊藤さんも認めるところだ。「なんかよくわからないけど、この畑はあんまり肥料もやらないのによく育つな、ということがあったりします。その畑の過去のデータがきちんと記録として蓄積されていれば、勘と経験にデータの根拠をもって、次にどう手を打つか考えられます」。どの資材をどれだけの量使うべきかがはっきりし、使い過ぎを避けられるだけでなく、資材の在庫管理もアグリハブで一元化でき、発注漏れや買い過ぎも防ぐことができる。
さらに、品目ごとに栽培にいくら掛かっているかもすぐに算出できるため、コストの管理が簡単だ。そうすれば、翌年にどの作物に注力すべきかの判断もデータを基にできる。

東京都農林総合研究センターが2022年に行ったアンケートによると、アグリハブのユーザーは就農5年以下の新規就農者が半数以上を占める。年代も40代以下の比較的若いユーザーが多い。アグリハブは農業の未来を担う若い農家の支持を集めているようだ。そしてこの層は、農業DXとの親和性も高い層といえるだろう。
「新規就農して栽培日記を付けようと思って紙のノートを買う人は少ないのでは。まずはアプリなどデジタルツールを探すはず。その中でアグリハブを選んでもらえているのだと思う」と伊藤さんはアグリハブの出来栄えに自信を見せる。アグリハブは、今まで一切、宣伝広告費を使ったことはないという。

東京都農林総合研究センターのアンケートで、アグリハブを半年以上利用した回答者のうち、82%が「他の人に薦めたい」を選択

さらに目標として「アグリハブユーザー30万人」を掲げる。日本の販売農家、約100万人のうち30万人のデータが集まる“プラットフォーム”を目指しているのだ。
アグリハブのユーザーは今、当初のターゲットだった少量多品目の個人農家だけでなく、中規模で人を雇用して営農している農家も多くなっている。スタッフ同士で情報共有もでき、作業予定も立てやすく、作業の記録も付けやすいと好評だ。これまでは野菜の栽培農家が多かったが、大規模なコメ農家などでもより使いやすくしていきたいと、伊藤さんは意気込む。
今後、農作業の自動化などが進んでも、栽培記録のデータは必ず鍵となる。
「昔から、世の中を変えたいという気持ちはあったと思います。アグリハブをこのまま続けていけば、農業が変わるんじゃないかという予感がある。農業のデータ連携が進めば、農家はもっと楽になるはずです」という伊藤さんの言葉は確信に満ちていた。