源頼朝は日本初の武家政権である鎌倉幕府を開いた人物として知られています。波瀾万丈な生涯を送ったこともあり、映画やドラマなどで描かれることも多く、人気の高い歴史上の人物でもあります。

本記事では、源頼朝が何をした人なのかを簡単に、わかりやすくご紹介します。

  • 源頼朝は何をした人?

    源頼朝は何をした人物なのでしょう

源頼朝は何をした人なのか

源頼朝は、歴史の教科書には必ず登場する日本史上で特に重要な人物です。歴史を大きく動かし、波瀾万丈の人生を送ったこともあって、小説やドラマ、映画などで語られる機会も多く、人気も知名度も非常に高い歴史上の人物の一人です。

源頼朝は、歴史のターニングポイントとなった鎌倉幕府を開いた人物ということもあり、何をした人物なのかは多くの方がご存知かと思います。しかし、この幕府を開くまでの間にもさまざまな出来事があり、語るべき要素がいくつもあります。

ここでは、源頼朝が具体的に何をした人物なのかを詳しくご紹介します。

平家を西国へと追いやる

まず、事実上日本を支配していた平家を西国に追いやることに成功しています。この挙兵の理由には諸説あり、後白河法皇の皇子によって出された令旨に従ったという説もあれば、実際には令旨は頼朝に届いておらず、各地の豪族に平家を討たせるための指示をしただけであるという説もあります。

当時の頼朝は平治の乱に敗れたことによって約20年にもわたる流人生活を送っていました。そのような状況の中で平家を倒すことによって自由を手に入れたいと考え、出兵したという形です。

多くの資料が残ってはいるものの、いくつかの説があるため、真相は明らかではありませんが、後白河法皇の平家を倒したいという思惑に対して、目的はどうであれ頼朝が平家討伐のために兵を出しました。

もともと平家は大きな権力を持っていましたが、平清盛が病死した影響などもあり源氏有利に戦いは進み、ついには入京して平家を西国に追いやることに成功したのです。

平家を滅亡させる

平家を西国に追いやったのみでなく、続いては滅亡させることになります。入京してすぐに、源頼朝と同時に兵を挙げた源(木曽)義仲が征夷大将軍に任命されました。しかし、すぐに後白河法皇と義仲の関係は悪化します。そして、後白河法皇は頼朝に義仲の討伐を命じるのです。

頼朝はこの指示を受けて弟の義経らを使って源義仲を討伐。そしてさらに西国に追いやった平家に追い打ちをかけ、ついに壇ノ浦(現在の下関)に追い詰めて滅亡させました。

このとき、頼朝はかつて破れたものの平家に情けをかけられて命を救われ、そして今平家を滅ぼそうとしていることを教訓に一切の容赦はしなかったとされています。ほんのわずかな禍根も許さなかったということでしょう。

こうして、大きな権力を持ち、栄えた平家の歴史は終わり、武家の時代が始まることになりました。

源頼朝の弟・源義経との対立

平家を滅ぼすうえで、大きな貢献をしたのが頼朝の弟である義経でした。義経は天才的な軍略と独断専行の戦いを駆使ししながら武功をあげていきましたが、武士を束ねる立場で秩序を重んじる頼朝は義経の戦い方を是とせず、恩賞も与えようとしませんでした。そのような状況も相まって、次第に兄弟間で気持ちのすれ違いや確執が生まれるようになり、いつしか互いに憎みあうようになってしまいます。

後白河法皇が義経の後ろ盾になったということもあり、ついに頼朝は義経討伐を決意。武家のトップである頼朝と対立する義経に味方するものなどおらず、義経は最後に自害に追い込まれたとされています。さらに頼朝は、義経をかくまっていた奥州藤原氏までも滅亡させました。

こうして、義経は平家のみでなく、自分に反する可能性のある要素もすべて潰して、新たな時代を作り上げることになりました。

日本初の武家政権である鎌倉幕府を開く

関東を平定した1190年に頼朝は上洛。そして、1192年には征夷大将軍に任命されて鎌倉に日本で初めての武家政権である鎌倉幕府を開いたのです。

その地位だけで満足することなく、頼朝は法皇から政治の実権までも奪い、実質的な日本のトップに上り詰めます。その後も封建制度を整えるなど、幕府の体制を強化し続けます。

こうして頼朝が築いた武家・武士による政権は明治維新が起こるまで700年にもわたって続くことになります。現代まで続く日本のさまざまな文化の基礎を作ったのは源頼朝であるとも言えます。

源頼朝の年表

前述の通り、頼朝は歴史上における重要なことをいくつも行っていますが、その人生も波瀾万丈なものです。以下に簡単な年表をまとめました。

西暦 出来事
1147年 源義朝の3男として生まれる
1159年 平治の乱に参戦する
1160年 伊豆の蛭ヶ島に流される
1177年 北条政子と結婚する
1180年 関東を平定して鎌倉に入る
1185年 壇の浦の戦いで平氏を滅亡させる
1192年 征夷大将軍になる
1199年 亡くなる

ここからは、頼朝の波瀾万丈でドラマティックな生涯についてご紹介します。

  • 源頼朝の波瀾万丈な生涯

    頼朝の人生は波瀾万丈でドラマティックなものでした

平治の乱で敗れるも処刑を免れる

もともと源氏は、平治の乱によって敗れ、多くの武将が処刑されました。当時まだ14歳の頼朝は、平清盛らによって処刑を免れるも、長きにわたって幽閉生活を送ることになりました。

伊豆に流刑され幽閉生活

幽閉といってもそれほど厳しい暮らしを強いられていたわけではなく、監視はありましたが比較的自由な生活を送っていたとされています。以前は、この時期に平家への恨みの気持ちを強めていったという説が有力でしたが、現在では頼朝は幽閉生活も楽しんでおり、むしろ平家に気に入られようとしていたと言われることもあります。

しかし、監視のついた20年もの幽閉生活から解放されたいという想いは募っていたと考えられます。

平氏打倒のための挙兵

長い幽閉生活の末、頼朝は平家討伐のための挙兵をすることになります。ここからの流れはすでにご紹介した通りであり、平家を西国に追い詰め、最終的には滅亡させることになりました。

源義経との兄弟関係

源義経は兄弟ではありますが、腹違いであり、あまりそりは合わなかったと言われています。それでも頼朝は義経をうまく利用して木曾義仲や平家討伐の指示を出し、いずれも成功しました。

その後、対立が次第に表面化するようになり、最後には兄弟同士で殺し合いを演じるにまで発展してしまいました。

妻・北条政子との関係

武士・武家の結婚というと政略結婚をイメージされる方も多いかもしれません。しかし、頼朝と妻の北条政子は恋愛結婚であるとされています。2人の出会いは幽閉されていた時代でした。そして、政子は頼朝の監視役である北条時政の娘です。

北条氏は平氏の流れをくんでいたということと、立場がまったく違うことから、時政がこれを許すわけがありません。結果として、時政は政子を別の男性と結婚させてしまいます。しかし、頼朝に惚れ込んでいた政子は逃げ出して頼朝のもとにやってくるのです。

源頼朝にまつわるエピソード

源頼朝は歴史上の重要な人物ということもあって、有名なエピソードがいくつかあります。ここでは、その一部をご紹介します。

  • 源頼朝の有名なエピソード

    頼朝にはさまざまなエピソードがあります

流鏑馬を定着させた

馬に乗って走りながら弓で的を撃つ流鏑馬(やぶさめ)。現在でも、さまざまな神社などで神事として行われています。この流鏑馬を武士の間で定着させたのは、頼朝であると言われています。1187年に鶴岡八幡宮で行われたのが最初で、以降全国の神社で行われるようになりました。

鎌倉幕府創設年は諸説あり

昔から鎌倉幕府の創設年は、1192年とされてきました。「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせでこの年を覚えたという方も多いでしょうが、現在では鎌倉幕府の創設年についてはいくつかの説があります。

まず、頼朝が鎌倉に拠点を置いて侍所を設置したのは1180年、朝廷から支配権を与えられたのは1183年、そして征夷大将軍の前に右近衛大将に任命された1190年なども鎌倉幕府開設年とされることがあります。

近年では守護や地頭などを設置して本格的な統治を始めた1185年が鎌倉幕府の創設年とされることが多くなっています。

源頼朝の死因

源頼朝の死因は、はっきりとわかっておらず、さまざまな説が飛び交っています。有力な説の一つが「落馬」です。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記されているのですが、落馬前後の詳細な記述はありません。

他にも「落馬からの療養中に水を誤嚥し、肺炎から敗血症をきたした」「これまでに殺害してきた人の呪いにかかった」などの説もあるようですが、いずれも憶測の域を出ずに真相は闇の中です。

源頼朝が何をしたのか、年表などを用いてわかりやすく紹介しました

源頼朝は平家を滅亡させて、鎌倉幕府を開くなど歴史上において重要な役割を担った人物です。それだけでなく、波瀾万丈な人生を送ったこともあって、その生涯は現代でもさまざまな形で語り継がれています。

源頼朝の人生を辿ってみると現代人にも役立つヒントが見つかるかもしれません。