宮本武蔵は歴史上の人物の中でも特に高い知名度を誇ります。剣豪として知られており、さまざまなドラマや映画、マンガなどのモチーフにもなっています。その一方で、具体的に何をした人なのかはわからないという方も多いでしょう。
ここでは、宮本武蔵が何をした人なのかを詳しくご紹介します。
宮本武蔵は何をした人物なのか
ここではまず、宮本武蔵が何をした人物なのかを詳しくご紹介します。
宮本武蔵が歩んできた歴史
佐々木小次郎との巌流島での決戦といったエピソードで知られる宮本武蔵。時代としては、戦国時代の末期から江戸時代の初期にかけて活躍した人物です。幼い頃から剣術を学び、武者修行の日々を送りました。
宮本武蔵が生まれたのは1582年。まさに戦国時代の末期であり、天下統一に向けて大きく世の中が変化していった時期です。ちょうど天下統一を目前にした織田信長が家臣の明智光秀に討たれた本能寺の変が起こった年でもあります。
宮本武蔵は武士ではありますが、領地を持つ武将というわけではありません。そのため、織田信長などの戦国武将のように直接的に歴史を大きく動かした人物というわけではありません。しかし、生涯にわたって剣や兵法を追求し続け、各地の藩主をはじめとする要人に影響を与えたとされています。
宮本武蔵と関ヶ原の戦いの関わり
歴史上の大きな出来事において宮本武蔵が登場するのは、天下統一のための大一番・関ヶ原の合戦です。ただし、特別に活躍したといった資料などはなく、参加したのではないかと言われている程度です。西軍、東軍のどちらに属して参加したのかもはっきりしていません。
その後、大坂夏の陣においては客将として徳川方で出陣して活躍したことがいくつかの記録に残されています。
このように、歴史を動かす大きな舞台に何度か参加はしているものの、いずれもその中心であったわけではありません。そのため、歴史上で何かを大きく動かした人物というわけではありません。
宮本武蔵が最強の剣豪と呼ばれる理由
宮本武蔵というと、多くの方が真っ先に剣豪という言葉を思い浮かべるのではないでしょうか。宮本武蔵は父の新免無二斎と共に幼いころから剣術の鍛錬に励みます。初めて試合をしたのは13歳の頃とされています。その試合で勝利を収めると、以降60戦以上の試合・決闘のすべてに勝利したとされています。宮本武蔵が「最強の剣豪」などと称される所以と言えるでしょう。
特に有名なのが、巌流島での佐々木小次郎との決闘。さまざまな小説やドラマ、マンガなどにも描かれているため、この決闘についてはご存知の方も多いでしょう。この決闘は1612年、武蔵が29歳のときに行われ、これが最後の決闘となったと言われています。
こうして試合・決闘を繰り返しながら武蔵は武者修行の日々を送り、自身の剣術や兵法を完成させていったのです。
宮本武蔵が完成させた「二刀流」とは
剣の道を究めようとするその過程において、宮本武蔵は2本の刀を用いた剣術「二刀一流」を生み出しましたが後年、道統を継いだ寺尾求馬助信行によって「二天一流」と改められました。「二刀流」として広く知られているこの流派名が「二天一流」と改称されていることはあまり知られていないのではないでしょうか。
ちなみに宮本武蔵は晩年の自著「五輪書」において、武士が2本の刀で修練を積むことの必要性を説いています。
宮本武蔵の生涯
宮本武蔵は動乱の時代に生まれ、自分の信念を貫きながらドラマチックな生涯を送りました。その生き方は現在でもさまざまな形で語り継がれており、日本人の価値観や人生観などにも影響を与え続けています。
ここからは、宮本武蔵の生涯について詳しくご紹介します。
宮本武蔵の出生地
宮本武蔵の出生に関しては不明な部分も多く、現在の兵庫県の播磨で生まれたという説、現在の岡山県にある美作という説などがあり、はっきりとはしていません。自著である「五輪書」においては播州の出身とされています。
幼少時代から剣術のみでなく兵法を学んでいたとされており、かなり幼い段階から頭角を現します。13歳の時点で初めての試合をし、見事勝利。それ以降も武者修行の旅を続けることになります。
巌流島での佐々木小次郎との決戦
関ヶ原の合戦後、武蔵はさらに武者修行を続け、多くの剣士と試合、決闘を重ねることになります。21歳で都に上った後、さらに多くの剣士や兵法者と試合・決闘を行うことになります。この頃になると武蔵の名は世間に知れ渡るようになり、剣術書「兵道鏡」の執筆なども行いました。
その後は、さらに全国を旅しながら武者修行を重ねていきます。そして、武蔵の修行の集大成とされるのが巌流島での佐々木小次郎との決戦。無人島であった巌流島で決闘を行い、勝利しています。これが、宮本武蔵の最後の決闘となりました。
宮本武蔵の死因
その後の行方に関してははっきりとはしていないものの、各地を転々としながらさまざまな藩の客分として武士としての生き方を追求したとされています。1632年に51歳で小倉藩の客分となり、島原の乱に出陣。その後は、肥後熊本藩の客分として晩年を迎えました。武蔵は芸術にも長けていたと言われており、見事な水墨画や書なども残されています。
そして1645年6月13日に逝去しました。死因ははっきりとわかっておらず、熊本県熊本市北区龍田弓削にある武蔵塚がその墓とされています。
宮本武蔵の「五輪書」とは
宮本武蔵は剣術や兵法に関するいくつかの著作を残していますが、特に有名であり、宮本武蔵の生きざまの集大成と言えるのが「五輪書」です。
「五輪書」の内容をわかりやすく解説
「五輪書」は兵法の道を説いた書であり、「地」「水」「火」「風」「空」と題された全5巻に分けられています。各巻のおおまかな内容は以下の通りです。
地の巻 | 武士の道についての理論 |
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水の巻 | 剣術についての理論 |
火の巻 | 戦い方についての理論 |
風の巻 | 正しい道理についての理論 |
火の巻 | 修練の方法についての理論 |
それぞれの巻において、兵法が体系的に論じられており、宮本武蔵が追い求めた兵法の究極の形を知ることができます。
例えば「火」の巻には
- 状況をしっかりと把握してあらゆる条件を自分にとって有利に、相手に不利になるよう戦え
- 敵のことを知って強みを発揮させず、弱点を攻めるように戦え
といった趣旨のことが記されています。いたってシンプルかつ非常に合理的なものであり、現在のビジネス展開の戦略にも十分に活かすことができると言えるでしょう。
宮本武蔵が何をした人なのかを簡単に紹介しました
宮本武蔵は、戦国時代末期から江戸時代にかけて活躍した武士です。名だたる戦国武将のように、大きく歴史を動かしたというわけではありません。しかし、武士としての生きざまを追求し続け、現代人にも大きな影響を与えています。
宮本武蔵の「五輪書」は現在でも読むことができます。さまざまなことを学べるので一度手に取ってみてはいかがでしょうか。