織田信長は日本の歴史上の人物の中でも特に広く知られており、誰もがその名前を知っています。その一方で具体的に何をした人なのかわからないという方も多いのではないでしょうか。

ここでは織田信長が何をした人物なのか、そしてどのような時代を生きたのかについて詳しくご紹介します。

  • 織田信長は何をした人物か?

    織田信長とは何をした人物なのでしょうか

織田信長の年表

織田信長の人生の節目におけるイベントをまとめた年表が以下となります。こちらも踏まえながら、織田信長の人生を紐解いていきましょう。

西暦 出来事
1534年 尾張の家老・織田信秀の子として誕生する。幼名は吉法師
1547年 初陣に出る(三河の吉良大浜城攻略)
1548年 岐阜城の城主・斎藤道三の娘である濃姫と結婚する
1552年 父の信秀が流行病にかかり逝去したことに伴い、織田家の家督を相続する
1554年 守護代の織田彦五郎を討ち、清洲城の城主となる
1560年 桶狭間の戦いにて今川軍を破り、今川義元を討ちとる
1562年 清洲城で松平元康(後の徳川家康)と清州同盟を締結する
1563年 小牧山城主となる
1567年 岐阜城主となる
1570年 姉川の合戦で朝倉義景・浅井長政の連合軍を破る
1571年 明智光秀を坂本城主に任命する
1575年 長篠の戦いで武田勝頼軍を破る
1576年 安土城主となる
1582年 本能寺にて明智光秀に謀反を起こされ、自害する

織田信長は何をした人物なのか

織田信長は歴史上の人物でも特に人気が高い人物の一人と言えます。歴史の教科書だけでなく、映画やテレビドラマ、マンガやゲームなどに登場する機会も多いです。

織田信長はその知名度に見合うさまざまなことを行い、時代を大きく変えた人物です。ここではまず、織田信長がどのような人物なのかを詳しくご紹介します。

織田信長は戦国大名

織田信長を語るうえで外せないのが「戦国大名」という存在。信長が生まれたとされる1534年は、全国各地の有力な武将である戦国大名が領地を争い、内乱・内戦が繰り返されていた戦国時代のまっただ中でした。

信長の父である信秀は尾張国南部を支配していました。信長は織田家の三男として誕生していますが、当時の成人の儀式にあたる元服後、美濃の有力者である斎藤道三の娘・濃姫と結婚し、若くして織田家の家督を継いでいます。

その後、信長は尾張国の統一を果たすと、数々の戦いに身を投じながら勢力を全国へと広げて行くことになりました。

織田信長が治めた尾張国とは

織田信長が最初に統一を果たした尾張国は現在の愛知県にあたります。信長がわずか18歳で家督を継いだ当時、織田家は尾張国の南部を支配していたに過ぎず、その他にも有力な武将が存在していました。

また、周囲にも今川義元らをはじめとする有力な武将がおり、攻め込まれる機会もありました。そのような状況の中、信長は早い段階で尾張国を統一して周囲の国からの侵略に対する守りも固めていきました。

その後、全国へとその勢力を広げて行くことになった信長ですが、尾張国は重要な拠点の一つとして存在し続けました。

織田信長と徳川家康の関係性

戦国時代には多くの大名が全国統一、つまり天下統一を目指して戦いを繰り返していました。その中で、もっとも勢力を広げて天下統一に近づけたのが織田信長であると言われています。

後に天下を争うことになった豊臣秀吉、そして最終的には天下を統一して江戸幕府を開いた徳川家康も信長の配下でした。この点からも、信長が天下統一の基盤を作ったことは間違いないでしょう。

最終的には部下である明智光秀による謀反によって命を落とすことになりました。ドラマチックな生涯を送っているうえに、「この部下の謀反がなければ一代で天下統一を達成していたのでは?」という「IFストーリー」が語りやすいということもあり、特に人気の高い戦国武将となったのではないかとも考えられます。

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織田信長の戦いの歴史

前述の通り、織田信長は若くして戦国武将として台頭し、尾張国のみでなく全国各地で活躍しました。武将として非常に優れた人物であったとされており、さまざまなエピソードも残されています。

ここでは、織田信長がどのような戦国武将であったのかがわかる戦いの歴史をいくつかピックアップして詳しくご紹介します。

  • 戦国武将である織田信長が関係した戦いや事件

    織田信長の戦いの歴史を振り返ります

桶狭間の戦い

織田信長はいくつもの戦いに身を投じてきましたが、特に有名なのがこの桶狭間の戦いです。この戦いに勝利したことによって、信長は本格的に天下統一に向けて走り始めることになりました。

桶狭間の戦いの舞台は、当時の信長の拠点である尾張国。そして相手は駿河・近江一体を支配する大名であった今川義元です。諸説ありますが、今川軍は4万人にも及ぶ大軍を率いて尾張国に進行してきました。それを迎え撃つ信長の軍はわずか3,000人程度であったとされています。

戦力的に圧倒的に不利な状況でしたが、信長軍は風雨の天候の中、この少数精鋭の部隊で今川軍の本陣を襲撃するという奇襲作戦で見事勝利します。

戦国時代の戦いは、集団で入り乱れて戦うというスタイルであったため、軍の人数=強さでした。そのような状況の中、これほどの人数差、勢力差があるにも関わらず短期間で勝利するというのは異例であり、まさに大勝利であったと言えます。

この大勝利に勢いをつけて美濃国への攻略へと進んでいくことになりました。

美濃攻略

桶狭間の戦いによって今川義元に大勝利を飾るとすぐに信長は三河の松平元康と同盟を結び、勢力を拡大します。この松平元康こそが、のちの徳川家康です。そして尾張周辺を統一すべく、美濃の攻略へと進むことになります。

すぐに美濃周辺を支配していた斎藤龍興も追放することに成功して尾張統一を果たしました。

織田信長と一向一揆

着実に全国へと勢力を伸ばして行った信長ですが、時は戦国時代。目立てばそれだけ敵は増えます。信長が戦わなければならなかったのは戦国武将のみではありませんでした。特に、信長を苦しめることになったのが一向一揆です。

一向一揆とは、当時の一向宗(真宗本願寺派)の信者を中心とした反乱です。当時から日本国内には多くの仏教徒がいたため、その組織を利用した一揆とも言われています。武家のみでなく一般人も巻き込んだ大規模な一揆が何度も起こりました。

もともとは信長が台頭する以前、室町時代の中期から北陸などで発生していました。しかし、信長の時代になると本願寺を中心として大きな政治勢力としての地位を確立したことによって規模がより大きくなります。

信長もこの一向一揆に苦しめられました。それこそ一般市民をも巻き込んだ激しい戦いを繰り広げ、最終的には延暦寺の焼き討ちなどによって押さえ込みに成功します。

一般人を巻き込んで激しく争ったこともあり、信長には残虐といったイメージがつくようになりましたが、その後は有力な寺社を保護するなど各所とのバランスを取りながら天下統一を目指しています。

本能寺の変

信長の運命を大きく変えてしまうことになったのが本能寺の変です。順調に全国に勢力を伸ばしていった信長ですが、1582年6月2日、滞在していた京都の本能寺が襲撃されます。

襲撃したのは長年にわたって信長に仕えてきた腹心・明智光秀でした。完全に周囲を包囲され、反撃の術もなかった信長はここで自ら命を絶ちました。当時49歳でした。

光秀が本能寺の変を起こすに至った理由に関しては諸説ありますが、直後に討ち取られていることもあり、はっきりしたことはわかっていません。まさに謎だらけの類を見ない謀反劇であったと言えます。

文化人としての織田信長のエピソード

織田信長は幾度もの戦いを繰り返してきたことから、残虐、無慈悲といったイメージが持たれがちです。そういった一面を持っていたことは事実ですが、一方で文化人、優れた政治家としての一面も持っています。

ここでは信長の武将としての顔以外のエピソードをご紹介します。

  • 文化人としての織田信長

    信長はさまざまな顔を持っています

織田信長と宗教の関係性

信長自身は禅宗であったとされていますが、どちらかというと宗教をひとつの勢力としてしかみておらず、政治的に利用するようなところがありました。それだけに、当時ヨーロッパから入ってきたキリスト教にも寛容であり、保護していました。安土や京都には宗教施設の建設も許可しています。

織田信長とヨーロッパ文化の関係性

また、ヨーロッパ文化にも関心が高く、積極的に取り入れようとしたとも言われています。戦いにおいても当時ヨーロッパからわたってきたばかりの銃を積極的に活用しました。

織田信長と茶道具

信長は茶道具を収集していたことでも知られています。特に上洛後は各地の武将や商人などから高貴な茶道具を進呈され、茶の湯の世界にのめりこみました。千利休ら高名な茶人も召し抱えていました。

この茶の湯の趣味は生涯にわたって続き、かなりの数の茶道具を集めていたとされています。

織田信長の経済政策

経済政策においては各地で検地などを行って、領地の把握を積極的に行っています。さらに、当時バラつきのあった年貢の単位統一なども行いました。

また、関所の撤廃などで流通の円滑化を図り、安土の城下町ではより自由に商売ができる楽市・楽座といった政策を行い、経済の活性化を目指しています。

織田信長の名言

戦国武将として、文化人として、そしてリーダーとして優れていた織田信長は名言をいくつも残しています。そんな織田信長の名言を一部紹介します。

  • 絶対は絶対にない
  • 是非に及ばず
  • 人間五十年 化天(下天)のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか

このうち、「人間五十年~」は桶狭間の合戦において、部下たちを鼓舞するためにかけた言葉とも言われています。もともとは語りを伴う曲舞「幸若舞」の演目の一つである「敦盛」の中にある言葉です。

「人生における50年の歳月は天界においてはほんの一瞬にしかあたらない、夢や幻のようなものである。この世に生を受けた人の中で死なない者などいない」といった意味合いになります。

織田信長がしたことをわかりやすく紹介しました

織田信長は戦国時代を代表する武将の一人であり、一代で天下統一を最も推し進めた人物としても歴史的に評価されています。

その一方で、強引に勢力を広げていったこともあり、残虐で無慈悲といったネガティブなイメージを持たれることも少なくありません。しかし、武将としてのみでなく政治家や文化人としての側面もあわせ持っています。

このようにさまざまな面を持ち、非常にドラマチックな人生を送ったこともあり、歴史上の人物の中でも特に高い人気を維持しているのかもしれません。