モデルの井手上漠が出演する、日本郵便・成人の日キャンペーンのWEB動画「成人の誓い」編が9日、公開された。

  • 日本郵便・成人の日キャンペーンの動画に出演した井手上漠

自分のアイデンティティと周囲とのギャップに葛藤を抱いていた幼少期から、自分を尊重してくれた母。同キャンペーンでは、井手上がそんな母への感謝を直筆の手紙にして贈る。撮影は、井手上の故郷である島根・隠岐諸島で実施。実際に通った中学校や、行きつけの喫茶店などで行われた。

また、キャンペーン動画のほか、手紙をモチーフにした新聞、ラジオCMも順次展開される。

■井手上漠 手紙全文

20歳になった私からお母さんへ

お母さん、20歳になりました。
私は今、社会の波の中で溺れそうになりながら必死に生きています。
「大人」になって思うのは、言葉では伝えきれないお母さんへの感謝の気持ちです。
中学2年の時にもらったあの言葉は、今も私を守ってくれています。
「普通」の男の子達とは好みも感覚も違っていて、自分の性別がわからず 周囲から浮いた存在だった頃、お母さんに呼ばれてふたりで話したあの日。
性別の悩みを打ち明ける怖さと、私を思ってくれている安堵感、 ごちゃごちゃな感情で大泣きしてしまいました。
ゆっくりうなずくお母さんのあの優しい目を私は忘れません。
そして「漠は漠のままでいいからね」って言ってくれたよね。
その言葉をもらった日以来、私は怖いものがなくなりました。
「普通だったら漠はどんなに幸せだっただろう、お母さんのせいなんじゃないか」 って言われた時もあったけど、全くそんなことないよ。
母子家庭で働きっぱなしだったから、学校の行事も来られなかったけど、 寂しいと思ったことは一度もなかった。
遠足のお弁当はどの子よりも、きらっきらなキャラ弁を作ってくれて、 運動会で1番をとれなくても「笑顔が1番だった」って手作りの賞状をくれた。
私は世界一幸せな息子です。
心配かもしれないけど、私は大丈夫だよ。
お母さんがくれた強さと優しさで戦っていけます。
成人になって、またいろんな壁にぶつかっていくだろうけど、 「漠は漠のまま」ありのままで頑張っていくよ。
私を産んでくれて、20年間育ててくれてありがとう。大好き。

井手上漠

■井手上漠インタビュー
――小さい頃は、どんな子どもだったんですか?

母と姉との3人家族でずっと暮らしてきました。私がかわいいもの、美しいものを好むようになったきっかけは、3歳の頃に連れて行ってもらった結婚式で見たウエディングドレスなんです。この世にはこんなに純白で美しくてキラキラしたものがあるんだ、見るだけで癒しをもらえるものがあるんだって、3歳ながらすごく興奮して。それをきっかけにかわいいものやキラキラしたものがすごく好きになって、自分もいつかこういうものを着たいっていう願望を抱くようになりました。保育園の時もキラキラしたものやかわいいもので遊ぶことが多かったので、周りの友だちも女の子が多くて、価値観も一般的に言われる女性的なものがすごく多かったんです。いま髪が長いのは、そのほうがかわいい、美しい、自分らしいと思っていて、私はスカートもはきますが、スカートが男性的、女性的という見方ではなく、美しいから、着ていて楽しいから、という感覚で選んでいます。3歳の頃をきっかけにそういう価値観で過ごしていました。

――それから学校生活になりますよね。

小学4年生まで肩に付くくらい髪が長くて、母に美容院に連れていかれると、泣きながら走り回って嫌だ嫌だっていうような息子だったそうです。5年生になると学校で男女の区別が始まり、着替える部屋を分けられた時に、私はそれまでいつも女子と一緒にいましたが、初めて男子として区別されました。男性として生まれたのでそれに従っていたのですが、私以上に周りの男子達が私に違和感を覚えたようで、そこから否定的な言葉や、絶対に言われて嬉しくはない言葉をかけられるようになりました。髪も長いのが好きでしたし、フリフリした服をたくさん着ていたので、「あ、自分って変わってるんだ」と、そこで初めて違和感を感じました。

――自分が他と変わっていることに気づいて、何か行動したことは?

当時の私は変わってることに対して「自分がおかしい」と思ってしまいました。小学校や中学校の社会ってどうしてもマジョリティの意見が正しいとなりがちで、その中で自分はマイノリティ側の人間だったということにすごくショックを受けて、周りの子にも否定されてしまう状況でした。私は「きっと髪が長いからおかしいんだ」と思って、裸になるぐらい恥ずかしかったんですけど、人生ではじめて髪を短くするっていう決断をしたんです。その頃はいつも母が髪を切ってくれていたので、母にお願いして、バッサリ切ってもらいました。服装もシンプルにしたり、好きだった美容への関心も封印して、なるべく男子の中に溶け込むように頑張ったんですけど、同時に心から楽しいと思えるものがなくなってしまったんです。今になって思うのですが、当時の自分は自己中心的だったとも思います。助けてほしいと言えば、助けてくれる人はたくさんいたし、「漠ちゃんは漠ちゃんだよね」って言ってくれる人もたくさんいたけど、私が周りを見ようとしなかった。勝手に自分の周りに壁を作って、周りからの心配の声とか、助けてくれようとしてるかもしれない言葉でさえシャットアウトしてたから。でもその頃は、生きてる意味を感じなくなることもあって、このままマイノリティとして生きていたら、社会に出たとき孤立してしまうんじゃないか、という恐怖から、この世から消えたいと思った時もあるほど悩んでいました。

――その時に、お母さんからあの言葉をもらうんですよね?

中学2年生の頃の、私の原点と言える出来事です。母に「話がある」と呼ばれて、一言目に恋愛対象を聞かれました。なぜ母がそれを聞いてきたか、すぐに分かったんです。当時隠れて図書館で性別の本を読んで、自分はどの枠に当てはまるのか調べていたので。恋愛対象が分かれば性別の枠っていうのは当てはめることができるのかと思ったのですが、私の場合はいくら調べても分かりませんでした。これが正解なのか、いや、でも自分には当てはまってないって、ずっとどこの枠に当てはめることができず、それがいちばん嫌だった。正解なんて本当はないんですよ。でも、その当時は「みんなには正解があるのに、なんで私はこんなに正解がない中で生きてるんだろう、どこで何を間違ったんだろう」と自分を責めていた時に、母から恋愛対象を聞かれて。おそらく母も母なりに調べて、私を傷つけないような言葉は何だろうと絞り出した答えが「恋愛対象」だったと思うんですね。でもうまく言葉にする事ができなかったので、学校であった出来事だったり、性別について調べてもわからなかったことなど、初めて自分のことを全部打ち明けました。母はうなずくだけで、私が話し終わった後に「漠は漠のままでいいんだよ」って言ってくれたんです。当時の私は、それがすごく欲しかった言葉でした。いちばん大好きな母が味方でいてくれたっていうことに、心が解放されたというか。今まで正解がないと思ってたけど、少し正解が見えた気がしてすごくうれしかったんです。そして、これからは好きなことを好きなだけやってやろうって思ったんです。それに対して批判的な声もあるかもしれないけど、不思議と怖くなかったんです。だって家に帰れば母が味方だから。学校でどれだけ否定されたとしても、家に帰って話せば、母はきっとうなずいて肯定してくれるから。そこから大好きだった美容を学び始めたり、自分の周りを好きなもので囲んでいきました。そしたらどんどん性格が明るくなって、学校の子たちとの関係性は特に変えなかったんですけど、美容が好きっていうのは気づかれてて、美容のこと教えてほしいっていう子が増えたりとか、友だちと呼べる人が自然と増えていったんです。

――お母さんの言葉をきっかけに、どんどん世界が広がっていったと。

先生の勧めで、自分のことを弁論大会で発表しました。そこから島の大会、県大会、中四国ブロック大会、全国大会と進むたびに応援してくれる人が増えて、最終的には島全体で横断幕を掲げて「井手上漠、全国大会頑張ってこい」って押してくれました。結果「少年の主張全国大会」で文部科学大臣賞を頂けました。また、診療所の先生の勧めで「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」を受けたらファイナリストにまで進む事ができて、そのおかげで今このようなお仕事をさせて頂いているのですが、原点をたどると全部母のおかげだなと思います。今回の手紙にも書きましたが、私が昨年フォトエッセイを出版した際に母から長文のメッセージがきて、そこに初めて母の弱音が書いてあったんです。「漠がこういうふうになってしまったのは、自分のせいなんじゃないか、って悩んだ時があった」、「自分がもっとしてあげられることがあったんじゃないか」という内容が書いてあって。もちろんそんなことはなくて、全然母のせいではなくむしろ母のおかげで今の私があるんです。普通なんてないし正解もないけど、自分にしかわからない価値観や自分にしか抱けない感情を幼いながらに感じてここまで生きてこられたのは、母が私を産んで、しっかり育ててくれたからこそなんです。いま性別のことに悩んでる人たちの支えになれるように活動を行えているのも、その価値観や感情を知っているからこそ出来る事ですし、それはまさに母からもらった財産なので、私は母の子供でよかったなと心から思っています。

――20歳の目標と、これからの人生、どういう大人になっていきたいですか?

私が好きな言葉があって、1つは「好きこそものの上手なれ」です。好きなことを通して本当の自分らしさを見つけて今の私があるから。好きなことっていうのは隠すものじゃなくて開花させるものだと、この20年間ですごく学ばせてもらったので、これからも好きなことに囲まれながら、好きなことを大事にしながら生きていきたい。もう1つは「人生は何を得るかではなく、何を残すかにある」という言葉です。誰でも生きていれば得ることはありますけど、それを次の世代、時代に残すことが、今を生きる私たちにできることだと。言葉でも、形があるものでも、何かをこの世の中に残すことが、私の目標です。もしそれが自分の好きなことの中から残せたとしたら、いちばん理想ですね。

――今回、手紙を書いてみていかがでしたか?

このような機会を頂きありがとうございます。私はけっこう感謝の気持ちを声に出して伝えてきた方だと思いますが、感謝って何回伝えてもいいなと思います。「手紙」を書いて伝えるのは、最近はメールが主となっているのであまり機会がなかったんです。でも今回直筆で文字にして伝えてみて、やっぱりペンを持って書くと、より感情や思いが乗るんですよね。お手紙って素敵だなと改めて思いました。今回母に向けて感謝の気持ちを書きながら、私は母以外にも周りのたくさんの人たちに恵まれて育って、幸せ者なんだなってすごく思いました。いままで「幸せになりたい」とか「幸せが欲しい」とかそういう願望が強かったんですけど、すごく欲張りだったことに気づいて。誰しも周りに小さな幸せがあることに、気づけてないだけなんですよね。それに気づける豊かな心があれば、誰だって幸せを感じられる。私はたぶん欲張りで「幸せが欲しい」って願望を抱いてたんですけど、私の周りにある小さな幸せに気付けなかっただけなんだって、今回手紙を書くことを通じて、改めて感じました。新成人のみなさんにも、この機会にぜひお手紙を書いてみてもらいたいです。