「天命に逆らうな」。かつては当たる占い師であった歩き巫女(大竹しのぶ)がいささか呆けて誰彼となく発していた無意味な言葉が重く響いた。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)において、この言葉と、鎌倉殿三代に伝わってきた誰のものかわからない髑髏は重要である。つまり、信じても無意味なものと本当に信じるべきものは何なのかということだ。まず、「天命」と「髑髏」が印象的な第45回「八幡宮の階段」(脚本:三谷幸喜 演出:安藤大佑)を振り返ろう。

  • 『鎌倉殿の13人』北条義時役の小栗旬

雪が舞うなか、実朝(柿澤勇人)が右大臣昇進の儀式を終えて鶴ケ岡八幡宮の階段を下りる途中、待ち伏せしていた公暁(寛一郎)が現れる。

太刀持ちの仕事を義時(小栗旬)から奪った仲章(生田斗真)が斬られたため、義時は「天」に守られていると時房(瀬戸康史)が言い、当人も「天」に生きろと言われていると、まだやらねばならないことがあると思い込む。やらねばならないこととは、鎌倉幕府を京都の支配を受けない武士の国にすることだろうか。あるいは北条家を盤石にすることだろうか。

公暁に狙われた実朝は「天命に逆らうな」という歩き巫女の言葉が頭にこびりついてか、死を受け入れてしまう。実朝と一緒に階段を下りてきた者たちは仲章が殺されてびびって逃げたのか1人も実朝の周りにいない。実朝を守ろうとする人が1人もいないなどということはあるものだろうか。公暁が仲章から一気に実朝を斬ったのならともかく、ものすごく間があったにもかかわらず、誰も公暁と実朝の間に入らないのはよっぽど実朝が誰にも大切にされていないと感じざるを得ない。全員義時派閥だったのかと思うとお気の毒である。

実朝想いの泰時(坂口健太郎)も階下から呆然と見ているだけだし、このフォーメーションがやや気になったが、本当は実朝が逃げようと思えば逃げられたにもかかわらず「天命」を受け入れたということなのだと考えることにした。

本懐を遂げた公暁は、現場から逃げ、実朝の部屋から「髑髏」を盗み、自分こそ四代目であると政子(小池栄子)に告げる。誰のものかわからないあやしい「髑髏」を後生大事に抱える公暁を見つめる政子の表情は哀しい。

「髑髏」は第3話にて文覚(市川猿之助)が持ってきたものを誰のものかわからないことを知ったうえで政子が「平家と闘って死んでいった者たちの無念がこもっております」と頼朝に発破をかけることに利用したもの。そして頼朝は「どこの誰かは存ぜぬがこの生命、お主にかけよう」と挙兵を決意したのだ。

夢のお告げなど、この頃は占い的なものを信じていたから、ニセ髑髏に「天命」を捧げたわけだが、つまりそんな「天命」とは、要するに思い込みにほかならない。鎌倉殿三代は思い込みにはじまり思い込みに終わったのだ。

実朝は生きようと思えば生きられたかもしれないところ、自分が死ぬのが「天命」と思い込んだからそこで終わってしまった。つまり『スラムダンク』の名言「諦めたらそこで試合終了ですよ」なのだ。それに比べて義時と義村は諦めていないから生き続けているのだ。そういう意味では公暁は諦めていなかったにもかかわらず諦めない力のもっと強い義村(山本耕史)に殺されてしまったということになる。

もともとは義村が公暁を焚き付けたのに。生にしがみつく男・三浦義村。義時を殺そうとしたのかと詰め寄られても、なんだかんだと言ってすり抜けようとする。筆者は山本耕史がTBSの『オールスター感謝祭』(10月1日放送)に『クロサギ』チームとして参加し、トランプでタワーを作るゲームに挑戦したときに、諦めない粘り強さを感じて感心したのだが、山本が演じているからこそ三浦義村の生きる力が強烈に輝いて見えるのではないだろうか。

さて、前述した本当に信じるべきものとは何か。『鎌倉殿』から感じるのは、この生きる意志である。

実朝も公暁も亡くなって哀しみのあまり自害しようとする政子をトウ(山本千尋)が止める。「自ら死んではならない」。『鎌倉殿』で自害した人物は仁田(高岸宏行)くらいで、ほかの人たちは皆、最後まで生きようとしていた。伝承では川に身を投げたとも言われる八重(新垣結衣)も子供の命を助けようとして命を落とした描写になっている。

生きることを選んだ政子は鎌倉を出ようとするが、義時に「とことんつきあってもらいます」と恨みのこもったような声で引き止められる。「髑髏」からはじまった鎌倉殿の虚しい権力争いの発端は政子なのだから。勝手な思い込みで生まれた「天命」のようなものに政子はどう落とし前をつけるか、瀬戸際に立たされた政子と、まだやることがあると諦めない義時の姉弟の道行きは地獄でしかないだろう。

(C)NHK