マイナビニュースでも既報のとおり、インターネットイニシアティブ(IIJ)は2022年12月3日に創業30周年を迎えます。国内初のインターネット接続事業者として、日本のインターネットを築きあげるうえで大きな役割を果たした同社の30年の歩みをたどってみましょう。
前編となる今回は、IIJの創業者で現在は同社代表取締役会長を務める鈴木幸一氏の著書『日本インターネット書紀』(講談社)に拠って、IIJの創業当時を振り返ります。
起業のきっかけは村井純氏
IIJが創業したのは1992年。鈴木氏はそのきっかけを次のように振り返っています。
そもそものことの始まりは、その年の夏の暑い盛りのころであった。付き合いの長い友人が、私の仕事場を訪ねてきたのである。
「鈴木さん、若いころから、激しいことしてきたでしょう。僕らは研究者と技術者しかいない。経営のほうをなんとか頼みますよ」
(略)
日本でインターネット接続サービスを始めたい、ついては、そのために会社の立ち上げと経営に力を貸してほしいという相談であった。
――『日本インターネット書紀』P.23
この“付き合いの長い友人”のひとりが、日本の学術組織を結んだ研究用のネットワークJUNETやWIDEプロジェクトなどで日本のインターネット発展に大きな貢献をした慶應義塾大学の村井純教授(当時助教授)。もうひとりが、のちにIIJの初代社長を務めることになる深瀬弘恭氏で、当時アスキーのソフトウェア開発部長を務めていたそうです。
ここで、この年がどんな年だったか、当時のパソコン市場の様子をみてみましょう。
1990年代初め、日本のパソコン市場ではNECのPC-9801シリーズが圧倒的なシェアをもっていました。そこにコンパックが低価格なDOS/VベースのAT互換機で参入してきたのがまさにこの1992年です。OSとしてはマイクロソフトからWindows 3.1がこの年リリースされていますが、日本語版の登場は翌1993年。Appleはちょうどスティーブ・ジョブズが同社を離れていた時期で、Macintosh IIvi/IIvx、Quadra 950などがこの年発売。米国でSystem 7.1が登場し、日本国内ではそれをベースとした漢字Talk 7 リリース7.1が12月に投入されています。
当時のインターネット環境はというと、米国でダイヤルアップ接続によるインターネット接続を提供する商用プロバイダーが成長しつつあるという状況。日本でも前述の村井氏を中心に1980年代からのWIDE研究会/WIDEプロジェクトの活動があり、1991年にはJNIC(現在のJPNICの前身)が作られてJPドメイン名の登録管理業務をはじめていましたが、インターネットを利用しているのは大学の研究者や一部の通信の専門家などに限られていたでしょう。
前掲書によれば、当時のインターネットを取り巻く状況は以下のようだったといいます。
幸いに、というべきか、日本には、インターネットに投資しようという人もいなければ、事業化を目指す会社も、どこにもなかった。
――『日本インターネット書紀』P.29
当時、その可能性に気づき、インターネットに賭けてみようという人は皆無だった。
――『日本インターネット書紀』P.31
当時の鈴木氏は46歳。村井氏や深瀬氏をはじめとする日本インターネットの先駆者たちとの交流からインターネットの将来性に期待はあったものの、当初は自らが事業化に取り組むことについては慎重だったようです。しかし最後には、
世界を見渡しても、商用インターネットは黎明期である。この資本を元手に先んじれば、日本と世界をリードすることも不可能ではない。そうすれば、インターネットでこの世界をひっくり返すこともできるかもしれない。
――『日本インターネット書紀』P.29
と、会社の立ち上げに踏み切りました。そして1992年12月3日、インターネットイニシアティブが創業されることになります(設立時点での社名は株式会社インターネットイニシアティブ企画、1993年5月に現社名に変更)。
英語の社名にだけ「Japan」をつけたわけ
なお、この「インターネットイニシアティブ」という社名を見て、通称「IIJ」の「J」はどこからきたのかと思う方もいるでしょう。実は同社の英語社名は「Internet Initiative Japan」と「Japan」がついており、通称「IIJ」はその頭文字からきています。
この英語社名の背景は次のようなものであったそうです。
米国の知人たちに「インターネットイニシアティブ」という会社を立ち上げたと伝えると、「そのイニシアティブはあくまで日本の、だろう」と、そんなことを言われた。釈然としない思いはあったものの、後ろに「Japan」をつけてみたら、略称が「IIJ」になってゴロがいいからと受け入れた。
――『日本インターネット書紀』P.31
その後、社名自体を「IIJ」に変えるという意見も出ているそうですが、「名前を変えたら社風まで変わってしまいそう」として、「インターネットイニシアティブ」という社名を使い続けています。
特別第二種通信事業者としての登録を求められ……
さて、そんなIIJですが、創業後の事業立ち上げは必ずしも順調ではありませんでした。
ひとつめは資金の問題です。再び前掲書の記述を引きます。
会社の立ち上げにあたり、10億円の単位で支援をしてくれると聞いていた企業が、じつはまったく希望的観測に基づいた話で、具体的にはなにひとつ固まっていなかったことが明らかになっていた。
――『日本インターネット書紀』P.20
村井さんと深瀬さんが話していた10億円という資金の当ても、結局、当人たちの楽観的な思惑でしかなかった。
――『日本インターネット書紀』P.33
このため、同社は1,800万円の資本金で設立されました。10億円の資金でインターネットのインフラを整備しようという目論見が、50分の1の資金でのスタートとなったわけです。
そしてその状況に追い打ちをかけたのが、当時通信行政を所管していた郵政省に、一般第二種通信事業者としての届出が受理されなかったことでした。
当時は2004年の電気通信事業法改正の前で、電気通信事業者は「第一種電気通信事業者」「特別第二種電気通信事業者」「一般第二種電気通信事業者」に区分されていました。当初IIJが目指したのは、基本的に国内通信サービスを提供する「一般第二種」。この区分であれば届出だけで事業を開始できるため、ハードルが低いはずでした。
しかし郵政省は、世界中のコンピュータへのアクセスが可能なインターネット接続は国際通信サービスであるとして、サービス開始にあたっては「特別第二種通信事業者」としての登録を求めるという判断をしました。そしてその登録審査にあたって、「日本の通信行政の歴史で、通信事業者が倒産した例はない」と、事業が不調でも会社がつぶれることのない十分な財務基盤があることを求めました。
当時、国際通信サービスを手掛ける「特別第二種電気通信事業者」として「登録」されていた企業を見ると、どれもが巨大な親会社がバックについていた。それこそ、3年間利用者がつかなくとも、十分存続していける規模の資本をもつ企業ばかりだった。
要するに、それが役所のホンネだった。
――『日本インターネット書紀』P.68
その後の折衝で、当初は「3年間無収入でも会社を維持していける財政基盤」とあいまいだった要求から、具体的な「最低3億円の財政基盤」という条件を引き出すまでに約1年。銀行からの融資保証を得て、郵政省と再度折衝し、特別第二種通信事業者としての登録が認められたのは1994年の2月28日。そして3月1日にIIJは日本で最初の商用インターネット接続事業者となりました。
特別第二種の登録が認められるまでの間も、一般第二種の範囲でサービスを提供したり、研究開発に取り組むなどしていたものの、この1年3カ月の停滞には忸怩たる思いがあるようです。
IIJはいまもってなお、私が当初思い描いたIIJの未来の姿に遠く及ばない。IIJの可能性はこんなものではないという思いと、現実の状況との乖離は、いまになってもなかなか埋まりそうもない。この越えがたい溝を作り出した最大の原因は、ほかでもない、郵政省との折衝に明け暮れ、ほとんどなにもできなかった1年3カ月という長すぎた時間の空費である。
――『日本インターネット書紀』P.111
それを思うと、郵政省との折衝に空費した1年数カ月の日々が苦々しい記憶として脳裏に浮かびあがってくる。ドッグイヤーともラットイヤーともいわれる激動のインターネットの世界の、「創世記」ともいえる時期のことである。あの時間の空費さえなければ、グローバル・スタンダードとなった技術や事業をIIJでいくつかは実現できたのではないかと、悔しさと憤りとやるせなさが入り混じった、御しがたい思いがこみ上げてくる。
――『日本インターネット書紀』P.116
サービスの立ち上げではなく、インターネットの品質・信頼性向上を選択
いざインターネット接続サービスを開始してみると、次々に申し込みがありました。ユーザー第1号は日立製作所、そしてNTT、NECが続きます。しかし認可からサービス開始までがあまりに早かったため、日米間の国際回線の確保が間に合わず、苦肉の策として国際電話回線をつなぎっぱなしにしてサービスを提供したものの、本来のサービスではない内容だったことからユーザーからのクレームを受けるということもあったそうです。
そういった苦労はありつつも、1994年6月にはダイヤルアップIP接続のサービスをも開始。このころは法人向け・個人向けを問わずサービスは爆発的な伸びで、全国の営業拠点の整備には着手していたものの、「営業がまったくいらない状況」だったようです。
そんな中での懸念は、インターネットを利用した新たなサービスがなかなか立ち上がってこなかったことでした。
当時の企業のインターネット活用法といえば、メールをはじめとする通信サービスの利用、ウェブサイトからの情報収集、会社案内のためのホームページ制作、というところがせいぜいだった。
「物品の販売から金融取引まで、ほとんどのサービスは、インターネット上で提供することが可能であり、将来は、インターネットを使ったビジネスが巨大な市場になる」
私がどれだけ吹きまくっても、インターネットを利用する事業への参入については、どこも半信半疑だった。
――『日本インターネット書紀』P.132
1994年といえば、米国ホワイトハウスや日本の首相官邸がWebサイトがようやく開設されたばかりという状況。Yahoo!はかろうじてこの年に生まれていたものの、Amazon.comがオンライン書店のサービスを開始する前年です。周囲が半信半疑であったのも無理のないところといえるでしょう。
ここでIIJ自身がサービスの立ち上げに向かうという選択肢もありましたが、IIJはインフラとしてのインターネットの品質・信頼性向上に注力するという判断をしました。
結局、IIJは、ネットを前提とした新しいビジネスをもっとも早く立ち上げられる立場にありながら、限られた資本と人員という制約に縛られ、なによりも設立の目的であったインターネットという新しい情報通信インフラをつくることに、すべてのヒト、モノ、カネを投入するほかなかった。インターネットという情報通信基盤を、世界でもっとも高い水準で構築・運用するのに経営資源を集中したため、のちに「技術者帝国主義」とまで揶揄される技術や企業として発展する道を選んだということである。
――『日本インターネット書紀』P.133
ここでは「揶揄される」と表現していますが、「技術者帝国主義」という言葉をマイナスに受け止めている印象はありません。創業30周年を記念して発表された「IIJアカデミー」もそうですが、技術を重視するIIJの社風は、“インターネットの事業化に携わりたい”という思いだけでIIJに集まったエンジニアたちから、脈々と受け継がれている伝統なのでしょう。
さて、こうして事業を開始したIIJですが、その歴史の中では創業時に並ぶほどの苦難もありました。中編では、アジア・インターネット・ホールディングとクロスウェイブ・コミュニケーションズという、ふたつの挫折をとりあげます。