国語の教科書にも載っている芥川龍之介の『羅生門』。善悪と命の比重について問いかけるこの短編は、現在でも私たちに答えの出ない問いを投げかけます。
今回は『羅生門』をあらすじをご紹介するとともに、わかりやすくポイントを解説します。黒澤明監督の映画や、元ネタになった『今昔物語集』についてもまとめました。
『羅生門』の登場人物
『羅生門』の主な登場人物は2人だけです。いずれも名はなく、ただ「下人」と「老婆」とだけ呼ばれます。しかし物語を精読すると、文章中では語られない彼らの人生が見えてきます。まずはそれぞれの登場人物についてまとめました。
下人
物語は下人を中心に、第三者視点で進行します。下人とは、雑事に従事する人のことです。
単に身分の低い平民全体を指すこともあったようですが「ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る」という描写がありますので、この下人は住み込みの雇われ人であったようです。しかしその主には「四五日前に暇を出され」とあり、現在は路頭に迷っています。
また面皰(にきび)を気にする描写があることから、彼はまだ若い、思春期前後の少年であることも推測されます。物語冒頭で下人は、仕事がなくなり、明日の暮らしがどうにもならない現状に、ただぼんやりと羅生門の下で雨を見ています。
彼は今まさに、盗人になるかどうかを思案しているところでした。
老婆
下人が羅生門の上で出会う老婆です。女の亡骸から髪を抜き、鬘(かずら/かつら)にしようとしています。彼女は「檜皮色(ひわだいろ)の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭(しらがあたま)の、猿のような老婆」と表現されており、手には火をともした木片(きぎれ)を持っていました。
こちらはどんな暮らしをしているのか、作中では語られません。しかし下人と同じように、仕事も蓄えもなく、日々の暮らしに困窮している様子は見て取れます。
死んだ女の所業をよく知っていたので、やはり老婆も死んだ女と同様の不正を行う仲間だったのかもしれません。最後は下人に着物を奪われ、裸のままで羅生門に取り残されます。
『羅生門』をあらすじで簡単に読む(ネタバレあり)
『羅生門』は1915年(大正4年)に発表された、芥川龍之介による短編小説です。そんな『羅生門』のあらすじを早速、見ていきましょう。
『羅生門』のあらすじ
ある雨の降る夕暮れ、1人の下人が羅生門の下に立っていました。下人は職を失ったばかりで帰る家もなく、明日の暮らしに迷って盗人になることを考えています。とにかく一夜をやり過ごそうと羅生門の上へあがった下人は、累々と横たわる死骸の中にうずくまる老婆を見つけました。
よく見ると、老婆は女の死骸から髪を抜いているのです。下人には、悪に対する憎悪、反感が沸き起こります。その思いに任せて老婆を取り押さえ、問いただすと、老婆は、髪を抜いて鬘にする(、そしてそれを売って飢えをしのぐ)のだと答えました。
侮蔑する下人に、老婆は自らの所業を「仕方のないことだ」と言い、自らの「悪」についての考えを述べます。
それを聞いた下人は、ならば自分も飢え死にを免れるために盗人になるのは「仕方がない」ことだと考え、老婆から着物を奪って走り去ります。
下人の行方は闇に紛れ、誰にもわからなくなりました。
『羅生門』の時代背景と場所
『羅生門』の物語の舞台は平安時代の京都です。下人と老婆の行動の背景には、当時のすさんだ社会状況がありました。
『羅生門』の冒頭では、当時の状況を「この二三年、京都には、地震とか辻風(つじかぜ)とか火事とか饑饉(ききん)とか云う災(わざわい)がつづいて起った。そこで洛中(らくちゅう)のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に売っていた」と表現しています。
平安時代は、政治の中心が天皇から貴族、そして武士へと移り変わっていった時代です。激動の中で、特に平安中期ごろからは「末法思想」が広がり、仏の教法が衰滅する時代と呼ばれました。この流行は、当時の社会情勢がそれほど厳しいものであったことにも関連するといわれています。
そうした時代には下人や老婆のように、生き延びるために罪を犯す人は決して少なくなかったようです。
『羅生門』を3つのポイントで解説
授業や読書感想文の課題として取り上げられることも多い『羅生門』。短い小説だけに、どう解釈していいのか迷うこともあるかもしれません。次は、この作品を理解するための大きなポイントを3つ紹介します。
【1】下人の心に湧き上がる異なる種類の「勇気」
物語の大きな流れは、下人の心の動きを追っています。門の前で佇む下人は、飢え死にするかどうかの瀬戸際まで追いつめられています。このときの下人の心境は、「『盗人(ぬすびと)になるよりほかに仕方がない』と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ず」と表現されています。
しかし羅生門の上で老婆の姿を見たときには、何の未練もなく飢え死にを選ぶほどに悪を憎む心が、下人の心に燃え上がります。
一方で、老婆の話を聞いたときの下人の心情は「饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた」とあります。このことは「老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気」と表現されています。
【2】老婆が語る「悪」の定義
下人の心を決定づけた老婆の話とは、どんなものだったのでしょうか。老婆は髪を抜いていた女のことを「そのくらいな事を、されてもいい人間」だと言います。女は蛇を切ったものを干魚(ほしうお)と偽って売っていたのです。老婆は、女の行為は生きるためには仕方のないことだったと言い、同じように自分の悪事も「大目に見てくれる」はず、と説きます。
これを聞いた下人は自分の境遇を思い出し、生きるために老婆から着物を剝ぎ取るのです。
【3】下人の行方は…?
そして物語は「下人の行方(ゆくえ)は、誰も知らない」と締めくくられます。門の下には夜があるばかりです。この暗闇は、下人の行く末を暗示した描写でしょう。老婆の悪の定義を受け入れた下人は、自分もそうして生きていくことを選んだのです。
この先、彼がどうなるのかは、誰にもわかりません。改心するかもしれませんし、女と老婆の関係から推測すれば、下人もまた、いずれは誰かに何かを奪われる側に回るのかもしれません。
作者・芥川龍之介は古典好き? 『羅生門』の元ネタとは
『羅生門』は『今昔物語集』のに収録された話を元にしています。ここでは元ネタである「羅城門登上層見死人盗人語」と『羅生門』との違いについて見ていきましょう。
元話『今昔物語集』の「羅城門登上層見死人盗人語」との違いは?
「羅城門登上層見死人盗人語(羅城門ノ上層ニ登リテ死人ヲ見タル盗人ノ語)」の主人公は、盗人になろうと思って京にやってきた男です。まだ日が明るかったので、男は人通りが少なくなるのを待つために羅城門の上へあがると、門の上の階で死人の髪を抜く老婆を見つけます。老婆はやはり、鬘にするために髪の毛を集めているのですが、死んだ女は自分の主であったこと、葬儀などをする人もいないので、こうして亡骸を捨て置いていることを語ります。男は死人の衣服と、老婆の衣服、そして老婆が抜いた髪を奪って去ります。
『羅生門』では、主人公は若い下人でした。盗人になるかどうかは決めかねています。芥川龍之介はこの設定を変えることで、ただ貧困に陥っただけでなく、人生の分岐点に立った若者を表現したのでしょう。
また、老婆と女の関係性も変更されていて、もともと『今昔物語集』では、老婆は主である女の遺体から髪を抜いていました。物語自体も盗人の男が後に語ったことされています。芥川龍之介の『羅生門』で行方がわからなくなった下人とは違い、こちらは男の後の様子がうかがえます。
芥川龍之介の小説では下人と老婆の姿をより哲学的に描き、また下人の行方に余韻を残すことで、物語全体に大きな主題を挿入しました。『羅生門』は、人の在り方と生死を読者に問いかける物語として再構築されたのです。
芥川龍之介と古典文学
『羅生門』をはじめ、古典文学から題材をとった物語は「王朝物」などと呼ばれます。芥川龍之介は、ほかにも『地獄変』『芋粥』『鼻』など、多くの王朝物を発表しています。
芥川作品には、ほかにも「江戸物」「切支丹(キリシタン)物」など、多くのジャンルの小説があります。
黒澤明監督が映像化! 映画『羅生門』
『羅生門』は黒澤明監督の手で映画化されましたが、その内容は大きく異なります。映画『羅生門』の概要や、原作との違いについて紹介します。
映画『羅生門』の概要
『羅生門』は1950年に公開された映画です。監督・脚本は黒澤明、三船敏郎や京マチ子などが出演しています。この作品はアカデミー賞名誉賞やベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞し、海外でも大きな話題となりました。
原作は『藪の中』? 小説『羅生門』と映画版の違い
黒澤明の映画『羅生門』は、芥川龍之介の小説と同じく、平安時代を舞台にしています。しかし、こちらの羅生門には老婆の姿はありません。雨の中、羅生門で雨宿りする下人と立ち話をするのは杣売り(そまうり)と旅法師です。彼らは奇妙な事件の参考人として、呼び出しを受けた帰りなのでした。
実は映画『羅生門』のストーリーの多くは、同じく芥川龍之介の小説『藪の中』を原作にしています。そのため小説『羅生門』とは登場人物も物語の流れも違いますが、根底に流れるのは、人の在り方と「悪」についての問いかけ、そして人間のエゴイズムであり、そこに小説『羅生門』のエッセンスを感じることができるでしょう。次節では、映画版のあらすじを簡単に紹介します。
映画『羅生門』のあらすじ(ネタバレあり)
ある山中で、武士とその妻が盗賊に襲われます。妻は辱めを受け、夫は殺されますが、事件の詳細に関しては妻と盗賊の話が食い違いました。巫女によって夫の霊まで証言台に立ちますが、それもまた、2人の話とは異なります。
最後には、事件を目撃していた杣売りによって、それぞれが自分の都合のいいように事件を語っていたことが明らかになりました。
羅生門で2人の話を聞いていた下人ですが、門の一角に赤ん坊が捨てられていることに気が付き、その着物をはぎ取って逃げます。残された赤ん坊は、杣売りに引き取られました。
エゴの張り合いから食い違う証言と、赤子の着物まで剥いでいく下人の悪行に対し、その子を育てると決意する杣売りの姿にわずかな希望を見いだすという物語です。
『羅生門』で伝えたいことは「生きる」ことの意味と「善悪とは何か」
『羅生門』では、人としての在り方が「悪」の概念とともに問われています。生きるために罪を犯した下人や老婆の行為は果たして「悪」なのか。生きることと正義とを天秤にかけたとき、どちらを選ぶのが正しいのか。『羅生門』は、「悪」そして「正しさ」のそもそもの意味を問います。
その問いの答えは、現代の私たちも容易に導き出すことはできません。『羅生門』は時代を超え、国を超えて、すべての人々に、その在り方を問う小説なのです。