卑弥呼は、日本の歴史上の偉人であり、多くの謎が残されている人物です。
ここでは卑弥呼と、卑弥呼が生きた弥生時代について詳しく解説します。中国の三国志における魏との関係、邪馬台国の所在地の謎や、天皇の妻であった説にも迫ります。
卑弥呼は弥生時代の偉人
日本は長い歴史を持ち、さまざまな人物によって治められてきました。古代の統治者というと、男性をイメージする人も多いかもしれません。しかし女王として国を統治した女性も存在します。その一人が卑弥呼です。
ここではまず、卑弥呼がいつ、どのようなことをした人物なのかについて詳しく解説します。
ミステリアスな女王・卑弥呼は何をした人?
卑弥呼は、現在から約1,800年前の弥生時代の女王です。統治者として政治を行っていましたが、その手法は鬼道(きどう)と呼ばれるまじないや占いの一種で、この鬼道を使ってあらゆる決定を行っていたといわれています。
卑弥呼が女王になる前は男性の王が一帯を治めていましたが、争いが絶えず、卑弥呼が女王として立てられたといわれています。
後述する『魏志倭人伝』によると、卑弥呼には1,000人ほどの女性が仕えていたそうです。しかし、実際に部屋に出入りし、卑弥呼に会い言葉を聞くことができたのは、一人の男性のみであったと記されています。
現在でもミステリアスなイメージを持たれている卑弥呼ですが、当時から多くの人はその姿を見ることも声も聞くことができない存在でした。
鬼道とは
鬼道とはまじないの一種で、卑弥呼の主な政治手法の一つでもあります。具体的には、目には見えない神々や霊などと交信することによってさまざまなことを知るものとされています。その際には動物の骨を焼いてできるひび割れ具合などを通じて、天候や戦について占ったそうです。
誰もができるものではなく、特別な能力が必要であるといわれており、卑弥呼は特に鬼道に優れていたとされています。
卑弥呼が活躍した弥生時代とは
1,800年前の日本とは、弥生時代後半から終盤ごろにあたります。弥生時代といえば、大陸から伝わった稲作が広まり、人々は定住してムラ、そしてクニを作りました。収穫した米はネズミが入れないよう高床倉庫に蓄えるようになります。
弥生土器や鉄器などが作られ、さまざまな文化が形成され始めた時代でもあります。
1,800年前の世界情勢 ~中国は三国志の時代~
立地的にも近く、日本との関係も深い中国では魏、呉、蜀の三国が覇権をめぐって争っていた、いわゆる三国時代でした。卑弥呼は、その中でも当時最も勢力を持っていた魏と交流を持ったとされています。
卑弥呼について記す当時の日本国内の歴史書はない?
卑弥呼に関しては多くの謎が残されており、現在でもはっきりわかっていないことが多くあります。ここでは卑弥呼や彼女が生きた時代を知るためのカギについて詳しく解説します。
『魏志倭人伝』に卑弥呼の記述がある
卑弥呼は日本の人物ですが、実は当時の国内の歴史書は存在しません。それには、文字が普及した時期が関係しています。日本で漢字などの文字が本格的に使われるようになったのは6世紀ごろのことと考えられています。それに対して、卑弥呼が活躍したのは2世紀終盤から3世紀ごろであり、当時の歴史などを文書で残す術がなかったと推測できます。
卑弥呼の存在が記されているのは、中国の歴史書である『三国志』の中の『魏志(魏書)』にある東夷伝の倭人の条。これが通称『魏志倭人伝』です。そこに当時の日本人に関する記述があります。これによって、卑弥呼の存在が知られることになりました。
魏から「親魏倭王」の称号を与えられた卑弥呼
前述のように、卑弥呼に関する情報は日本国内には残されておらず、卑弥呼を詳しく知るカギは中国の魏にあります。卑弥呼は当時、魏に使者を送り、日本の王を意味する「親魏倭王」の称号、そして金印を与えられたとされています。
歴史書に倭人の項目が作られていることもあり、卑弥呼の時代の日本(邪馬台国)と魏には深い関係があったと考えることができます。
本当の日本を知るためには外からの目も重要
日本の歴史を知ろうとする場合、多くの人が国内の記録や遺跡、史料などを調べることばかり考えてしまいがちです。しかし、国内に残されている記録のみに注目していると重要なことを見落としてしまう可能性もあります。
実際に、卑弥呼に関しては当時の日本国内の書物や記録がないため、中国の歴史書を通して、その存在が知られることになりました。
過去のことだけに限らず、日本という国の本来の姿や実情を知るためには、外からの客観的な視点を持つことも重要といえるでしょう。
邪馬台国はどこにあった?
卑弥呼は約30の国をまとめた連合国を治めており、その一帯の中心が邪馬台国であったとされています。当時の日本はいくつもの小さな国に分かれており、それぞれで統治が行われていました。その結果、全国各地でいくつもの遺跡が発見されており、邪馬台国があった正確な場所は分かっていません。
しかし邪馬台国の場所については、いくつかの有力な説があります。ここでは中でも特に有力視されている2つの説について解説します。
吉野ヶ里遺跡(九州説)
候補として有力視されている一つが、九州の佐賀県にある吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)です。
根拠としては「魏志倭人伝」の中で邪馬台国にあったと記されている施設である宮室、楼観、城柵が、吉野ヶ里遺跡から発見されたことが挙げられます。現在、国内で発見されている遺跡の中で、この条件をすべて満たしているのは吉野ヶ里遺跡のみです。
纏向遺跡(畿内説)
もう一つの有力候補として挙げられるのが、畿内説です。具体的には奈良県にある纏向遺跡(まきむくいせき)を中心としたエリアです。
ここでは卑弥呼が活躍した弥生時代の後半から古墳時代初期のものと思われる土器が多数出土しています。また、土器の種類も豊富で、畿内エリア以外の土地の特徴を持つものも出土しており、他の地域から多くの人が移住してきたと考えられます。邪馬台国は約30もの小さな国の中心地であったことから、各地の人が集まるのは自然なことです。
また纏向遺跡の中には、卑弥呼と同時代のものとして、箸墓古墳が存在することも畿内説の根拠とされています。箸墓古墳は、日本最古級の前方後円墳といわれており、宮内庁により第7代孝霊天皇皇女の墓として管理されていますが、実は卑弥呼の墓なのではという説があります。
邪馬台国の場所が確定すれば日本史は変わる?
邪馬台国の場所がはっきりしないことから、卑弥呼の時代の日本についてはまだまだわからないことがいくつもあります。そのため何か決定的な根拠が発見され、邪馬台国の場所が確定すれば、連動する形でさまざまなことが明らかになると期待できるでしょう。
卑弥呼と弟
卑弥呼は生涯にわたって結婚はしなかったとされています。弟がおり、この弟は卑弥呼の行う政治の補佐として、実質的な政務の多くを行っていたともいわれています。
卑弥呼が神功皇后だったという説がある
前述のように、卑弥呼は国内の歴史書には登場しません。しかし『日本書紀』の中には『魏志倭人伝』からの引用とされる記述があります。その内容は神功皇后(じんぐうこうごう)が、皇太子の摂政として自ら政治を行っていたころに、魏に使者を送ったという旨のものです。
神功皇后とは14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、15代応神(おうじん)天皇の母といわれています。神と交感する能力を持った巫女のような存在で、仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため九州に赴く際も、神の託宣を伝えたとされています。しかし仲哀天皇はこれを信じず、たたりにあって頓死してしまいます。そのあとを受けた神功皇后は、神の託宣に従って、後の応神天皇を宿した臨月の身で新羅を討ったそうです。
その神秘的な能力や、熊襲には邪馬台国と対立していた狗奴国(くなこく/くぬこく)と同じ国であるという説があることなどから、神功皇后は卑弥呼のことなのではないか、という説も存在するのです。
卑弥呼とその時代について知ろう
卑弥呼は今から約1,800年前に活躍した女王です。中国では三国志の時代にあたるころであり、卑弥呼は魏と交流を持っていました。
邪馬台国の所在地を含めて、卑弥呼についてはまだまだ明らかになっていない部分も多く、現在でも研究が進められています。日本の歴史上でも最大級のミステリーの一つということもあって、考察の余地も多く残されています。
遺跡を訪ねて、歴史についてじっくり考えてみるのもいいかもしれません。