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数多くの大スターが生まれたプロ野球界には、ドラフト下位指名ながら活躍した選手もいれば、ドラフト外の選手も少なからず存在する。そこで今回は、ドラフト外入団からトッププレーヤーとなった歴代選手を紹介する。
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秋山幸二
出身:熊本県
投打:右投右打
身長/体重:186cm/86kg
生年月日:1962年4月6日
ドラフト:1980年ドラフト外
西武ライオンズの黄金期を築いた1人が、熊本県の八代高校から入団した秋山幸二だ。八代高校時代はピッチャーとして、プロからも注目を集める存在となっていたものの、本人は大学への進学を希望したこともありドラフト指名は受けなかった。
秋山の希望通り大学進学が決まったという話もあったが、その秋山の気持ちを変えたのが、その当時西武ライオンズの監督を務めていた根本陸夫だ。秋山の才能を高く買い、母親を説得した結果ドラフト外での入団が決まった。
ただ、ルーキーイヤーの1981年、秋山は3試合の出場に留まっている。広岡達朗が監督に就任した1982年、そして83年は1軍での出場すらなかったが、この時期に秋山は2軍で鍛錬を続けた。
そして1984年は54試合に出場する活躍を見せると、85年は全試合(130試合)出場で40本塁打。86年にも41本塁打を放つなど、瞬く間に一流選手への仲間入りを果たす。
1986年の日本シリーズ、旧広島市民球場でホームランを放った秋山が、バク宙でホームベースを踏んだ瞬間は今でも語り継がれる名シーンだ。ライオンズとダイエーの2球団で通算437本塁打、盗塁数303という記録を残した秋山は記憶にも残る一流選手だった。
石井琢朗
出身:栃木県
投打:右投左打
身長/体重:174cm/78kg
生年月日:1970年8月25日
ドラフト:1988年ドラフト外
プロ野球界で最後のドラフト外入団選手として、横浜や広島で活躍を見せた石井琢朗。栃木県の足利工業高校では、2年生エースとして夏の甲子園に出場した経験を持っている。
だが、甲子園では初戦敗退となり、高校3年の段階ではプロ入りすら諦めていたという。大学進学が現実味を帯びる中、石井はドラフト外とはいえプロ入りのチャンスを掴み取り、大学推薦を断って横浜(当時は大洋ホエールズ)に入団した。
1989年から3年間は投手だったが、石井は自らの意思で1992年から内野手に転向。すると、1993年には盗塁王やゴールデン・グラブを獲得するなど、サードとして見事に開花。1995年には自身初の打率3割を記録し、1996年からショートにコンバートされて長きにわたって活躍を見せた。
中でも横浜が優勝した1998年は、打率.314、39盗塁という成績を残してチームを牽引。プロ通算で2432安打を記録した。
現役引退後はヤクルトスワローズや読売ジャイアンツなどでコーチを務め、2022年からは古巣の横浜にコーチとして復帰している。今後、石井の指導を受けた選手がどのような活躍を見せるのか、楽しみにしたいところだ。
松永浩美
出身:福岡県
投打:右投両打
身長/体重:180cm/78kg
生年月日:1960年9月27日
ドラフト:1978年ドラフト外
「史上最強のスイッチヒッター」として、阪急や阪神など4球団で活躍した松永浩美。松永は福岡県の小倉工業高校で野球を続けていたが、事情により中退することとなる。その後、「練習生兼用具係」という役割で阪急の球団職員になった松永は、1979年に支配下登録となった。
入団当時は右打ちの松永だったが、当時コーチを務めていた住友平の説得もありスイッチヒッターに転向。高い才能を見せつけた松永は、1982年からサードのレギュラーを獲得した。
松永は日本人選手として初めて1試合で両打席ホームランを達成するなど、輝かしい成績を残し続ける。1984年に初めて打率3割を記録すると、85年・86年も打率3割超え。プロ通算で打率3割超えが7回、本塁打は203、盗塁が239という数字が示すように、スイッチヒッターとして一流の活躍を見せた。
なお、松永はFAで移籍した最初の選手でもある。阪急でキャリアをスタートさせた松永だが、最後はダイエーで4年間プレー。その後、メジャー挑戦を表明したが叶わなかった。紆余曲折がありながらも、最後まで自分らしさを貫いた選手と言えるだろう。
鹿取義隆
出身:高知県
投打:右投右打
身長/体重:174cm/78kg
生年月日:1957年3月10日
ドラフト:1978年ドラフト外
読売ジャイアンツ・西武ライオンズの2球団で活躍したサイド右腕・鹿取義隆。リリーバーとして不動の地位を築いた鹿取も、ドラフト外でプロの世界に足を踏み入れた。
高知商業高校から明治大学に進学。2年春からベンチ入りすると、4年春にはエースとしてチームを牽引。リーグ戦、さらには大学日本選手権を制した。リーグ戦通算21勝、防御率1.89の実績を引っ提げ、1978年ドラフト外で巨人に入団。
ルーキーイヤーから中継ぎとして38試合に登板すると、翌1980年には51試合に登板し、防御率1.78をマーク。以降は苦しむシーズンもあったが、1984年からはブルペン陣の中心としてフル回転した。
しかし、1989年は登板数が半減すると、当時の藤田元司監督による「先発完投」の方針もあって移籍を志願。同年オフにトレードで西武入りが決まった。
移籍初年度は抑えを務め、最優秀救援投手(24セーブ)のタイトルを戴冠。その後も主に勝ちパターンの一角としてフレキシブルに起用され、1997年まで活躍を続けた。
大野豊
出身:島根県
投打:左投左打
身長/体重:177cm/75kg
生年月日:1955年8月30日
ドラフト:1976年ドラフト外
軟式野球出身ながら、広島を22年間支え続けた一流選手が大野豊である。島根県の立出雲商業高校は硬式だったが、就職先の出雲市信用組合で軟式野球を続けた。社会人を選んだのは、母子家庭で支えてくれた母親を楽にさせたいという気持ちがあったからだ。
社会人で軟式野球を続けた大野は、1977年のキャンプ中に広島のテスト生として参加。見事に合格を勝ち取ったものの、1年目はわずか1試合の登板で防御率135.00。まさにどん底からのスタートと言っていいだろう。
しかし、プロ2年目で大野に転機が訪れる。1977年オフ、南海から江夏豊が広島に移籍したのだ。大野は江夏とともにフォームの改造、さらにはプロ意識の叩き込みなど、江夏からプロとして生きる術を教わった。教えの甲斐もあり、大野は2年目に41試合に登板。防御率は3.77という数字を残し、一流選手になるきっかけを作った。
その後の大野は、先発・中継ぎ・抑えの全てをこなす存在として、広島に欠かせない戦力となる。22年間で148勝だけでも素晴らしい数字だが、138セーブを記録したことも大野の凄さを象徴している。41歳で最優秀防御率(2.85)のタイトルを獲得するなど、最後まで輝き続けた選手だった。
西本聖
出身:愛媛県
投打:右投右打
身長/体重:176cm/81kg
生年月日:1956年6月27日
ドラフト:1974年ドラフト外
闘志をむき出しにして打者に立ち向かった西本聖も、ドラフト外から一流選手になった1人だ。愛媛県の松山商業高校では1年生の段階から活躍を見せた西本だが、ドラフトで指名されることはなく、ドラフト外で読売ジャイアンツに入団。
入団1年目は1軍登板が叶わず、2年目はわずか1試合の登板で1イニングを投げて3失点。悔しいデビューとなったものの、3年目で8勝を記録(防御率2.66)して頭角を現す。そして、1980年には14勝、1981年には18勝を挙げるなど、ジャイアンツに欠かせないピッチャーとなった。
1980年代といえば、ジャイアンツでは江川卓が突出した数字を残しており、江川と西本はライバルとしてしのぎを削っていた。その中でも、西本は自身の代名詞と言えるシュートを武器に、1981年の日本シリーズでMVPを獲得。
その後、西本は1989年に中日ドラゴンズへ移籍すると、キャリア最多の20勝(6敗)を記録して最多勝。最後はオリックスに移籍してプロのキャリアを終えたが、江川と西本が1980年代のジャイアンツを支えた事実が色褪せることはない。
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