富士通のパソコン事業にマーケティングや販売促進の立場から関わり、2002年にパーソナルビジネス本部長に就任し、パソコン事業を牽引したのが伊藤公久氏だ。伊藤氏は、長年にわたり赤字から抜け出せなかった富士通のパソコン事業を黒字化させるとともに、事業体質を強化。その姿勢や考え方は、いまの富士通クライアントコンピューティング(FCCL)にも富士通パソコン事業のDNAとして受け継がれている。
その伊藤氏に、1990年代から2000年代にかけての富士通パソコン事業の体質変化について聞いた。伊藤氏はマーケティングを担当するパーソナル販売推進部門のほか、一時期はクライアント/サーバー部門などにも関与した経験を持つ。
2002年にパーソナルビジネス本部長に就任後、2003年には富士通の経営執行役、2005年には経営執行役常務、2007年に経営執行役上席常務に就任。ユビキタスプロダクトビジネスグループやシステムプロダクトビジネスグループなどを担当した。2008年には富士通パーソナルズの社長に就任して、2014年まで同職を務めた。
―― 富士通のパソコン事業は、FMVシリーズを発売した1993年以降、急速な勢いで事業が拡大しました。この原動力はなんだったのでしょうか。
伊藤氏:一言でいえば、富士通が本気になったということです。そして、本気になるまでには時間が必要であり、その期間を経験してきたことが大きかったと言えます。
富士通のパソコン事業は、FMVシリーズの投入にあわせて、DOS/VやWindows 95といったパソコン市場の大きな変化の波に乗ることができました。それまでは残念ながら、富士通のコンシューマ向けパソコンは技術力があっても、自分たちで市場を創出する力はありませんでした。
最たる例がFM TOWNSです。先進的な技術を採用しましたが、競合他社が追随するような影響力がなく、結果として、市場を広げることはできませんでした。ユーザーは、同じようなパソコンを比べながら購入を判断することが多いものですが、FM TOWNSが実現した世界はあまりにも早すぎました。どこも追随できず、結果として比較するものがなく、富士通だけの取り組みで終わってしまったのです。
伊藤氏:このような例は、富士通にはいくつもあります。1985年には、まだノートパソコンが一般的ではない時代にFM16πを市場投入しました。しかし、これも追随するメーカーがなく、売れないまま終わっています。
ところが、東芝さんが1986年にJ-3100を発売したとたんに、多くの企業がそれに追随して市場が形成されました。富士通は独自アーキテクチャーにこだわり、そこで先進的な技術を採用してきたわけですが、それでは市場が創出できないということを学んだわけです。そうした経験をもとに、FMVシリーズはDOS/VやWindowsという世界において、他社と比べることができる環境があり、富士通の優位性を示すことができました。
もうひとつ、こうした経験をする期間は経営側ががまんをして、パソコン事業を継続してきたことがあります。パソコン事業が黒字化したのは1998年です。それまでは利益が出ていない事業でした。がまんの期間がなければ、富士通のパソコン事業は離陸できなかったでしょう。競合他社はシェアが落ちいていく時期でしたが、私はこの成長するタイミンクでパソコン事業に関われたことはとても幸せでしたね。
伊藤氏:当時の現場にはもちろん、いつパソコン事業を止めさせられるかわからないという危機感がありましたし、黒字化への強い執念を持ってのぞんでいました。サプライチェーン全体を見るときも、パソコン1台あたりの輸送費まで落とし込んでチェックし、何が赤字の原因になっているのか細かく検証しました。また、パソコンは部材に関わるコストが大きいですから、購買部門が探してきた部品も細かくチェックして、それを採用することによる損益改善にも積極的に取り組んだものです。
このとき国内パソコンメーカーの多くが海外生産に移行しましたが、富士通は、収益を改善するには国内生産を維持するべきと判断しました。海外生産の仕組みを採用すると、相対的に発注量が多くなり、大量に入ってきたものを一定期間内に売り切る力が必要になります。売り切れなかったら、値下げして叩き売るしかありません。
また、海外生産は組み立て原価が低い点が特徴ですが、原価に占める組み立て費用の割合は約3%ですので、それが半分になっても1.5%のコスト削減にしかなりません。国内で適正な量を生産して速く売り切れば、在庫処分が不要となり、さらに競争力のある新製品をいち早く投入できます。収益面でも効果があります。富士通が国内生産にこだわった背景には、こうした理由がありました。
パソコンを少しでも高く売るにはどうするか――。それは、ムダなものを作らないということなのです。モノが売れなくて潰れた会社はありますが、売るモノがなくなって潰れた会社はありません。
―― 当時はどんな経営指標を重視していたのでしょうか。
伊藤氏:ひとつの指標では判断していません。例えば毎日、コンタクトセンターから上がってくる日報を見て、どんなクレームがお客さまから来ているのかも大切な指標です。事業部長や統括部長が毎日これを見ていると、いま何が起きているのか、それがなぜ起きているのか――ということがわかってきます。
量販店でのシェアだけでなく、店舗への納期のヒット率、サポートセンターの電話対応率、週間売り上げの見える化など、様々な指標を見て、状況を判断していました。ダイエットでも毎日体重計に乗ると、何をやると何が起こるのかわかってきますよね。それと一緒です。
―― 黒字化してから、富士通のパソコン事業は変化しましたか。
伊藤氏:利益が出るようになったので、より多くことに挑戦したり、新たなことに挑戦したりができるようになりました。もともと富士通のパソコン事業には、新しいモノに強い興味を持っていたり、新しいことが好きだったりする開発者が多いですからね。
―― 富士通のパソコン事業部門、特徴はなんでしょうか。
伊藤氏:誤解を恐れずに言えば、メインフレームなどを担当していたコンピュータ事業本部に比べると、優等生ではない人が集まった組織だったと言えます。そして、そうした人たちしか残らなかったようにも思います。勉強はダメだったが仕事はできたというのが私の自己評価です。
私自身、経営執行役上席常務のときにメインフレーム部門やサーバー部門も統括しましたが、そのコンピュータ事業本部はルールに従う組織であり、それを徹底していました。一方で、パソコン事業を担当していたパーソナルビジネス本部は、ルールは守るものではなく、やりにくかったらルールを変えようという、柔軟な発想を持った人たちの集まりでした。求められるビジネスのやり方が違いますから、どちらがいいということではありません。ただ、パソコン事業をやるために必要な素養を持った人たちが、富士通のパソコン事業部門には集まっていたと感じます。
パーソナルビジネス本部の良い風土は、人の仕事に口を出すことです。自分の仕事の範囲は決まっていても、その仕事は必ずほかの人の仕事と関連しています。自分で自分の仕事の範囲を決めず、相手の仕事に口を出し行くことが大切で、その代わり、人のせいにはしない。私自身、社員には「人の仕事に口を出し、人のせいにするな」ということをずっと言ってきました。
うまくいったときには、自分が一生懸命やった成果だと多くの人が思うでしょう。これはいいことです。しかし、うまくいかなかったときには、一転して誰かのせいにしたがるのが人の心ではないでしょうか。成功したらみんなで喜ぶ、失敗してもみんなで責任を感じ、一致団結して解決策を探る――。そうした文化がパーソナルビジネス本部には根付いていました。この姿勢はいまでも脈々と受け継がれていると、FCCL(富士通クライアントコンピューティング)の齋藤さん(齋藤邦彰氏、現FCCL会長)から話を聞き、とてもうれしく思っています。
―― 富士通のパソコンが持っていた特徴のひとつに、デスクトップパソコンではオーディオビジュアル(AV)機能を先行して強化してきた点があります。伊藤さんがパソコン事業を率いていた時期には、パソコンにテレビ機能を搭載した「テレパソ」ブームが訪れたこともあり、AV機能の進化が目立ったタイミングでもありました。
伊藤氏:当時はテレビ放送のデジタル化が始まった時期で、パソコンのテレビ機能には戦略的にフォーカスしていました。自分の部屋に置くのであれば、パソコンが1台あって、そこにテレビの機能があれば場所を取りませんし、レコーダーの機能も持てばコストパフォーマンスがより高まります。
ただ課題と感じていたのは、テレビは7~8年使いますが、パソコンの買い替えサイクルはもっと短く、寿命に差があることです。最初からテレビメーカーとは争えないと思い(笑)、パソコンだからこそできる領域があるのではないかと模索していましたね。
そこで富士通研究所とも連携しながら、ハイビジョン放送のデジタル録画に対応した専用LSIを開発し、富士通ならではのテレパソ(テレビ機能を搭載したパソコン)を実現しました。私もテレビを見ることが大好きで、オーディオマニアでもあります。当時の開発者にもそういう人たちが多く、様々なアイデアを出したり、新たなことに挑戦したりする人たちがいたことが、富士通らしいテレパソを生み出すことにつながったと言えます。
先日、自宅のテレビを買い替えたのですが、最新のテレビはAndroid TVなどのOSが入り、ネット動画の視聴も簡単です。これを見ていると、やっぱり富士通のテレパソは早すぎたかなと思ったり、テレビメーカーと協力して富士通が作ったパソコンをテレビに入れてもらうという手もあったかなぁ……などと思ってしまいますね(笑)。
―― 伊藤さんは、2008年から国内販売会社である富士通パーソナルズの社長として、パソコンの販売にも携わりました。ここではどんな形で富士通のパソコン事業をドライブしましたか。
伊藤氏:最初に取り組んだのは、富士通パーソナルズが単独で儲かるのではなく、富士通のパソコン事業部門との連結で儲かる仕組みへと頭を切り替えることでした。富士通パーソナルズの立場だけで考えると、富士通からパソコンを安く仕入れれば、それだけで儲かるようになるわけですが、そのぶん富士通本体では収益が悪化します。これはいびつな構造です。
また、量販店の店頭で競合メーカーの製品が安くなったらこちらも値下げしなくてはならないため、富士通に対して安く卸してくれという安易な相談もやめるようにしました。お客さまに少しでも高く買っていただけるように、富士通のパソコンの良さを店舗スタッフが説明できるように提案したり、そのための施策を富士通と一緒に考えたりすることに力を注ぎました。
例えば、富士通の開発者が量販店に出向き、自社のパソコンが実際に売れる瞬間を見てもらうといったこともやりました。お客さまがどうやってパソコンを選んでいるのか、店員とどんな会話をしているのか――。そうした場を目にすることで、次の製品開発にヒントが生まれればと考えたものです。
大手量販店の商談にも、富士通の開発者に必ず同行してもらいました。その結果、かつてのノートパソコンにはなかったテンキーをつけて、ヒットモデルになったという例があります。これも店舗の要望を聞いて取り入れたアイデアでした。実は、富士通のなかで、開発者がお客さまの声を聞いたり販売店の声を直接聞いたりできる事業は、パソコンくらいしかなかったのです。その特性を生かしたいと考えて、お客さまや店舗と開発者をつなげることは、富士通パーソナルズの重要な役割のひとつです。
伊藤氏:富士通パーナルズの社長時代には、社員に対して、意思決定をするときは過去を見るのではなく、未来につながるほうを選ぶこと、新たなチャンスがあればそこに力を入れることを優先するように徹底しました。また、判断に迷ったら、無難なほうではなく変革をもたらすものを優先しようとも言い続けました。マネージャーに対しては、部下には具体的な指示をすることも徹底しました。「うまくやれ」「なんとかしろ」では、社員は動きません。具体的に、「いまやることは、これだ」と指示をしたり、未来を示したりすることが大切です。
これからもFCCLには、次々とびっくりするようにパソコンを出してほしいですね。挑戦することが好きな開発者が多いですからね。安売りしなくても売れるようなものを出してほしい(笑)。今後の発展に期待しています。