マネ―スクエアのチーフエコノミスト西田明弘氏が、投資についてお話しします。今回は、米国の金融政策について解説していただきます。


米国の中央銀行にあたるFRB(連邦準備制度理事会)のパウエル議長は6月22日、上院銀行委員会で半期に一度の議会証言を行い、金融政策について説明しました(翌23日には下院金融サービス委員会で同様の証言)。

パウエル議長は証言の冒頭で、「高インフレがもたらす苦難を理解している」と述べ、「インフレの抑制に強くコミットし、迅速に行動する」と明言しました。0.75%の利上げを決定した6月15日のFOMC(連邦公開市場委員会)後の記者会見と同じく強いタカ派(※1)的発言でした。

(※1)物価の安定、とりわけインフレの抑制を重要視するグループ。これに対して、景気拡大や雇用増加を重要視するグループを「ハト派」と呼びます。

パウエル議長は景気について、設備投資や住宅投資に弱さがみられるとしつつ、雇用は非常に強く個人消費は堅調だとの見解を示しました。ただ、「(目標である)ソフトランディング(軟着陸)は非常に難しい」と述べ、また現時点で高まっているわけではないものの、「確かにリセッション(景気後退)の可能性はある」と認めました。

FOMCの2日後に公表されたFRBの金融政策レポートでは、サマリーの結論部分で、「物価安定の回復へのFOMCのコミットメントは、強い労働市場を維持するために必要であり、無条件である」と宣言されています。「無条件」というからには、「目先の景気を犠牲にしても」や「リセッションになっても」という含意もあるでしょう。


ここで想起されるのは、79年8月に高インフレ下でFRB議長に就任したボルカー氏です。

ボルカー議長は就任早々、インフレ抑制のために金融政策の操作目標を政策金利からマネーサプライ(通貨供給量)に変更しました。インフレをもたらすおカネの流れを絞り、その結果として政策金利が大幅に上昇しても、それは容認するというスタイルでした。政策金利(FFレート)はボルカー議長の就任前の10%前後からピークの81年7月には22%を超えました。

  • 米政策金利とインフレ率

そして、70年代の2度のオイルショックを経験して高騰していたインフレは沈静化しました。CPI(消費者物価指数)は80年3月のピーク前年比14.8%から83年7月には2.5%まで低下したのです。

もっとも、ボルカーFRBが高インフレと戦っている間に、2度のリセッション(80年1-7月、81年7月-82年11月)が起きました。そして、失業率は79年5月の5.6%から82年11月には10.8%まで上昇しました。

87年8月の退任後、ボルカー元議長は「インフレ・ファイター」として賞賛されてきました。しかし、インフレと戦っているさなかは、一般市民や議会から強く批判され続けました(レーガン政権はボルカー議長を擁護※2)。債務の増大に耐えきれなくなった農民がトラクターでワシントンにデモを行い、FRB本部を包囲したこともあったようです。

(※2)レーガン大統領は83年8月にボルカー議長を再任しました。インフレ鎮静化の功績を称えたことに加えて、経常赤字と財政赤字の「双子の赤字」をファイナンスするために外国からの資金の流入は不可欠であり、そのための高金利が必要だったという事情もあるのでしょう。

なお、当時の米ドル実効レートをみると、80年4月にピークアウトして7月にボトムをつけた後は81年8月までほぼ一貫して上昇。その後も基本的に高金利下で米ドルは上昇を続け、85年9月のプラザ合意(G5が米ドル高是正で合意)につながります。

  • 米ドル実効レート(日足、79年1月-83年12月)