富士通は1981年5月20日、同社初のパーソナルコンピュータ「FM-8」を発売。2021年5月20日で40年の節目を迎えた。FM-8以来、富士通のパソコンは常に最先端の技術を採用し続け、日本のユーザーに寄り添った製品を投入してきた。この連載では、日本のパソコン産業を支え、パソコン市場をリードしてきた富士通パソコンの40年間を振り返る。掲載済みの記事にも新たなエピソードなどを追加し、ユニークな製品にフォーカスしたスピンオフ記事も掲載していく予定だ。その点も含めてご期待いただきたい。
富士通のパソコン事業が黒字化したのは1998年だった。富士通にとって、企業ユーザーだけでなく個人ユーザーも含めてブランドの「顔」になる存在(パソコン事業)であっても、経営面では残念ながら「お荷物」という状況が続いていたのだ。
1994年のFMV-DESKPOWERシリーズの発売によって、富士通パソコンの出荷台数は大幅に増加。海外から調達した標準部品を積極的に活用するなど、コスト構造の改革にも取り組んできた。だが、それでもなかなか黒字には転換しなかった。
「もうパソコン事業にあとはないぞ」
富士通の経営トップからの声は、年を追うごとに厳しくなっていった。シェアは拡大したものの、赤字という経営面における最大の課題を克服しない限り、将来的にパソコン事業は継続できないという雰囲気が高まり、まさに剣が峰の危機感が社内にはあったのだ。
パソコン事業を統括するパーソナルビジネス本部は、徹底的なコスト管理に努めた。サプライチェーン全体を見直す一方、パソコン1台単位でのコスト管理にまで落とし込み、コストダウンにつながることはなんでもやった。たとえば、梱包箱の見直しもそのひとつだ。梱包箱のサイズを極力小さくし、材料コスト、輸送コストの削減につなげた。
生産現場では、国内生産にこだわることで効率性を高め、不良率を下げ、リードタイムを短縮することで、余計なものを作らなくて済む仕組みを構築。海外生産はどうしても大量発注・大量入荷になりがちだが、在庫がかさんだら叩き売るという、赤字の元凶になる構造に陥らないよう常に改善を進めていった。こうした数々の取り組みが成果を生み、1998年の黒字転換につながる。それ以来、パソコン事業は黒字化を続け、名実ともに富士通の「顔」となったのだ。
とはいえ、パソコン事業の舵取りは難しい。パソコン事業は数の経済をベースにしたビジネスである。CPU、メモリ、ストレージ、OSといった基幹部材で性能の差別化は難しく、調達量が多いほど価格が有利になる構造だ。とくに、DOS/VやWindowsの普及以降は、標準化の波が日本市場にも押し寄せ、数を追えない企業は利益構造を確立しにくく、徐々に淘汰されていった。
2009年7月の事業方針説明会では、当時、富士通の社長を務めていた野副州旦氏が「パソコンはグローバルで1,000万台の体制実現を目指す」と宣言。「パソコンや携帯電話は、富士通にとって顧客との接点であり、ブランドを浸透させる役割を持った製品。2%~3%の利益を確保し、赤字でなければいい。構造改革をする必要はあるが、1,000万台規模にまで拡大できれば黒字化しやすい」と述べていた。
付加価値の追求とともに、数を追うことに取り組んだ富士通のパソコン事業は、2010年度までは黒字を継続。しかし、2011年度には赤字に転落してしまったのだ。
2009年に完全子会社化した富士通テクノロジー・ソリューションズ(FTS)による欧州市場の成長が想定を下回ったことに加えて、海外向けコンシューマパソコンの縮小をはじめとした事業再編に乗り出したこと、海外市場を中心に価格下落が進展したこと、さらに国内市場で在庫対策を行ったことも赤字の原因となった。年間出荷台数も国内外あわせて600万台前後で推移し続け、成長が鈍化。ピーク時には881万台にまで拡大した年間出荷台数は、2011年度の実績では602万台となり、1,000万台という目標に遠く及ばない水準に留まった。
2012年度も赤字は継続。そして2013年度第3四半期までは赤字だったが、2013年度の第4四半期において、2014年4月に迎えるWindows XPサポート終了および消費税の増税前駆け込み需要によって、滑り込むような形で黒字転換。当時の山本正已社長は、決算会見のなかで「パソコン事業は2012年度からの構造改革でかなりスリム化していたことに加えて、Windows XP効果によって利益体質になった」と語っていた。
このとき、パソコン事業のBtoBシフトを鮮明にする一方、春モデルで新製品のラインナップ一新を見送ったり、カラーバリエーションを大幅に削減したりといった製品の絞り込みを実施。また、パソコン事業および携帯電話事業の人員を、タブレットや次世代フロントエンド機器、自動車向けICT領域のほか、部門をまたぐテクノロジーソリューション事業のイノベーション領域にもシフト。1,000人規模の人員削減・再配置によって身軽な体制としていたことも、パソコン事業の黒字化に貢献した。
しかし、経営面から見た状況は依然として厳しかった。2014年度には引き続き黒字化したものの、米ドルに対するユーロ高が進んだ為替のプラス影響や、欧州拠点における調達部材のコスト低減効果が貢献したものであり、実力値として評価するには厳しい内容だったともいえる。2015年度には再び赤字に陥り、100億円を超える赤字を計上。ここでは法人向けリプレースが低調だったことや、調達コストの上昇が影響した。
2015年度、富士通の年間パソコン出荷台数は国内200万台、海外200万台の合計400万台。当時、年間6,000万台の出荷規模だったレノボ、5,500万台規模だったヒューレット・パッカード、4,000万台規模だったデルに対しては、10分の1以下という出荷台数しかなく、主要部品に関する調達価格の差も歴然となっていた。
そして、この10年間においてパソコン業界の勢力図も大きく変化。富士通のパソコン事業は、ポジションを見直さざるをえなくなっていたともいえる。
レノボ・グループとの統合へ
米IBMは2005年にパソコン事業をレノボに売却し、レノボは2011年にNECのパソコン事業を買収。ドイツのMedionなども買収し、グローバルでの事業規模を着実に拡大してきた。一方で、米ゲートウェイ、イーマシーンズ、NECが出資していたパッカード・ベルは台湾エイサーに吸収され、ヒューレット・パッカードはかつての米コンパック、米DEC、携帯端末の米パームなどを買収。米デルはゲーミングパソコンのエイリアンウェアを買収していった。
こうした動きをとらえながら、当時の富士通幹部は「長期的に見ればパソコン事業はスケールを模索する事業であり、1社のままではスケールを持つ水準にまで引き上げることは難しい。仮に国内だけでパソコン事業をやるとしても、生き延びる時間は長くなるが結局は有限の時間。より強くなるための方策を見つけなくてはならない」として、富士通のパソコン事業を他社と統合したり、売却したりといったことを選択肢としつつ議論を開始していたのだ。
その動きを加速させたのが、2015年6月に社長に就任した田中達也氏である。田中社長は、富士通のリソースを「つながるサービス」に集中させることを示すとともに、パソコン事業は富士通にとってノンコア事業であると宣言。経営指標として掲げた営業利益率10%以上の達成に向けて、利益率が低く市場環境の変化を受けやすいパソコン事業の分離を前向きに検討していった。しかも田中社長の発言は厳しかった。
「富士通の事業体制は垂直統合となっており、この仕組みのなかでは、ひとつの事業が不調でも全体として儲かっていればいいという甘えの構造が生まれやすい。パソコン事業には甘えの構造があり、黒字と赤字を行ったり来たりしている」と、名指しで批判。
「パソコンや携帯電話のような、機動性が求められる事業は独立させ、単独でも競争に勝ち抜ける製品開発と、ビジネス展開を目指すことが大切。経営判断を迅速化し、独立した事業として確実な利益体質と成長を目指し、これまで以上に競争力のある新商品をタイムリーに市場に提供していけるようにしなくてはならない」と語っていた。
田中社長の言葉通り、2015年12月には、東芝のパソコン事業、およびソニーから分離したVAIOとともに、富士通のパソコン事業を統合して日の丸連合となって再スタートする構想が浮上。最終的には各社の足並みがそろわず、この構想は実現しなかった。
しかし富士通の経営層は、パソコン事業の分離に向けた検討をさらに進め、2016年2月に100%子会社としてパソコン事業を分社化し、富士通クライアントコンピューティング(FCCL)を設立。2016年10月には、富士通が公式にニュースリリースを出す形で、レノボグループとパソコン事業に関する戦略的提携を検討していることを正式に認め、両社のパソコン事業統合を視野に入れた動きが明らかになった。一部の報道ではこのニュースが先行したものの、検討段階の内容をニュースリリースで正式に発表するのは異例のことだった。
当初は、2017年3月末までに交渉を完了するとしていたものの、正式な合意が発表されたのは2017年11月。富士通とレノボの幹部が会見に参加し、その狙いなどについて説明。2018年5月には、レノボ・グループ・リミテッドが51%を出資し、富士通の出資比率は44%という新生FCCLの誕生が発表となった。
これにより、FCCLは富士通の連結子会社から外れて持ち分法適用会社になるとともに、レノボグループ傘下でパソコン事業を再スタート。ここで注目しておきたいのは、それまでにレノボグループが買収したIBMのパソコン事業やNECのパソコン事業とは異なる事業体制が敷かれた点だ。
レノボグループがIBMのパソコン事業を買収したときは、ThinkPadのブランドを維持しながらも、組織そのものはレノボに統合した。一方でNECのパソコン事業では、ジョイントベンチャーという仕組みを用いて組織やブランドをそのまま残しながら、人的交流を積極的に行い、生産拠点や物流拠点、サポートなどのリソースをお互いに活用することにした。
新生FCCLの場合、富士通のブランドを維持するだけでなく、開発・生産・営業・サポートなどのすべてをFCCLが独立した形で維持することにしたのだ。FCCLにとって最大の変化は、富士通ではノンコア事業とされていたパソコン事業が、レノボグループでは一丁目1番地の事業となったことだろう。独立した体制でパソコン事業を推進できることは、これまでと変わらない部分として、経営層や社員にとって最大のポイントとなった。
FCCLの齋藤邦彰社長(現会長)は、新生FCCLのスタート直後に「世界最軽量のポジションはこれからも絶対に譲らない」と宣言。「もし富士通のパソコンがその立場をあっさりと譲ってしまったら、レノボとの戦略的提携がうまくいっていないと受け取ってもらってもかまわない。ユーザーが世界最軽量のパソコンが欲しいと言い続け、このポジションを富士通が譲らなかったら、それはレノボとの戦略的提携がうまく行っている証(あかし)」と語った。
つまり、富士通のパソコンらしさを維持できる独立体制を継続し、パソコン事業を推進し続けることこそが、新生FCCLが誕生した最大の要素であり最大の目的なのだ。実際、いまも世界最軽量モバイルノートパソコンの座をFCCLは譲っていない。