東武スカイツリーラインの西新井~谷塚間では、東京都足立区の都市計画事業として「東武伊勢崎線(竹ノ塚駅付近)連続立体交差事業」が進められてきた。今年3月、竹ノ塚駅付近の高架化工事完了にともない、同駅の南北にあった踏切が廃止された。
地元住民らは、竹ノ塚駅の南側にあった踏切(第37号踏切)を「大踏切」、北側にあった踏切(第38号踏切)を「小踏切」と呼んで区別していた。駅の地上ホームを挟むように設置されていた2つの踏切は、周辺道路の渋滞や交通事故の原因になるとの理由で、以前から行政および東武鉄道、地域住民らの間で問題視されていた。
そして、2005年に発生した事故をきっかけに、踏切廃止の機運が高まることになる。同駅の高架化を語る上で、この事故は避けて通れない。少し長くなるが、まずは竹ノ塚駅の以前の状態と、事故が起きてしまった経緯をおさらいする。
「大踏切」「小踏切」ともに遮断時間は長く、東武鉄道は少しでも遮断時間を短くするため、「踏切保安係」と呼ばれる職員を両踏切に配置していた。踏切保安係は踏切の開閉操作や安全確認などを担当する。かつては「踏切警手」などと呼ばれ、昭和の時代から各地で配置されており、決して珍しい存在ではなかった。
全国に路線網を有する国鉄だけでなく、私鉄でも通行量の多い踏切において踏切警手が配置された。東武鉄道の他には、1998(平成10)年に自動化された小田急電鉄の新宿駅付近、2012(平成24)年に廃止された名古屋鉄道の神宮前駅に隣接する踏切でも、かつて警手が配置されていた。
現在の「踏切保安係」という職名からは、踏切の安全管理を担う役割を想起させる。もちろん事故を起こさないことが第一だが、踏切保安係には交通を円滑にする役割も課せられていた。警報機が鳴り始めているにもかかわらず強引に走り抜けようとする自転車少年を叱ったり、歩行が覚束ない高齢者を手助けしたり、はたまた来街者に道案内をしたりと、その役割は多岐にわたった。
鉄道職員らしからぬ仕事内容も多くあったため、地域住民にとって身近な鉄道員だった。それゆえに、「踏切保安係」などという堅苦しい職名ではなく、周辺住民から「警手さん」と親しみを込めて呼ばれる存在だった。しかし、時代とともに警手と地域住民との交流は薄れていった。
事故が起きた2005年、竹ノ塚駅の踏切保安係は数少ない生き残りになっていた。交通量の多い踏切、危険と思われる踏切の多くは立体交差化によって姿を消した。竹ノ塚駅の南北にある2つの踏切が廃止されなかった理由は、おもに竹ノ塚駅の構造にある。
竹ノ塚駅周辺は東武伊勢崎線の緩行線2本と急行線2本に加え、東京メトロ日比谷線の車両基地につながる連絡線もあり、計5本の線路上を頻繁に電車が行き交う。そうした複雑な構造ゆえに、ラッシュ時はもとより日中時間帯においても、輸送障害などでダイヤの乱れが発生すれば、すぐに「開かずの踏切」と化してしまう。
事故発生当時、竹ノ塚駅の両踏切はいつものように「開かずの踏切」と化していた。事故は「大踏切」のほうで発生する。
その日、踏切が開くまで多くの歩行者が待っていた。普段と変わりない光景だが、踏切が開かないことに業を煮やした歩行者が、警手に怒号を浴びせ始めた。警手は激しい怒号に恐怖を感じ、安全確認を怠って踏切を開けてしまった。
踏切が空いたので、待機していた歩行者は一斉に踏切を渡った。多くの歩行者は踏切を渡りきったが、「大踏切」は幅が約33mあり、歩行の覚束ない高齢者は渡りきるまでに時間を要する。高齢者らが渡りきる前に電車が突っ込んできたため、2名の死亡を含む計4名の死傷者を出すという事故につながった。
竹ノ塚駅の両踏切は警報機も遮断機もある第1種踏切で、なおかつ踏切保安係が配置されるという安全対策を施していた。しかし、4名の死傷者を出す事故が起きただけに、さらなる安全対策を求められることになる。
事故は踏切保安係の判断ミスが原因とされたこともあり、地元の足立区は事故から6年後の2011年、住民からの要望を受け入れる形で、駅周辺を高架化し、両踏切を廃止することを決定。翌年度から着工し、約10年の工期を経て、両踏切は廃止された。
高架化工事の完了で、「開かずの踏切」は姿を消したが、竹ノ塚駅の高架化に伴う駅前の整備はこれから進められる。現在、東口にロータリーや広場があるものの、西口にはこぢんまりとしたバスのりばがあるだけになっている。
駅の高架化は駅周辺を再開発するための第一歩。足立区と商店街・地元住民との協議はここからがスタートラインとなる。竹ノ塚駅周辺は、どのような街へと姿を変えるのか。