コロナ禍のいま、以前と比べると人に直接会う機会は減っていますが、多くの人とかかわりながら仕事をする社会人にとって、「人の顔と名前を記憶する」ことは必須スキルのひとつといえるかもしれません。なかには、ばったり会った以前に仕事でかかわった人のことを全然思い出せずに肝を冷やしたという経験がある人もいるでしょう。

  • 社会人の必須スキル。人の顔と名前を記憶する方法 /世界記憶力グランドマスター・池田義博

どうすれば人の顔と名前をしっかり覚えられるのか—その秘策を教えてくれるのは、世界的な「記憶の達人」を示す「世界記憶力グランドマスター」という称号を持つ池田義博さん。その鍵は、「イメージをつくる」ことにあると池田さんは語ります。

■記憶力は年齢によって大きく変わることはない

——「年を取って人の顔と名前を覚えられなくなった」ということがよくいわれますが、「記憶の達人」である池田さんは、この現象をどうとらえていますか?
池田 思い込みによる心理的効果が大きいですね。その根拠となるのは、ある実験結果です。その実験では、被験者として同じ条件を持つシニアの人たちを集めました。その条件とは、まさに「年を取れば取るほど記憶力は低下する」と思っている人たちです。そして、その人たちをふたつのグループにわけて、同じ記憶テストをやってもらいました。

でも、Aグループの人たちには「これは記憶テストです」と告げたのに対し、Bグループの人たちには「これは心理テストです」と告げた。Aグループの人たちは、「もう若くないし記憶が苦手だ」と思っていますから、当然ながらその結果は散々なものでした。

ところが、Bグループの人たちは心理テストだと思って気軽に受けたため、若者とほとんど変わらない好成績を残したのです。つまり、Aグループの人たちの場合は、「年を取れば取るほど記憶力は低下する」という思い込みが、実際に記憶力を下げてしまったというわけです。

だからといって自分の記憶力に自信がないという人がいきなり自信を持つのも難しいとは思いますが、「記憶力は基本的に年齢によって大きく変わることはない」という事実を知っているだけでも記憶力にちがいが出てくるでしょう。

■「記憶しようという意志」こそが記憶のメカニズムのスイッチ

——ただ、実際には「人の顔と名前を覚えるのが苦手」だという人もたくさんいますよね。それも、思い込みを排除すれば苦手ではなくなるということでしょうか。
池田 人の顔と名前を覚えるテクニックというものも存在しますが、 それ以前にまず必要となるのは、その思い込みを排除すること。そして、「記憶しようという意志」を持ち、「意識的に名前を呼ぶ」ということです。

じつは、「自分は人の顔と名前を覚えるのが苦手」という思い込みを持っているからか、本当に心から「顔と名前を覚えよう!」という意志を持っていない人が多いのです。「どうせ自分は苦手だから」というふうに、最初からあきらめているということですね。

でも、「記憶しようという意志」こそが、脳の記憶のメカニズムを働かせるスイッチとなります。「今日の打ち合わせで会う人は、これからも仕事でつき合っていく大事な相手だぞ!」「失礼がないように絶対にきちんと覚えよう!」という意志があれば、テクニックなど使わずともかなりしっかりと顔と名前を覚えられます。

そして、意識的に名前を呼ぶというのは、アウトプットすることで記憶を強化するという方法です。脳には、アウトプットした情報ほど強く記憶に残すという特性があります。ですから、顔と名前を覚えたいという相手に対して、「〇〇さん、ご出身地は?」「○○さん、わたしの親戚にも同じ名前の人がいるんですよ」というふうに、話しかけるたびに名前を呼ぶようにすれば、記憶の定着は確実に強まります。

■名前は文字情報としてではなくイメージで覚える

——では、一方の「テクニック」についても教えてください。
池田 まずその前にお伝えしたいのは、「記憶しようという意志」を持って「意識的に名前を呼ぶ」ことでかなりよく覚えられるのは間違いありませんが、前提として人の顔と名前を覚えることは難しい作業だということです。

なぜなら、顔と名前では情報のタイプが異なるからです。顔は、イメージという視覚情報ですが、名前は文字情報。ちがうタイプの情報を一緒に覚えようとしてもなかなかうまくいかなくて当然です。

そうであるなら、どちらかの情報のタイプに統一すればいいというのがわたしの考えです。でも、顔のイメージを文字情報にすることは簡単ではありません。ですから、文字情報である名前のほうをイメージにしてしまえばいいのです。

そのためのヒントとなるのが、「ベイカーベイカーパラドクス」という心理現象です。これはある実験によって導き出されました。その実験とは、被験者として集めた複数の人たちをふたつのグループにわけて、ある同一人物の顔写真を見せて覚えてもらうというもの。

ただし、Aグループの人たちには「この人の名前はベイカーです」と告げ、もうひとつのBグループの人たちには「この人の職業はベイカーです」と告げました。英語のベイカー(baker)は「パン屋」という意味です。

そして、一定の時間が過ぎたあとでAグループの人たちに実験で使った顔写真を見せて「この人の名前はなんですか?」と聞いたところ、多くの人が忘れてしまっていました。ところが、Bグループの人たちに「この人の職業はなんですか?」と聞いたところ、多くの人が「ベイカー(パン屋)!」と正解できたのです。そのちがいを生んだものはなんだと思いますか?

——やはり、イメージでしょうか。
池田 そのとおりです。名前がベイカーという情報だけではイメージを持ちづらいものです。ところが、「この人はパン屋なんだ」と思うと、無意識のうちにもその人がパン工房のなかで白衣を着てパン種をこねているような姿をイメージします。そのイメージによって、記憶が強化されたということです。

■名前からイメージをつくり出す3つのパターン

——つまり、人の顔と名前を覚えるテクニックとは、そのパン屋のようなイメージを自分でつくるということでしょうか。
池田 そうなります。具体的には、「名前の漢字からイメージをつくる」「名前の読みからイメージをつくる」「知人や有名人を使ってイメージをつくる」という3つの手法があります。

日本語は表意文字である漢字を使いますから、その漢字の意味からイメージをつくることができます。たとえば「木下」さんだったら、「その人が木の下で座禅をしている」ようなイメージをつくって、「変わった人だな」なんていう感覚と一緒に頭に入れておくという具合です。

そのとき、「木下」という文字情報を一緒に記憶しようとする必要はありません。それこそイメージとは別のタイプの情報のために覚えにくいからです。でも大丈夫です。イメージさえしっかり頭に入れておけば、次に会ったときには自然と湧いてくる「あ、木の下で座禅をしている人だ!」というイメージの記憶がヒントとなって、「木下」という名前も自然と思い出せます。

——残りのふたつの方法についても具体例を教えてください。
池田 漢字からイメージをつくりにくいという場合には、名前の読みからイメージをつくってみましょう。たとえば「加賀美」さんだったら、「かがみ」という読みから「その人が毎日うっとりと鏡を眺めて自分の顔を見ている」イメージをつくるという感じです。

もちろん漢字も一緒に覚えられるに越したことはありませんが、実際に会って話すという場では、とにかく「かがみさん」という名前さえ思い出せればいいわけですから、これで問題ありません。

それから、たとえば「坂本」さんのイメージを知人や有名人を使ってつくるなら、「この人は坂本龍馬の子孫で、龍馬と一緒に肩を組んでいる」イメージなんてどうでしょうか。なかなか強烈なイメージですから、そう簡単に忘れることはないはずです。

■マスクをしている相手の顔と名前をどう覚える?

——いまはコロナ禍によってほとんどの人がマスクをしています。そのなかで顔と名前を覚えるための対策はありますか?
池田 これはなかなか難しい問題です。というのも、人の脳には、ふたつの目と口にあたる3つのパーツをもって顔だと認識するという特性があるからです。3口コンセントのように、ただの穴が3点あるだけでも人の顔のように見えてきませんか? これは、その脳の特性によるものです。

でも、マスクをしていると目は見えても口が見えませんから、しっかりその人の顔を認識できないのです。いま、マスクをしているために知人であってもばったり会ったときにわからなかったということもありますよね。そうなると、他の特徴からイメージをつくることがひとつの答えになるかもしれません。

わたしは以前、テレビ番組の企画で「30頭のカンガルーの顔と名前を覚える」という挑戦をしたことがあります(笑)。ただ、そのとき記憶したのは、厳密には「顔」だけではありません。

その30頭のなかに、「セロン」という名前のカンガルーがいました。セロンの耳には傷があったため、「世論(せろん)調査のアンケートを電話で受けていて、その相手にガミガミと強い口調で話されたために耳に傷ができた」というイメージをつくって記憶したのです。

もちろん耳も顔のパーツのひとつですが、ふだんはそれほど注目するところではありません。大きな福耳だとか、すごく濃い眉毛といったマスクをしていても目に見える特徴的な部分、あるいは手や指なども含めたその他のパーツからイメージをつくるということを試してみてもいいかもしれませんね。

成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/清家茂樹 写真/玉井美世子