「悪いのはわたしじゃない。あの人のせいだ!」。なんらかの問題が起こった際、そんな言葉が出かけることがあると思います。ただ、誰かのせいにすることは「日本人の美徳」にそぐわず、躊躇することも多いかもしれません。自分は絶対に悪くないと思っていても、ぐっとこらえて「自分にもよくない部分があったかもしれない…」。
そんな大人の対応を続けて、心にモヤモヤを抱えることは本当にいいことなのでしょうか? 初となる著書『いい人でいる必要なんてない』(KADOKAWA)を上梓した、お笑いコンビ・コロコロチキチキペッパーズのナダルさんはこういいます。「誰かのせいにして生きてもいい」と—。
■責任を背負うのはかっこいい。でも、しんどくなってきた
——ナダルさんはいま、忖度せず、本音を隠さず口にして、その独特の個性から若者の人気を集めています。著書『いい人でいる必要なんてない』では、そのキャラクターの背景にある考え方にも触れていて、とても面白く読ませていただきました。
長い文章は、学生のころに書いた読書感想文が最長でした(苦笑)。原稿を書いていくうちに、なにを書きたかったのかわからなくなってくることもあり、ブレないようにするのが大変でしたね。自分のなかでは一貫性があると思って生きてきたのですが、芸人の自分と素の自分の両方を書いていくと、「あれっ?」という部分も出てきて…。
でも、それを無理に整理せず、そのまま書ききった感じですかね。
——とくに印象的だったのは、「誰かのせいにして生きてゆく」という項でした。なにかうまくいかないことがあったときに、「誰かのせい」だと考えてもいいという割り切り。それはとても斬新な発想で、興味深いものでした。
お笑いの世界には、ものすごい人気者が身近なところにたくさんいます。芸人になってからずっと、彼ら彼女らと自分を比べては、「自分の努力が足りない」「自分の責任だ」と考えてきたわけですが、そういうのがしんどくなってきたんですよ。それで、そんなしんどさからは「逃げてもいいか」なって思うようになった。
これは芸人としてもそうだし、プライベートでもそうですけど、無理に責任を背負って生きてみせることは他人からはかっこよく見えるものなんです。でも、自分がしんどい思いをしてまでかっこつける必要があるのかなって。
そこになんの意味があんねんって。誰がどう思おうと、「自分の人生なんだから、もっと自分をいたわってもいいんじゃないか」と考えるようになったというわけです。その結論として、これはもう「人のせいでええわ」って(笑)。
■悪意があちこちにある時代だからこそ、まずは自分を守るべき
——確かに、わたしたちの身に降りかかってくる様々な問題は、自分ではどうにもならないコントロールできないことが理由になっていることもあります。
世の中っていうのは、自分でコントロールできることのほうが少ないですからね。だからこそ、これはもう笑い抜きで「誰かのせい」なんですよ。もちろん、僕は芸人という仕事をしているから、「自分のせいだ…」と反省する姿ばかり見せていたとして、「それっておもろいの?」とも考えてしまう。
誰かをむやみに傷つけるような責任転嫁はもちろんダメだけど、ギリギリのところを突ければ、「誰かのせい」は自分の心を楽にするし、笑いにだって転換できる。僕はよく「ナダルはクズだ」っていわれますけど、自分としては忠実にお笑いをやっているつもりなんですよね。
実際のところは、笑いのつもりでやっていたはずなのに、クズキャラがプライベートにまで侵食してきて…おかしなことになりはじめているというのがいまの状況ですけど(笑)。
——自分を責めてつらい思いをし続けるのではなく、「誰かのせい」という考えを持つことは、一般社会で生きるビジネスパーソンにとってもどこか参考になる話かもしれません。
ただ、僕のようなキャラでお笑いをやっていると、SNSなんかにかなり辛辣なことをいってくる人もいるんですわ…。僕はそういうのをまったく気にしないけれど、コメントを見ていて感じるのは、「ああ、みんなはけ口がないんやな」ってことです。
——これも時代なのでしょうか?
そうですね。世の中がまだまだ成熟せず不完全だったころは、なにかしら怒りをぶつける対象があったと思うんですよ。「あの暴力教師、めっちゃ腹たつな!」みたいな、わかりやすい反抗するための相手がいたじゃないですか(苦笑)。
でもいまって、コンプライアンスが徹底されてきてそんな先生もいなくなり、そういう対象にはならないことが多いのかもしれません。誰しもが持っている「負の感情」みたいなものが、行き場をなくしているのではないかなって。そういう行き場をなくした負の感情が、僕のところにきているのだと思うわけです。
——(笑)。大変なものを受け止めているのですね。
芸人である僕の例はともかくとして、注意していないとそういう負の感情や悪意をぶつけられて、簡単に誰もが傷つけられる時代でもある。そう考えると、「自分を守る、自分を保つ」というのはとても大事なことだと思うんです。
だからこそ、「自分は悪くない」「自分のせいではない」と主張するのは、それはそれでしんどいことかもしれないけれど、たまには人のせいにして生きるのもありだと思うんです。責任感が強い人やみんなに優しくして生きている人ほど、そうやって考えて、ときには気持ちを楽にしてほしいですね。
それにいまは価値観が変わっていく時代で、なににすがったとしても安心できませんよね? だから、ひとつの価値観に固執したり、誰かに合わせたりするばかりじゃなくてもいいと思うんです。そんな難しい時代だからこそ、ときには主張して、まずは「資本となる自分」を守らないとどんどんしんどくなってくるんじゃないですかね。
■思わず感情があふれ出るくらいの人のほうが愛される
——わたしたちが住む日本では、「責任感」というのは長らく美徳として扱われてきましたから、そういうものにあらがうのは大変そうな気もします。「みんなから嫌われるのでは?」という不安を持つ人も多いように感じます。
本音をいえば、「いいたいことをいえず我慢を要する人間関係なんて、本当に必要なの?」とすら思うこともあります。ただそれは、僕がお笑いという特殊な世界にいるからで、一般社会で生きている人は「人のせいにしてもいい」といわれて、それをすぐに実行するのは難しいかもしれません。人に嫌われずに実践するコツをあげるなら…「隙を見せる」ってことではないかと思います。
とがっていて、いつも抜け目がなくて、気を抜いたらやりこめられそうな人は警戒されるし好かれる人にはなりにくいでしょう。一方、少し抜けていて、ときには感情があふれ出てしまうくらい人間味のある人のほうが、付き合っていて安心できると思うんですよ。
——完璧ではないほうが、相手からしても付き合いやすい?
そうですね。人っていうのは、なにかしらで優位に立たれてる相手に、勝手に距離を感じて反感を持つものだと思うんです。逆に隙があって人間味のある人とは、距離も縮まりやすくていい関係をつくろうと積極的になれる気がします。
日頃から少し隙を見せることでいい関係をつくれていれば、たまには人(相手)のせいにすることもできるはず。なにより、周囲とそういう関係でいられるほうが人生は楽じゃないですか。
もちろんいつも人のせいにしていていいわけがないし、過度にヘラヘラして自尊心を傷つけてしまうのもよくはないですよ。そこはバランス感覚が必要ですが、自分をちゃんと守ってあまりしんどくならないようにしてほしいと思いますね。
構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/秋山健一郎 写真/塚原孝顕