有名な「いざ、鎌倉」である。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)の第8回(脚本:三谷幸喜 演出:吉田照幸)はサブタイトルが「本能寺の変」的なパワーワードがサブタイトルに来た。頼朝(大泉洋)が父・義朝ゆかりの地・鎌倉に入る。今後のサブタイトルには「鵯越の逆落とし」とか「承久の乱」とかあるだろうか。
「鵯越え」で大活躍するであろう源義経(菅田将暉)が本格的に登場した。戦の天才と言われる義経。颯爽としているが卑怯で容赦ない人だった。しかも思いついたら即行動に移して部下たちを振り回す。
天才は考えていることが凡人と違うという雰囲気がぷんぷん出ている義経。芋が箸でとりにくかったらぶっ刺すという合理性ももった囚われない人物だ。うさぎをとりあって相手を騙して矢を放つことと芋に箸を刺すこととが彼のなかでは生き抜くという一点において等価なのかもしれない。義経に比べて、義時(小栗旬)は苦労人。あっちとこっち、いろんな人たちに気を使う中間管理職のようになっている。まだ10代なのにじつにお気の毒である。
義経というと美少年というイメージなので野生児のような義経は意外だった。その点、頼朝は京都(みやこ)を離れ長く流刑されていたけれど上品さは保っている。『鎌倉殿』は京都と比べて伊豆のくにの坂東武者たちの粗野さが際立つ。第8回では、紆余曲折のすえ頼朝の仲間になった上総広常(佐藤浩市)が腕っぷしは相当ながらいささか教養がないところをユーモラスに描いた。仲間にはなったものの、頼朝を「佐殿」と呼ぶほど敬ってはいない上総に三浦義村(山本耕史)が「武衛」と呼ぶよう助言する。親しい人への呼びかけだと嘘をついて実は「佐殿」よりも上等な呼び方だ。そうとは知らない上総は「武衛」と気さくに呼びかけ、事情を知らない頼朝はまんざらでもない顔になる。
「武衛同士飲もうぜ」と言葉の意味を取り違えながらご機嫌な上総。彼の勘違いが寄せ集め集団を期せずして結束させる。伊東祐親(浅野和之)から寝返って頼朝側にまわったためアウェイ感のある畠山重忠(中川大志)は「武衛」の意味を知っている。その場にはいないがおそらく教養人とされる梶原景時(中村獅童)も知っているだろう。学のある人とない人、育ちの違う人たちによって寄せ集め部隊がさらにカオス化する。でもなんだか頼朝軍、どんどんエネルギーに満ちて魅力的になっている。伊東祐親も北条も伊豆に生きる者とすての矜持があり、よそ者から自分たちの生活を守りたいだけなのだが、頼朝に真っ向から敵対した伊東と頼朝を利用しようとしている北条と、やり方の違いが運命を変えていく。
頼朝に合流した阿野全成(新納慎也)は占いによって兄の行動を支える。鎌倉の仮御所に政子(小池栄子)たちが来る日を明後日にしたいという頼朝に「庚寅に家移した家には不幸が訪れると言われております。親子の縁が薄く、主が不慮の死を遂げると」と全成が言うと「暦ごときにふりまわされるのはどうかと思うぞ」と頼朝は反発する。あんなに信心深かったのに、最近、調子に乗っているという周囲の印象は勘違いではないようで、神に守られていると自信をもってしまったのかもしれない。
頼朝の行く末を歴史や小説やドラマなどで知っている視聴者としては全成の予言にぞくりとなる。従来、こういうものが「伏線」と言われ物語の楽しみのひとつのはずが、頼朝の物語が有名過ぎて「伏線」にならない。本来、そのときはまったく気づかなかったものがあとになって重要な役割を果たすものが「伏線」とされるからだ。歴史もので物語の結末がわかっているものには伏線が貼りづらいところ、あえて「伏線」的に使用しているところが興味深い。まったくこの時代の歴史も頼朝のことも知らない視聴者が見ていたら、あとでこの台詞にああ、あのときの! と思うだろう。先回りして「伏線」を消費して物語を純粋に楽しめなくなることに抗うかのように、「伏線」ブームが去ったあとに頼朝のことを知らない人たちが見たときに素直に楽しめるように、ただただワクワクしておもしろい「物語」を丁寧に作っているように感じる。
物語を分解してパーツを笑うようなことでなく、いまこそ「物語」を大事に編むこと。ウェルメイド作家として名高い三谷幸喜だからできることだ。で、また、鎌倉行きを明日ではなく明後日にした理由がそれかよ! というのもさすがだった。もしかして、全成の言葉がミスリードになる可能性もあったりして?
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