上杉謙信(うえすぎけんしん)は、戦国最強とよばれた武田信玄との川中島の合戦などから、戦うイメージが強く、現代においても高い人気を誇る戦国武将です。

また上杉謙信は戦が強かったことから、「越後の龍」「軍神」などと呼ばれていました。その一方で、「敵に塩を送る」のエピソードのように、自分の欲よりも義を重んじた武将としても知られています。

本記事では、上杉謙信が何をした人なのかや性格、その生涯を解説するとともに、実は女性であるといううわさや名言、死因、武田信玄・織田信長との関係、ゆかりの地まで一気に紹介します。

  • 上杉謙信とは

    上杉謙信(うえすぎけんしん)について解説していきます

上杉謙信とは? したことや性格を解説

上杉謙信(うえすぎけんしん)は、戦国時代に越後国(現在の佐渡ヶ島以外の新潟県)を統一した、山内上杉家16代当主の戦国武将です。内乱が長く続いた越後国を平定し、繁栄させるために尽力しました。

また上杉謙信は、戦国最強とよばれた武田信玄率いる武田軍と川中島で5度も戦うなど、戦の才能を持っていた武将として知られています。

仏教に傾倒する

上杉謙信は、助けを求める人には手を差し伸べるなど、義に厚い面がありました。それは幼少時から寺に入門して仏道を学び、信仰心や義の心を育んだことも影響していたのかもしれません。

戦に強いことから「越後の龍」「軍神」のあだ名で呼ばれる

上杉謙信は生涯で約70もの合戦に参戦したといわれています。それほど戦に参加していながら、明確な敗戦はわずか2回。それ以外では勝利を収めるか、引き分けるほどの戦の強さを誇りました。

その戦の才能から「越後の龍」「軍神」などと呼ばれていたそうです。

「敵に塩を送る」は、義に厚い上杉謙信のエピソードが由来

「敵に塩を送る」という言葉を聞いたことがある人は多いでしょう。これには、「敵の弱みにつけこまず、逆に苦境から救う」という意味があります。実はこのなじみのある言葉は、上杉謙信の行動が由来しているといわれています。

当時、川中島で何度も合戦をするなど、上杉謙信と武田信玄は敵対関係にありました。

海のない甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄は同盟国である今川家から塩を購入していましたが、武田信玄は同盟関係を破って今川家に攻め入ったのです。そのため、塩が購入できなくなり、甲斐国の人々は食料の保存ができなくなるなど、苦境に陥ります。

その窮状を聞いた上杉謙信が、敵国である甲斐国へ塩を送るように命じた、という逸話があるのです。

実のところは「助けるためではなく、武田信玄に高値で売っていた」とか、「江戸時代に創作された話」だともいわれており、真偽のほどは定かではありません。しかし、義に厚い上杉謙信らしいエピソードといえるでしょう。

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上杉謙信の生涯

戦国時代の越後国を治めて、武田信玄や織田信長といった名将と戦った上杉謙信。ここでは、上杉謙信の生涯について解説します。

越後国(現在の新潟県)に生まれる

上杉謙信は、1530年(享禄3年)に越後国(現在の佐渡ヶ島以外の新潟県)の春日山城にて生まれました。父親は越後国守護代の長尾為景です。

上杉謙信は庚寅(かのえとら)年生まれだったことから、幼名は「虎千代」と名付けられました。

7歳で林泉寺に入門して仏教に触れる

当時の越後国は内乱が激しく、上杉謙信の父・長尾為景は1536年(天文5年)8月、上条定憲らに追い込まれて隠居することになります。家督は虎千代(のちの上杉謙信)の兄・長尾晴景が継ぎ、虎千代は林泉寺に入門。天室光育という僧侶から学問や武道を学びます。

この林泉寺での生活が、上杉謙信の仏教に対する信仰心の厚さにつながったのでしょう。

元服後は長尾景虎と名乗り、初陣「栃尾城の戦い」を勝利で飾る

上杉謙信は、1543年(天文12年)に元服して長尾景虎と名乗るようになります。当時の越後国は上杉謙信の兄・長尾晴景が病弱だったこともあり、内紛状態でした。

翌年1544年(天文13年)には、越後の豪族たちが長尾晴景の栃尾城へと攻めてくる事態になります。その戦いで上杉謙信は敵軍を鎮圧し、初陣を勝利で飾りました(栃尾城の戦い)。

22歳にして越後統一

その後も上杉謙信は戦を重ね、1551年(天文20年)、長く続いた内乱を治めて、22歳で越後統一を果たします。

北条氏や武田信玄と敵対関係に

1552年(天文21年)には越後国へ逃亡してきた関東管領・上杉憲政を保護して、相模国(現在の神奈川県)を支配していた北条氏と対立。さらに、武田信玄に領国を追われた信濃(現在の長野県)の守護・小笠原長時を保護して、上杉謙信は武田信玄とも対立していきます。

有名な川中島の戦いなど、戦に明け暮れる

そして1553年(天文22年)、上杉謙信と武田信玄との川中島における1回目の合戦が勃発。その後12年にわたり計5度、武田信玄との戦いが繰り返されました。

1561年(永禄4年)の4度目の戦いでは、馬を駆って敵本陣に突入した上杉謙信と武田信玄の一騎打ちがあったとの逸話が残されていますが、これはのちに創作された話である可能性が高いようです。

手取川の戦いでは織田信長軍を撃破

その後、上杉謙信は織田信長に滅ぼされた室町幕府再興のために、京へ上洛(じょうらく)することを決意します。そして、1576年(天正4年)には京に向かう道中、「手取川の戦い」で織田信長軍の柴田勝家を撃破しました。

上杉謙信の最期・死因

1578年(天正6年)、春日山城に戻った上杉謙信は、次の遠征に向けて大動員令を発しました。

しかし、遠征への準備をしている途中で、城内で倒れて急死。死因は脳出血などの病気とされています。享年49歳でした。

  • 上杉謙信の生涯

    上杉謙信は義を重んじて多くの戦を行いました

上杉謙信にまつわる逸話・エピソード

上杉謙信といえば、前述の武田信玄に塩を送ったエピソードがありますが、それ以外にも興味深い逸話があります。

上杉謙信の女性説は、歴史小説がきっかけ?

上杉謙信には「実は女性だった」という説があります。これは歴史小説家の八切止夫さんの小説『上杉謙信は女人だった』がきっかけのようです。上杉謙信女性説をとなえる人たちの根拠を紹介します。

  • 敵に塩を送る行為が女性的である
  • 上杉謙信と思われる人物が叔母と記されている文書がある(実在するのか確認されていない)
  • 筆跡や読書の好みが女性的である(源氏物語や伊勢物語など恋愛ものを好んでいた)
  • 生涯独身を貫いた

上記の内容が上杉謙信女性説の根拠となったもののようです。

しかし、この説に関する明確な証拠は見つかっていません。「もし、そうだったらおもしろいな」というレベルの珍説に近いものだといえるでしょう。

上杉謙信の家紋

  • 上杉笹

上杉笹は、上杉謙信が長尾景虎と名乗っていた時代に用いていた、竹に雀(すずめ)をかたどった家紋です。

長尾景虎に保護を求めてきた上杉憲政から関東管領を相続するときに、上杉の姓とともに授けられた家紋とされています。

  • 五七桐

五七桐は天皇家を象徴する家紋です。

「桐(きり)」は、古代中国で「鳳凰が棲む」という意味がありました。上杉謙信は上洛をするのが簡単ではなかった時代に、2度も上洛したことが関係しているとようです。

天皇のもとに2度も謁見(えっけん)した上杉謙信の忠義に対して、当時の天皇が授けたものとされています。

上杉謙信の名言

・運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり

この名言は、上杉謙信の居城である春日山城の壁に書かれた「春日城壁書」の一節です。言葉の意味としては「運に任せないで、自分自身で道を切り開け」という武士としての心得を示すものです。

戦国時代において、占いや縁起は大切なものとされていましたが、上杉謙信は武神「毘沙門天(びしゃもんてん)」を信奉するも、占いなどには頼らない人物だったとされています。

何かを成し遂げたいときは、運に頼るのではなく、まずは自らの実力を身につけることを重視したいものです。

・人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。
軽率なことは言ってはならぬ。

この言葉を要約すると「リーダーは発言をするときに、よく考えるべきだ。考えなしの発言をしてはいけない」という意味があります。

たった一言で信用を失うのは、戦国時代も現代も同じでしょう。人の上に立つ者にとって、発言には慎重さが必要であることを教えてくれる名言です。

上杉謙信ゆかりの観光スポット

上杉謙信ゆかりの地は、現在でも観光スポットとして人気があります。

春日山城跡(新潟県上越市)

上杉謙信の居城であった春日山城跡は国の指定史跡で、日本百名城の一つです。標高約180mの本丸跡からは日本海や頸城平野、山並みなどを一望できます。また、上杉謙信公の銅像も設置されています。

御館公園(新潟県上越市)

御館公園は、上杉謙信が関東管領・上杉憲政の居館として建てた館跡とされる場所です。のちの上杉謙信も政庁として利用しました。

上杉謙信が亡くなった後、上杉景勝と上杉景虎が相続争いをした「御館の乱」の舞台としても知られています。

上杉神社(山形県米沢市)

米沢の地は江戸時代に上杉家が治めたことから、米沢城本丸跡に上杉謙信を祀る上杉神社が建立されました。

この神社には、開運招福、諸願成就、学業成就、商売繁盛など多くのご利益があるとされており、パワースポットとして人気です。

  • 上杉謙信にまつわるあれこれ

    上杉謙信ゆかりの地は現在でも観光スポットとして人気があります

義を重んじた戦国時代の武将・上杉謙信の生き方は、現代でも参考になる

戦に明け暮れた上杉謙信は、その強さから「越後の龍」や「軍神」と呼ばれるなど戦うイメージが強い武戦国将です。しかしその一方で、仏教に傾倒した一面が影響していたのか、義に厚い武将ともいわれていました。

義を重んじて戦ったとされる上杉謙信への憧れや尊敬の念が、今も高い人気を誇っている理由なのかもしれません。

現代を生きる私たちも、自分以外の人のために尽力した上杉謙信の姿勢を見習いたいものです。