バラエティ番組やワイドショー、そしてドラマと、幅広い芸風で多彩な活躍を続けるお笑い芸人・カンニング竹山さん。

現在はオンラインサロン『TAKEFLIX』も運営し、10月からはツイッターで家族会議型バラエティ『竹山家のお茶の間で団らん』の配信もスタートするなど、このネット時代においてますます活躍の場を広げています。

そこで今回は、カンニング竹山さんに「"好き"を仕事にすることの意義」についてお話をうかがいました。

▼漫才師になりたいなんて、恥ずかしくて言えなかった

―― 改めて、竹山さんがお笑い芸人になったキッカケや経緯を教えていただけますか?

なんとなく芸人になりたいと思ったのは、小学4年生くらい頃ですね。当時は"漫才ブーム"というのがあったんですよ。そのブームの中心が、ビートたけしさんの漫才コンビ「ツービート」。彼らの漫才をテレビで見たときの衝撃がもう忘れられなくて。

「なにをやっているんだ、この人たちは」「なんでこんなに面白いの?」って思いましたね。

でも、当時は田舎に住んでいたから、芸能人(漫才師)になりたいなんて恥ずかしくて言えなくて。別の夢を追っかけようとしていたんです。だけど、やっぱり本心では漫才師になりたいという思いがずっとありましたね。

―― 実際に漫才師を目指し始めたのはいつからなんですか?

高校時代からバンドもやっていたので、人前でなにかをすることがなんとなく楽しいことはわかっていました。バンドでも、MCをしている時間のほうが長かったくらいでしたから。

その頃に、今も福岡で芸人をやっている元相方のケン坊田中とふたりで「東京の大学に行こう。東京に行って芸人になろう」って言い合ってたんですよ。当時、うちの6歳年上の兄貴がすでに上京していて、兄貴のアパートで東京のテレビやライブを見たことがありました。そこで面白さを知ったこともあって、いち早く東京に行きたかったんです。

でも、結局ケン坊田中とふたりで一浪することになって。ちょうどそのときに吉本興業が吉本興業福岡支社を作って、「オーディション番組やります」って言い出したんです。ケン坊田中に「うわぁ、どうする?」って聞いたら、彼が「応募書類を送ろうや」と言うから、応募することになったんです。それが芸人人生の始まりですよね。

▼「せめて爪痕を残してから辞めよう」と奮起した下積み時代

―― その後の下積み時代はかなりお金にも苦労されたようですが、生活苦で芸人の道を諦めようとは思わなかったんですか?

いや、大変ではないですよ。むしろ、今より楽しかったといえば楽しかったというか。好き勝手にやっていましたから。お金もなかったけど、そのぶん責任も何もなくて。ただ遊んでいるだけだったからね(笑)。でも、20代後半くらいになると「どうせ売れないな」って思うようになっていたし、もう辞めるしかないって考えていたんです。だけど、相方と辞めるための話し合いをするのももう面倒くさいんですよ(笑)。

―― そういうものなんですか。

お互い心では辞めようって思っていたんです。借金まみれにもなったし。でも、そんな話をするのも嫌だったから、なんとなくそのまま流していたっていう感じですかね。

それでもさすがに1回だけ話しましたね。28歳くらいのときに、お互いに借金も苦しくなって、当時の彼女―― 今の妻からも「別れたい」みたいなことを言われたんです、僕も相方も。そこで一度、ふたりで話し合いましたね。「このままじゃまずいな」「どうする? 辞めるか」って話になったんです。

でも、21歳からずっとカンニングというコンビでやっていて、何ひとつ東京のお笑い界に爪痕を残していない。だから、「どうせならあと1年やってみて、いい意味でも悪い意味でもいいから、お笑い界に爪痕を残してから辞めよう」っていう話でまとまったんですよ。

―― せめて爪痕だけでも残してやろうと。

このまま辞めたら、カンニングというコンビがいなかったことになっちゃうから。極端にいえば、ライブで何か問題を起こして辞めるでもいいんですよ。何かしら爪痕を残そう。そのためにこの1年間は必死でやろう。それで1年後の今日もまだ同じ状況だったら、もうお笑いを辞めよう……っていう話になって。そこからですよね、火がつきはじめたのは。

▼10万円のギャラでも、相方と拍手するほど嬉しかった

―― それで実際に売れる糸口みたいなものが掴めて、続けることになったと。

まぁ、そこから3年くらいはかかっていますけどね。とにかく必死で"キレ芸"をして、ネタも1個1個ブラッシュアップしていくから売れるようになりだして、1年後に「辞めなくていいな。もうちょっとやろうぜ」となって。それから変わっていきましたね。

―― 芸人として売れてからはどうでした? 楽しいこと、楽しくないこと、たくさんあったと思いますが。

みんなに「好きなことができていいね」って言われますけど、仕事はやっぱり嫌なこともいっぱいありますよ。芸能の仕事の場合は特に"100"か"0"しかないから、「ゴールデンウィークだから休みます」なんて絶対にないし、すっごい嫌なことをやらないといけないこともあるし。逆に、それ以上の喜びがあるから辞められないんですけどね。

―― 喜び、ですか?

お笑い芸人の場合は、舞台でウケたときのアドレナリンがとてつもないというか、それが1番気持ちいいんですよ。お笑い芸人以外の仕事では経験できないことだから、今もやっているんですよね。

―― では、これまで仕事をしてきた中で1番嬉しかったエピソードを教えてください。

テレビ朝日の『虎ノ門』という番組で、コンビでネタをやって「面白い」って言われたことですね。もうめちゃくちゃ嬉しかった。そこから業界の人たちがちょっとずつカンニングというコンビを知ってくれるようになって、テレビ局にも通いだすことになったんですけど、嬉しかったですねぇ。テレビ局なんて一生入れないものと思っていたから(笑)。

それから1年後にはフジテレビの『めちゃイケ』の「笑わず嫌い王決定戦」に出させてもらって、オンエアの翌日から人生が変わったんですよ。もう一夜で日本中の人がカンニングっていうコンビを知ったから、それはちょっとビックリしたし、嬉しかったですよね。

―― 世界が一変した感覚ですか?

本当に一変しましたね。仕事も入るようになったし、やったことのない仕事もいっぱいくるし、面白いって言われるし。でも、ブレイクしたっていう実感はないんですよ。お金もすぐには入ってこないから、テレビに出ながらバイトも行かないといけなかったし。だから、そのときが1番忙しかったですね。

相方の中島(忠幸)なんて、テレビに出てるのに、合間に1度バイト先の店に行ってレジを締めてから戻ってくるなんていうこともやってましたよ(笑)。

―― それは尋常じゃない忙しさですね(笑)。

本当ですよ。それで……そのちょっと前かな? 初めて手取りの給料が手取りで10万円ずつになったとき、ふたりで拍手したのを覚えています(笑)。ふたりで20万円だから、多分、総合の売上が40万円くらいだったんでしょうね。ずっとノーギャラだったから、なんか10万円ずつのギャラでも嬉しかったですねぇ。31歳くらいだったかな(笑)。