伊達政宗(だてまさむね)は、「独眼竜」の異名を持つ武将・戦国大名です。隻眼や黒い甲冑、三日月の兜などのかっこよさから人気も高く、ゲームのキャラクターとしてもよく登場します。
しかし、具体的に何をした武将なのか聞かれると、意外と覚えていない人も多いのではないでしょうか。
この記事では、伊達政宗がどんな武将だったのか、功績やエピソードなどを紹介します。伊達政宗について知って、歴史の知識を深めましょう。
伊達政宗(だてまさむね)とは
伊達政宗(だてまさむね)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、東北を平定して仙台藩を開いた人物です。
伊達政宗は永禄10年(1567年)に、出羽国(現在の山形県と秋田県)の米沢城の城主である伊達輝宗(だててるむね)と山形城の最上義守(もがみ よしもり)の娘である義姫の子として生まれました。小さい頃に右目を失明したことから「独眼竜」とも呼ばれていたようです。
伊達政宗が建てた仙台城は焼失したため、現在、城跡一体は青葉山公園となっています。そこへ政宗公騎馬像が建てられました。
伊達政宗が埋葬される瑞鳳殿を再建工事する際に行われた調査によると、伊達政宗の身長は159.4cmといわれています。現代人に比べるとかなり小柄に感じますが、当時の日本人の平均身長です。
伊達氏は鎌倉時代から続く由緒ある武家であり、実は「伊達政宗」という同姓同名の人物が南北朝時代にも存在していました。この伊達政宗も和歌が得意で、『新後拾遺集』に和歌が収められるほどであったとされています。
伊達政宗の生涯
「あと20年生まれるのが早かったら天下を取れた」などといわれている伊達政宗。 ここでは、彼がどのような生涯を過ごしたのかをくわしくみていきましょう。
幼少期
伊達政宗は米沢城主の伊達輝宗の長男として永禄10年(1567年)に生まれました。幼名は梵天丸(ぼんてんまる)で、天正5年(1577年)に元服して藤次郎政宗と名を変えます。
小さい頃から歌や武芸にすぐれていた伊達政宗でしたが、天然痘にかかり、その時に右目を失明しました。それをコンプレックスとしていた伊達政宗は、引っ込み思案の性格だったといわれています。
伊達家17代目当主となる
天正12年(1584年)、伊達政宗は18歳で家督を相続し、伊達家の当主となりました。その翌年には畠山氏、さらに天正17年(1589年)には「摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)」で蘆名(あしな)氏を破り、伊達政宗は福島県と宮城県にわたる大きな領土を手に入れます。
この翌年、豊臣秀吉は天下統一を目指して小田原の北条家を攻めた際、各地の大名に応援をたのみ、伊達政宗のところにも声がかかりました。しかし、伊達政宗はちょうどその時に起きていた伊達家内での揉めごとを治めるのに時間がかかり、小田原攻めへの参加に遅れてしまいます。
遅参してきた伊達政宗に対して、当然ながら豊臣秀吉は怒りました。その結果、首を落とされたり、北条家の次に伊達家へ攻め込まれたりすることは回避しましたが、会津など領土の一部を没収されてしまいます。
関ヶ原の戦い
豊臣秀吉の死後、伊達政宗は徳川家康に仕えました。慶長4年(1599年)には伊達政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)が徳川家康の6男・松平忠輝と婚約するなど、徳川家との関係を深めようとしていたことがうかがえます。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、東北にて米沢藩の直江兼続と戦いました。この際、伊達政宗は戦争で勝ち取った領土はすべて自分のものにしていいという「100万石のお墨付き」を徳川家康より受け取ります。
しかし、裏で一揆をあおったりして領土の拡大を目論んだことが露見してしまい、伊達政宗が実際に手に入れられたのは62万石の領地だけでした。
仙台藩藩主となる
徳川家から62万石の領地を手に入れたことをきっかけに、伊達政宗は仙台城に拠点を移し、仙台藩の初代藩主となります。神社や寺、川の土木工事などを積極的に行うことで人民の生活向上へ貢献し、江戸へ米を運搬できる環境を整えました。
こうして仙台藩で作られた米は江戸へと輸出され、江戸で消費される米の3分の1は仙台藩の奥州米であったともいわれています。
また、伊達政宗は南蛮との貿易も視野に入れており、慶長18年(1613年)には支倉常長(はせくらつねなが)ら180人ほどを遣欧使節としてメキシコやローマ、スペインに派遣しました。しかし、幕府がキリスト教に対する弾圧を強めたため目的は達成できず、元和6年(1620年)に帰国しています。
伊達政宗の死因
寛永13年(1636年)、死期を悟った伊達政宗は江戸へ向かいました。江戸中の医者が治療に当たりましたが、その甲斐なく5月24日に68歳で亡くなります。
伊達政宗の死因ははっきりとはわかっていませんが、嚥下困難があったことなどから、胃がんや食道がんなど、消化器系の病気であったのではないかと考えられています。
伊達政宗の子孫
伊達政宗の子孫として、お笑いコンビ「サンドウィッチマン」の伊達みきお氏がいることは有名です。しかし、分家の家系であり伊達政宗と直接の血縁関係はありません。
伊達政宗直系の子孫は現在まで続いており、伊達政宗から数えて第18代の当主として伊達泰宗(だてやすむね)氏がいます。
伊達政宗にまつわるエピソード
今なお人気を博している武将・伊達政宗。その能力や魅力から、伊達政宗に関連するエピソードも多く存在します。
刀剣「燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)」の持ち主
ゲーム「刀剣乱舞」の女性ファンにも人気の燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)は、有名な刀工・光忠が作ったとされる刀です。最初は織田信長のものであったこの刀ですが、豊臣秀吉のもとを経て伊達政宗の愛刀となっています。
「燭台切」の名の由来は、その名のとおり燭台を切ったから。伊達政宗が家臣を切った際、近くにあった燭台も一緒に切れた、あるいは燭台ごと家臣を切ったといわれています。
のちに伊達政宗から徳川家に献上され、関東大震災の際に焼失したとされていました。しかし、その後の調査により2015年に現存していることが判明し、2021年現在は茨城県水戸市の徳川ミュージアムに保管されています。
「伊達男」の語源
おしゃれな男性を表す「伊達男」という言葉も、伊達政宗が語源となっています。
きっかけとなった出来事は、豊臣秀吉の朝鮮出兵。京都から肥前の名護屋(現在の佐賀県)へと向かう際、伊達政宗率いる軍隊は派手な甲冑をまとい、おしゃれな馬鎧を着せた馬に乗っていました。
その姿を見ていた京都の人々は、それ以来「粋でかっこいい格好をした男性」のことを伊達男というようになったそうです。
「伊達巻」と関係はある?
伊達男と同じく「伊達」の付く言葉に「伊達巻」もあります。伊達巻の語源は判然とせず、以下の3つの説が唱えられています。
- 派手な卵焼きだから
- 着物の帯の下に締める伊達巻に似ているから
- 伊達政宗の好物だったから
派手な卵焼きだから伊達、というのは「伊達男」と同様、伊達政宗がおしゃれであったことに由来します。また、和装に使う伊達巻ももとは「派手だから」という点から伊達巻と名前が付きました。
つまり、いずれの説にしても伊達政宗が語源に関わっているといえるでしょう。
兜の三日月の飾りについて
伊達政宗の兜といえば金色の大きな三日月が特徴的ですが、この三日月は、北斗星を武運の神様とした妙見信仰に由来があるとされています。北斗星だけでなく月にも神秘性があると思われており、月や星を神格化して信仰対象とするのは当時の武将にとって当たり前のことでした。
この三日月部分は金属製ではなく木製となっており、何かに引っかかっても前立が折れ、行動の妨げにならないように工夫されています。また、三日月が少し向かって右にずらされているのは、日本刀を振るときに邪魔にならないためといわれていました。
伊達政宗が使用していた本物の黒甲冑と兜は、現在でも仙台市博物館に収蔵されており、羽織などとともに見物することができます。
伊達政宗の家紋
伊達政宗は、時と場合によって家紋をいくつも使い分けていました。代表的なものとしては以下の紋です。
- 仙台笹(竹に雀紋)
仙台笹は伊達政宗の家紋として最もメジャーであり、上杉家から贈られた紋です。向かい合った雀を笹が囲む意匠をしています。
- 三つ引両紋
三つ引両紋は仙台笹紋の以前に主に使われていた紋です。由来は古く源頼朝から賜ったとされています。
- 九曜紋
太陽やひまわりのような形の九曜紋は、太陽とその周りの惑星を模してデザインされている紋です。元は細川忠興(ほそかわただおき)が使用していましたが、頼み込んで伊達政宗も使いはじめました。
- 五七桐紋
- 十六葉菊紋
この2つは天皇家から武士に下賜される紋です。十六葉菊紋については、天皇家からまず豊臣秀吉が下賜され、それを伊達政宗に下賜しています。
伊達政宗の名言
伊達政宗は名言も数多く残しています。なかでも代表的な言葉を紹介します。
仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎればへつらいになる。知に過ぎれば嘘を吐く。信に過ぎれば損をする。
短く「仁義礼智信」とも言われるこの一節は、「伊達家五条訓」をもとにしています。
「思いやりを持ちすぎると人として弱くなる。正義に固執すると頭が固くなってしまう。礼儀も行き過ぎるとおべっかになる。よく物事を理解しすぎると嘘をつくようになる。他人を信用しすぎると損をする」と現代語に訳すことができます。
一般的に徳といわれることでも、やりすぎると自分にとって不利益となってしまう、何事も度を超してはいけない、といった現代の私たちにも教訓になる言葉です。
物事、小事より大事は発するものなり。油断するべからず。
この名言には「物事というものは、小さな出来事が重なって大きな出来事になってしまう。油断してはいけない」という意味があります。
日常の小さな不満やミスだからといって油断していると、大事件、大事故の種になることもあります。小さな出来事にもしっかり対応しないといけないという武将・伊達政宗らしい言葉といえるでしょう。
伊達政宗は仙台藩の基礎を築いた人物
伊達政宗は今でも歴史好きやゲーム好きの間で人気があり、キャラクターとして登場する機会も多く、伊達メガネの「伊達」などにもその名を残しています。ただ戦が得意な武将であっただけではなく、スペインやローマと貿易しようとするなど先見の明のある人物でもありました。
伊達政宗は、天下統一を夢見ていたもののそれを成し遂げられなかった……という文脈で語られがちですが、仙台藩の基礎を築き、徳川家が日本を治めるために家臣として尽力した功績は大きいといえるでしょう。