オードリー・ヘップバーンは、数々の名作映画に出演していた女優です。すでに亡くなっていますが、出演作はさまざまな映画賞の受賞作やノミネート作となっており、映画ファンをはじめ多くの人々に愛されました。また、ファッションアイコンとしても注目されていますので、どんなファッションを身につけていたのか気になりますよね。
この記事では、オードリー・ヘップバーンの人物像や出演している代表的な映画、彼女の残した名言などを紹介します。
オードリー・ヘップバーンとはどんな人?
有名な女優であるオードリー・ヘップバーンは、数々のハリウッド映画に出演したことで知られています。英語表記は「Audrey Hepburn」で、本名はオードリー・キャスリーン・ラストンです。
オードリー・ヘップバーンの生い立ち
オードリー・ヘップバーンが生まれたのは、ベルギーのブリュッセルです。5歳のときに戦争の影響でイギリスへ渡り、ロンドン郊外にある寄宿学校に通っていました。その後、両親の離婚がきっかけでオランダへ移住します。そこでバレエのレッスンを始めました。
第二次世界大戦終結後に再びイギリスへ戻って、マリー・ランバート・バレエ学校に入学。ミュージカルで舞台デビューを果たします。その後イギリスで数本の映画に出演した後、1951年にブロードウェイ舞台「ジジ」で主役を演じました。
「ローマの休日」の主役に抜擢
そして、オードリー・ヘップバーンの人生を大きく変えたのが、1953年公開の「ローマの休日」のテストオーディションです。カメラテストが終わった安堵から浮かべた彼女の屈託のない笑顔を見て、ウィリアム・ワイラー監督はオードリー・ヘップバーンの虜になり、「ローマの休日」の主役に抜擢します。
王族としての凛とした美しさと少女のような可憐な笑顔を併せ持つ某国の王女・アンを演じたオードリー・ヘップバーンは、同作でアカデミー主演女優賞やゴールデングローブ主演女優賞などの名だたる賞を受賞。瞬く間にスターダムのトップへと上り詰めました。
オードリー・ヘップバーンの死因
オードリー・ヘップバーンは「腹膜偽粘液腫」という珍しいガンによって亡くなっています。1992年に海外からスイスの自宅に戻ったのち、腹痛に悩まされるようになり、精密検査を受けたところガンが発覚。すでにさまざまな部位に転移しており、1993年1月20日、63歳という若さでこの世を去ってしまいました。
オードリー・ヘップバーンは結婚していた?
ビジネスでは大成功を収めたオードリー・ヘップバーンですが、プライベートでは2度の結婚と離婚を経験しています。
1回目は1954年にスイスで年上の俳優、メル・ファーラーと結婚。1960年に第1子の息子、ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれました。しかし、1968年には離婚しています。
再婚するも2度目の離婚へ
離婚した翌年にイタリア人精神科医、アンドレア・ドッティと再婚。1970年には第2子となる息子、ルカ・ドッティが生まれましたが、1982年に離婚しています。
その後、オランダ人俳優のロバート・ウォルダースと長らくパートナー関係を続けましたが、オードリー・ヘップバーンが亡くなるまで結婚はしないままでした。
オードリー・ヘップバーンの孫娘
オードリー・ヘップバーンの息子・ショーンの娘として生まれたのがモデルのエマ・ファーラーです。オードリー・ヘップバーンの孫娘にあたります。エマが生まれたのはオードリーヘップバーンが死去した1993年の翌年。そのため、エマはオードリー・ヘップバーンに会ったことがないのだとか。
2014年、当時20歳だったエマはアメリカのファッション誌でモデルデビューを果たし、オードリーヘップバーンの孫娘ということで大きな注目を集めました。また、オードリーに似ているとの声も多く聞かれたといいます。
オードリー・ヘップバーンのファッション
オードリー・ヘップバーンは女優としてだけでなく、ファッションアイコンとしても注目された存在でした。そのスタイルは、今もなおファッションメディアで特集が組まれるなど根強い人気を誇ります。
「ティファニーで朝食を」のブラックドレス
出演作の中で披露した衣装の中でも、特に有名なのが映画「ティファニーで朝食を」に登場したリトル・ブラック・ドレス。オードリー・ヘップバーン扮するホリーがこのドレスを身に纏いニューヨークを歩くシーンは、映画を見たことがなくとも知っている人は多いでしょう。いつか着てみたい憧れのドレスとして今でも多くの女性を魅了し続けるアイテムです。
「麗しのサブリナ」のサブリナパンツ
リトル・ブラック・ドレスと同じように、映画「麗しのサブリナ」で着用したサブリナ・パンツもオードリー・ヘップバーンのファッションを象徴するアイテムの一つ。短めの丈でタイトなシルエットが魅力のサブリナ・パンツは、当時この映画での着用がきっかけで大流行したと言われています。
オードリー・ヘップバーンとジバンシー
リトル・ブラック・ドレスは、フランスのファッションデザイナーであるユベール・ド・ジバンシーが手掛けた作品です。ジバンシーはこのドレスに限らず、オードリー・ヘップバーンの出演した数々の作品で衣装を手掛けており、オードリー・ヘップバーンのファッションを語るうえで欠かせない人物と言われています。
オードリー・ヘップバーンの主演映画
オードリー・ヘップバーンはさまざまなハリウッド映画で主演を務めた女優です。そんなオードリー・ヘップバーンの代表作を紹介します。
ローマの休日
「ローマの休日」はオードリー・ヘップバーンの初主演映画です。ローマへの表敬訪問中に城を抜け出してしまう某国の王女・アンを演じました。偶然出会ったアメリカ人新聞記者のジョーとの、わずか1日のラブストーリーを描いています。
オードリー・ヘップバーンは同作でアカデミー主演女優賞を受賞し、オスカー女優の仲間入りを果たしました。公開から70年ほど経った今なお、世界中の映画ファンから愛される作品となっています。
麗しのサブリナ
「麗しのサブリナ」は大富豪に仕える運転手の娘サブリナが、富豪の次男デヴィッドに恋をする物語です。「ローマの休日」の翌年に出演しました。
パリへ留学し、2年後に洗練されたレディになって帰国したサブリナに、デヴィッドが夢中になっていくロマンティックコメディです。
戦争と平和
ロシアの文豪であるレオ・トルストイの名作を映画化した作品です。オードリー・ヘップバーンが演じるのはロストフ伯爵の娘であるナターシャ。19世紀初頭のモスクワを舞台に、戦争や財産などが絡む貴族の恋愛劇を描いています。
昼下りの情事
「昼下がりの情事」は、パリを舞台に描かれたロマンティックコメディです。オードリー・ヘップバーンが演じるのは、父親が私立探偵をしているアリアーヌ。
素行調査に登場する億万長者のプレイボーイとの出会いに成功しますが、プレイガールを装ってしまうところから話が展開していきます。
尼僧物語
キャサリン・ヒューム女史のベストセラー小説が原作の、1人の修道尼の物語で、第2次世界大戦期のベルギーが舞台です。
ベルギーの都会にあった家を棄てて、オードリー・ヘップバーン演じるガブリエル・バン・デル・マルは修道院に入りました。修道院の中や還俗に至るまでのさまざまな葛藤が描かれています。
ティファニーで朝食を
オードリー・ヘップバーンの出演作の中でもとくに有名な作品です。ニューヨークで奔放な生活を送る、オードリー・ヘップバーン演じるホリーのアパートに、作家志望の青年ポールが引っ越してきます。
2人の恋愛模様はもちろん、ファッションも注目を集めた作品です。
マイ・フェア・レディ
オードリー・ヘップバーン演じるロンドンの花売り娘が、一流の淑女に変貌していく姿を描いています。アカデミー賞の最優秀作品賞など8部門を受賞した名作ミュージカルで、オードリー・ヘプバーンの代表作の一つとして知られています。
オードリーヘップバーンの受賞歴
出演した多くの作品が映画賞にノミネートされたオードリー・ヘップバーン。ここでは、オードリー・ヘップバーンがノミネートされた作品と受賞歴を紹介します。
【受賞歴】
- 第11回 ゴールデングローブ賞(1954年)
最優秀主演女優賞(ドラマ)「ローマの休日」 - 第26回 アカデミー賞(1954年)
女優賞「ローマの休日」
【ノミネート歴】
- 第27回 アカデミー賞(1955年)
女優賞「麗しのサブリナ」 - 第14回 ゴールデングローブ賞(1957年)
最優秀主演女優賞(ドラマ) 「戦争と平和」 - 第15回 ゴールデングローブ賞(1958年)
最優秀主演女優賞(コメディ/ミュージカル) 「昼下りの情事」 - 第17回 ゴールデングローブ賞(1960年)
最優秀主演女優賞(ドラマ) 「尼僧物語」 - 第32回 アカデミー賞(1960年)
女優賞「尼僧物語」 - 第19回 ゴールデングローブ賞(1962年)
最優秀主演女優賞(コメディ/ミュージカル) 「ティファニーで朝食を」 - 第34回 アカデミー賞(1962年)
女優賞「ティファニーで朝食を」 - 第21回 ゴールデングローブ賞(1964年)
最優秀主演女優賞(コメディ/ミュージカル)「シャレード」 第22回 ゴールデングローブ賞(1965年)
最優秀主演女優賞(コメディ/ミュージカル)「マイ・フェア・レディ」第25回ゴールデングローブ賞(1968年)
最優秀主演女優賞(ドラマ) 「暗くなるまで待って」
最優秀主演女優賞(コメディ/ミュージカル) 「いつも2人で」第40回アカデミー賞(1968年)
女優賞「暗くなるまで待って」
オードリー・ヘップバーンの晩年
ハリウッドスターとして一世を風靡したオードリー・ヘップバーン。ただ、その晩年はユニセフを介した慈善活動に身を捧げていたのをご存知でしょうか。ここではオードリーヘップバーンの慈善活動について紹介します。
ユニセフ親善大使として慈善活動に携わる
オードリー・ヘップバーンは終戦時、ユニセフの前身にあたるUNRRA(連合国救済復興機関)に救済された経験を持っています。この自身の体験から、1950年代からユニセフの活動に関わるようになります。60年代以降は子育てに専念すべく映画への出演をセーブ。その一方で慈善活動へ一層力を注ぐようになりました。
1989年にはユニセフ親善大使に就任。その際のインタビューでは「私はユニセフが子供にとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜなら、私自身が第二次世界大戦の直後に食べ物や医療の援助を受けた子供の一人だったのですから」と話していました。
その言葉を体現するかのように、親善大使就任から亡くなるまでの4年間、当時食料危機に陥っていたエチオピアやソマリアをはじめとする十数カ国を訪問し、子どもたちの「声なき声」を代弁・発信し続けました。
オードリー・ヘップバーンの名言
オードリー・ヘップバーンは女優として有名なだけでなく、さまざまな名言も残しています。彼女の代表的な名言をまとめてみました。
最高の勝利はありのままの自分で生きられるようになったこと
若さを失ってからは、公の場に現れないかつてのスター女優も多いものです。しかし、オードリー・ヘップバーンは若さに執着せず、年齢を重ねてからもありのままの姿でいることを恐れませんでした。自分の変化を受け入れて、年相応の美しさを大事にしていたのです。
チャンスはめったに巡ってこない
オードリー・ヘップバーンは、バレエ学校に通っていましたが、なかなかチャンスをつかめずにいました。努力を続けながら舞台女優に転身することでチャンスをつかみ、大女優になっていきます。成功するために努力を重ね、挑戦していたからこそチャンスをつかんだ、彼女の経験が伝わってくるようなひとことです。
歳を重ねると自分に手が2つあることを知るはず
オードリー・ヘップバーンは、晩年にユニセフの親善大使を務めるなど支援活動に尽力していました。その頃の名言がこの「歳を重ねると、自分に手が2つあることを知るはず。1つは自分自身を助けるため、もう1つは他者を助けるために」という言葉です。1992年にはアメリカで最高の栄誉である大統領自由勲章を授与されるなど、献身的に活動していたことがわかります。
愛とは行動
オードリー・ヘップバーンは、晩年まで愛する人とともに過ごしました。そんな彼女らしい名言として、「愛とは行動なのよ。言葉だけではだめなの」という言葉が知られています。
オードリー・ヘップバーンの作品を見てみよう
女優オードリー・ヘップバーンはすでに亡くなっていますが、出演した映画は数多く残っています。名だたる映画賞で高い評価を受けた作品も多く、時間が経過した今見ても、ストーリーやファッションなどを楽しめます。
最も有名な出演作は「ローマの休日」でしょうが、「麗しのサブリナ」や「ティファニーで朝食を」など、そのほかにも名作と呼ばれる数多くの映画に出演しています。まだご覧になっていない作品があるようでしたら、この機会にぜひ鑑賞してみてください。