徳川家康(とくがわいえやす)は、武家時代をつくった偉人として、織田信長や豊臣秀吉とともに有名な歴史上の人物です。中でも好機を見計らって自分の出番を待ち続けた徳川家康は、のちに長く続くこととなる江戸時代を築いたことでも知られています。

よほど歴史にくわしい人でない限りは、徳川家康がしたことをよく知らないという人もいるでしょう。

この記事では、徳川家康がどんな人だったのか、いくつかの時代に分けて有名なエピソードを解説します。また、徳川家康の死因や名言についてもまとめました。

  • 徳川家康は幼少期人質として過ごす

    徳川家康(とくがわいえやす)は江戸時代を築いた武将です

徳川家康(とくがわいえやす)の幼少期

徳川家康(とくがわいえやす)は、天文11年(1542年)12月26日寅の刻(午前4時頃)に現在の愛知県にあたる三河国の岡崎城内で、城主であった松平広忠の息子として生まれます。徳川家康は、竹千代と名付けられました。

天文16年(1547年)、徳川家康が6歳の頃に、父が今川氏から支援を受けることになります。その見返りとして、徳川家康が今川家の人質に出されることになったのです。しかし、同行していた家臣が裏切って織田方に付いたことから、徳川家康は織田家の人質になりました。

人質交換で今川家に入り元服を迎える

1549年(天文18年)3月、徳川家康が織田家の捕虜となっている間に、父は家臣に殺害されます。今川義元はすぐに家臣を岡崎へ派遣して接収するとともに、織田方の拠点に攻め込んで、織田信秀の子息・織田信広を捕虜にしました。

それから織田信広と徳川家康の人質交換が行われ、徳川家康は今川家に戻されます。

天文24年(1555年)、14歳になった徳川家康は今川義元のもとで元服しました。名前に義元の「元」を与えられ、幼名の竹千代から「松平次郎三郎元信(もとのぶ)」という名になります。さらに、今川義元の姪にあたるとされる女性と結婚すると同時に、「元康」に改名しました。

  • 徳川家康は幼少期人質として過ごす

    徳川家康は小さい頃、人質として過ごしていました

徳川家康は織田信長と同盟関係を結ぶ

徳川家康の生まれた松平家は今川家の一門として扱われ、その今川家は織田家とは対立関係にありました。しかし、徳川家康は徐々に織田信長と同盟関係となり、勢力を拡大していきます。

桶狭間の戦いで今川義元が討ち死ぬ

永禄3年(1560年)、今川義元は尾張国(現在の愛知県西部)へ侵攻しました。そこで起きたのが桶狭間の戦いです。今川・織田両軍が桶狭間において戦い、ここで今川義元が討ち死にします。

松平元康(のちの徳川家康)はその情報を確認すると、尾張国にある今川方の大高城を出て、三河国岡崎の大樹寺に駐屯します。松平元康は桶狭間の戦いの後も今川方として織田方と抗争を続けました。しかし、桶狭間の戦いの翌年には今川氏を見限って、織田信長と同盟を結びます。

「松平」から「徳川」へ改姓。三河国を平定

永禄6年(1563年)には、松平元康(のちの徳川家康)の長男と織田信長の娘が婚約。同年には「元康」の名を「家康」と改名しました。そして、永禄9年(1566年)に三河国を平定して朝廷より「徳川」への改姓勅許を受け、「徳川家康」となります。

五国を手中に収める大名へ

今川義元の死後に、今川・武田・北条の3国同盟が強固ではなくなったことで、さまざまな戦いが勃発しました。徳川家康も今川領の遠江国(現在の静岡県西部)へ侵攻するなど、いくつかの戦いに参戦しています。

  • 武田氏・北条氏との対立を深める
  • 「三方ヶ原の戦い」で遠江国へ侵攻するも大敗
  • 「長篠の戦い」で織田氏と同盟軍として武田氏に勝利し三河・遠江・駿河を領有
  • 「本能寺の変」で織田信長が討ち死にした後は伊賀越えにより帰国
  • 北条氏らと抗争状態に
  • 甲斐・南信濃を手中にする

このように、さまざまな混乱を経た徳川家康は、武田氏に勝利して三河・遠江・駿河の三国を領有し、さらには甲斐・南信濃も手に入れ、五国を手中に収める大名へと登り詰めていきました。

  • 徳川家康は徐々に織田信長と同盟関係に

    徳川家康は今川義元の死後、織田信長と同盟関係になりました

豊臣秀吉の時代から徳川家康の時代へ

天正10年(1582年)に起きた本能寺の変によって織田信長が死去した後、織田信長の後継者争いが繰り広げられました。その中心にいたのは、織田信長を滅ぼした明智光秀を討った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)です。

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)の3月から11月にかけて、徳川家康・織田信雄(織田信長の次男)陣営と羽柴秀吉陣営との間で行われた戦いのことをいいます。

徳川家康側と豊臣秀吉軍の最初の戦いは尾張国羽黒(現在の愛知県犬山市)で勃発し、徳川家康側が勝利しました。その後、徳川家康は小牧山(現在の愛知県小牧市)で行われた戦いでも、大勝利を収めます。

徳川家康側は戦いには勝利したものの、和議においては羽柴秀吉へ人質を差し出さすなど、羽柴秀吉が優位となる形で和解しました。

1586年(天正14年)、羽柴秀吉は正親町天皇から「豊臣」の姓を賜り、豊臣政権を確立していきます。

豊臣秀吉はさまざまな手段で徳川家康との融和策を図った結果、徳川家康は大坂城(現在の大阪城)で豊臣秀吉との臣従を決意。その後、徳川家康は豊臣秀吉から、関東一体を治めるよう命じられました。

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いが勃発

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、徐々に徳川家康が豊臣政権の政務を仕切るようになります。それを快く思わない石田三成らと対立して、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こりました。

長きに渡り互角の戦いが続いていましたが、豊臣秀吉の養子・小早川秀秋の裏切りがきっかけで、徳川家康軍が勝利します。

征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開く

関ヶ原の戦いで天下をおさめた徳川家康は、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され、武家の棟梁(とうりょう)として事実上の国の最高権力者となりました。徳川家康が江戸幕府を開いたことで、日本の中心は江戸に移ります。

大坂冬の陣・夏の陣

慶長19年(1614年)秋、徳川家康は豊臣氏と対立が避けられない状況になり、諸大名に大坂への出陣を命じました。冬に和解が成立しますが、豊臣氏の不穏な動きが徳川家康に伝えられ、翌年の夏に大坂夏の陣が始まります。

豊臣勢は徳川勢を防ぎきれず、豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼と豊臣秀吉の側室・淀殿が自害して戦いは終結を迎えました。

  • 豊臣秀吉の時代から徳川家康の時代へ

    徳川家康は征夷大将軍に任命されて天下人となりました

徳川家康の晩年

徳川家康は江戸幕府を開いてからも、さまざまな政策を進めていきます。

日本初の貨幣制度統一

徳川家康は、日本で初めて貨幣制度を統一した人物としても知られています。全国で使用できる金・銀貨をつくり、流通させました。

武家諸法度(ぶけしょはっと)

徳川家康が発布した武家諸法度(ぶけしょはっと)は、大名統制のために制定された基本法です。これにより、江戸幕府と大名の関係性を明確化させました。

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、天皇と公家の行動を規制する目的でつくられます。徳川家康はこのような法律を発布することで、江戸幕府の体制を盤石なものとしていきました。

徳川家康の跡継ぎは誰?

徳川家康は、正室のほかにもたくさんの側室や子どもがいたことでも知られています。正室と側室を合わせて18人、子どもは11男5女の合計16人いました。

そのうち徳川幕府の跡継ぎとなったのが、三男の徳川秀忠です。

75歳で生涯を閉じた徳川家康の死因

徳川家康は1616年(元和2年)に75歳で亡くなりました。死因についてはさまざまな説があり、鯛の天ぷらによる食中毒説が有名です。しかし、徳川家康が天ぷらを食べたとされる日から死去する日までは4カ月ほどあったことから、胃がんで亡くなったとする説もあります。

徳川家康は日光東照宮に祀られている

徳川家康は75歳で死去しますが、その遺体は久能山に移され、その翌年に日光東照宮に祀られました。武士や庶民など参拝に訪れ、徳川家康の命日には法楽が催されるなど、庶民にも親しまれていたそうです。

日光東照宮は現在も、多くの人が参拝する神社として知られています。

徳川家康の名言・遺訓

徳川家康は、下記のような名言を残したことでも有名です。

・人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず

(人生とは、重い荷物を背負って、遠くへ歩くことと同じ。急いでいくことでもない)

・不自由を常と思えば不足なし

(不自由であることをあたり前と思えば、不満には思わない)

・勝つことばかり知りて負くるを知らざれば害その身に至る

(負ける経験をしていない者も、いずれ負け戦を経験するだろう)

この言葉から、徳川家康がいかに苦労人であったかが伝わってきます。

  • その後の徳川家康

    徳川家康は江戸幕府を開いてからも将軍として手腕を振るいました

徳川家の家紋は三つ葉葵

徳川家の家紋は、二葉葵(フタバアオイ)の葉っぱが3枚、中心で葉先が出会うように組み合わさった図案です。「三つ葵」や「葵巴(あおいどもえ)」ともいいます。

もともと二葉葵は、賀茂神社の神紋としても知られていて、神聖な植物として祭礼でも用いられています。この二葉葵のモチーフを、どういった経緯で徳川家康が使用するようになったのかはわかっていません。しかし徳川家康の生まれた松平家が、賀茂神社の氏子だったことが由来しているのではないかといわれています。

江戸幕府の創設以降、徳川家康は徳川の権威性をより高めるために、この三つ葉葵を勝手に使用したり、粗末に扱ったりしないよう制限したといいます。

  • 二葉葵は本来、2枚の葉っぱを持ちますが、徳川家の家紋ではその葉っぱを3枚使用しデザインしています

    二葉葵は本来、2枚の葉っぱを持ちますが、徳川家の家紋ではその葉っぱを3枚使用しデザインしています

2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、主演・松本潤さんが徳川家康に

2023年1月8日よりNHKにて放送開始の大河ドラマ『どうする家康』は、国を失い、両親とも離れ離れになった一人の弱き少年が、ピンチや計算違い、ガマンの連続を乗り越え、乱世を終わらせる奇跡と希望の物語が描かれています。

波乱万丈な徳川家康の生涯を描く、スピード感あふれるエンターテインメントとなっており、主人公の徳川家康を演じるのは、人気アイドルグループ・嵐のメンバーで大河ドラマ初出演となる松本潤さんです。

苦労人・徳川家康とは、長い歴史を持つ江戸時代をつくった武人であり政治家

徳川家康は、わずか6歳にして敵であった織田家の人質となり、数年もの歳月を過ごした苦労人です。

織田家や今川家で長らく過ごした後は、戦いの中で織田信長と同盟関係になりました。その後、天下人は豊臣秀吉となるものの、好機を見極めて最後には徳川家康が天下人となったのです。

徳川家康は長く続く江戸時代を築き、側室や子どももたくさんいました。亡くなった後も、神格化されて日光東照宮に祀られています。

徳川家康には日本各地にゆかりの場所もたくさんありますので、旅先で徳川家康ゆかりの地に出合ったときには、この記事で解説した徳川家康の人物像を思い返してみましょう。