坂本龍馬(さかもとりょうま)は、歴史上の人物の中でも人気が高い存在です。歴史小説家・司馬遼太郎の『竜馬がゆく』をはじめ、ドラマや映画でも重要な役柄として数々の作品に登場してきました。
また、坂本龍馬といえば、腰に刀を差し、ブーツを履いて立っている写真が印象深いという人も多いのではないでしょうか。
本記事では、坂本龍馬が生きた31年間の生涯がどのようなものだったのか、残した功績や名言などを紹介します。
坂本龍馬(さかもとりょうま)の生涯
坂本龍馬(さかもとりょうま)の31年間という短くも濃密な生涯を解説していきます。
土佐で生まれる
坂本龍馬は、1835年(天保6年)11月15日に現在の高知県にあたる土佐藩で、6人きょうだいの末っ子として誕生しました。曾祖父の代に豪商から郷士となり、父親の八平は子どもたちを武家として厳しく教育します。
坂本龍馬が12歳の時に母親が亡くなってからは、3歳上の姉・乙女(とめ)が母代わりになりました。乙女は武芸にもすぐれ、文武両面で坂本龍馬を指導します。坂本龍馬もまたこの姉とは終生親しく、乙女に宛てた手紙は今も数多く残されています。
江戸へ出立
1853年、14歳になった坂本龍馬は小栗流の武術を学び始め、さらに武芸を極めるために江戸に修行に出立します。江戸に着いた坂本龍馬は、北辰一刀流の千葉道場に入門しました。
しかしその年の6月、アメリカ海軍のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航します。それ以降、日本は大きく動き始めました。江戸時代末期にあった日本は黒船を目の当たりにし、攘夷思想が広がっていきます。若き坂本龍馬もその影響を受けたひとりです。
坂本龍馬は剣術修行の傍ら、佐久間象山の私塾に通ったり、土佐に戻って城下屈指の知識人とされていた河田小龍のもとで国際情勢を学んだりと、積極的に見聞を広めていきます。
土佐勤王党に加盟、脱藩へ
1861年、日本各地で尊王攘夷運動が高まる中、土佐藩の出身で江戸留学中であった武市瑞山は土佐勤王党を結成。これに賛同した坂本龍馬も一員として加わりました。やがて長州藩の尊王攘夷運動の中心にいた久坂玄瑞に刺激を受け、1862年2月、坂本龍馬は脱藩を決意します。
脱藩後の坂本龍馬は、その後の運命を決定づけるような人物と出会いました。それが、勝海舟です。開国後の日本のあり方について考えていた勝海舟にたちまち心酔した坂本龍馬は、その場で門下生となりました。
勝海舟の片腕として活躍
坂本龍馬は勝海舟とともに海軍操練所を設立したり、勝海舟の紹介によって薩摩藩の西郷隆盛と対面し、敵対する薩摩と長州の関係改善を図ったりと奔走します。
しかし、1864年頃から、再び日本の情勢は動きます。幕府は新撰組などを使って京都に集う尊王攘夷の志士たちを弾圧し始めたのです。その影響から海軍操練所も閉鎖され、勝海舟は蟄居を命じられました。
亀山社中(のちの海援隊)を設立
海軍操練所も廃止となる中、それでも坂本龍馬は薩摩へ向かい、薩摩の地で日本初の商社「亀山社中」を設立します。
亀山社中は船で運送を行いながら利益を上げ、その利益を倒幕運動に活かすという、当時としては画期的な考え方により設立された組織でした。
坂本龍馬は忙しい日々の合間を縫うかのように、1864年の夏頃、医師の娘であったお龍(りょう)と結婚しています。気丈なお龍のことを、龍馬は姉に「まことに面白き女」と手紙に書き送りました。
寺田屋事件から海援隊の設立
坂本龍馬は諸国を精力的に行き来する中、京都の伏見で定宿にしていたのが寺田屋です。結婚したばかりで家もなかったため、妻のお龍もその寺田屋に滞在していました。
一方、その頃の坂本龍馬は、幕府に敵対する薩摩藩と長州藩の同盟を画策する黒幕として、幕府から危険視されていたのです。そして、坂本龍馬が寺田屋にいる情報をつかんだ伏見奉行所は、1866年1月に寺田屋を襲撃します。
襲撃の情報を聞きつけたお龍は、すかさず坂本龍馬に知らせました。そのおかげで、坂本龍馬は傷を負いながらも脱出に成功したのです。
1867年、襲撃の傷が回復した坂本龍馬は再び精力的な活動を開始します。そのひとつが亀山社中を海援隊に改め、坂本龍馬自身が隊長に就任したことです。
大政奉還、そして近江屋事件による坂本龍馬の死
1867年、武力での倒幕を狙う長州藩と薩摩藩に対して、坂本龍馬は武力衝突を避ける大政奉還の計画を企て、土佐藩主から江戸幕府に進言してもらうよう、奔走します。
しかし、その結果を坂本龍馬がみることはできませんでした。11月15日、潜伏していた京都四条河原町の近江屋で中岡慎太郎との会談中に襲撃を受け、不慮の死を遂げたからです。この近江屋事件により、坂本龍馬は31年という短い生涯を終えます。
坂本龍馬の功績
坂本龍馬は短い生涯の中で多くのことを成し遂げていますが、その中で主な功績を3つ紹介します。
倒幕の立て役者
江戸時代末期、「幕末に西欧列強と互角に渡り合うためには、現在の幕府では太刀打ちできない、倒幕が必要だ」と考えた人は、長州藩や薩摩藩に限らず日本中に存在していました。
しかし、坂本龍馬のように具体的なビジョンを持って倒幕運動を行っていた人は多くはありません。また、坂本龍馬が対立関係にあった薩長を融和させたことも、倒幕のきっかけのひとつとなっています。
日本初の株式会社である亀山社中を設立
自由な思想の持ち主であった坂本龍馬は、経済の重要性にいち早く気づいていました。薩摩藩の西郷隆盛の助けを借りて、貿易を行うために海外から軍艦を買い求め、亀山社中という株式会社の設立に至ります。
亀山社中はのちに海援隊と改称され、坂本龍馬は海援隊での仕事を「運輸、射利(商売による利潤追求)、投機、開拓、本藩の応援」と定めるなど、武士の生まれであるにもかかわらず商いの重要性に目を向けていました。
坂本龍馬の幅広い人脈が日本の基盤形成につながる
幕末期、坂本龍馬は勝海舟をはじめとして、幕府や薩摩藩、長州藩などを問わず幅広い人に出会います。そこから人と人を結びつけ、幅広い人脈を形成していきました。この人脈こそが薩長同盟や亀山社中(のちに海援隊)の設立につながり、その後の明治維新の基盤となったのです。
坂本龍馬に子孫はいたの?
坂本龍馬は、お龍と結婚したものの、31歳という若さでこの世を去っています。そのため、子どもはいませんでした。
しかし、直系の子孫はいませんが、北海道に渡った坂本家の子孫がいるとされています。
坂本龍馬の名言
当時の手紙や文書類などから今日にも残る、坂本龍馬の名言を紹介します。
ここに十日ばかりも止まりあそび、谷川の流れにて魚をつり、ピストルをもちて鳥をうつなど、実におもしろかり
(姉の乙女に宛てた手紙)
寺田屋で襲撃を受け、傷を負った坂本龍馬を妻のお龍は献身的に看病しました。その後、坂本龍馬は傷の療養を兼ねて、お龍と薩摩の霧島山へ新婚旅行に出かけます。この名言は、そのときのようすを姉に知らせる手紙の一節です。
江戸末期とはいえ、当時の武士が妻を連れて遊山や湯治にでかけるようなことは考えられませんでした。この手紙から、坂本龍馬の自由でユーモアな一面を垣間見ることができます。
ちなみに、この旅行が日本の新婚旅行の始まりといわれているそうです。
国を開くの道は、戦するものは戦い、修行するものは修行し、商法は商法で、銘々かえりみずやらねば相ならず
(三吉慎蔵に宛てた手紙)
この手紙は「武士は戦い、学生は勉学に励み、商人は商いに精を出し、それぞれの立場で誰もが一生懸命にならなければ国を開くことはできない」という坂本龍馬の考えが書かれています。
幕末において、武士、学生、商人は同列な立場とされており、当時の封建制から自由に生きていた坂本龍馬の柔和さがうかがえる名言といえるでしょう。
世の人はわれをなにともゆはゞいへ
わがなすことはわれのみぞしる
坂本龍馬はいくつか和歌を残していますが、なかでも最も有名な一句です。
この短歌には「世間の人には好きなように言わせておけばいい、自分のすることは自分が知っているのだから」という意味があります。
激動の幕末時代に、周囲に流されることなく自分自身を貫き通した坂本龍馬の言葉は、今を生きる私たちにも心にも響くことでしょう。
坂本龍馬記念館
江戸幕府を倒幕するきっかけをつくり、近代日本の成長に生涯を捧げた坂本龍馬。彼の功績を顕彰する目的で1991年、坂本龍馬記念館が高知県に設立されました。ここでは、坂本龍馬に関する資料を展示はもちろん、期間によっては特別展なども開催されています。
また、坂本龍馬記念館は高知県のみならず、坂本龍馬が蝦夷地開拓を最初に試みた地・北海道にも開設されています。坂本龍馬をはじめ、北海道に渡った坂本家子孫ゆかりの品々も展示していますので、近くに立ち寄った際には足を運んでみてはいかがでしょうか。
坂本龍馬は近代日本の幕開けに大きく貢献した人物
ペリーの黒船来航とともに社会が大きく動いた幕末の日本は、「これから先、どうなっていくのか」がまったく不確かな時代でした。坂本龍馬は、当時の先が見えない日本に理想の未来を描いた存在だったのです。
人との出会いから多大なる人脈を築き、国をも動かした坂本龍馬の枠にとらわれない自由な生き方は、今を生きる私たちも見習うべき人物といえるでしょう。