野口英世(のぐちひでよ)といえば、千円札に描かれている人物として多くの人に知られる存在ですが、どんな功績を残した人物なのかよく知らないという人もいるでしょう。
野口英世がお札の肖像画に選ばれたのは、細菌学者として優れた医学的発見をしたからです。この記事では、野口英世が何をして評価されたのかをわかりやすく解説します。
野口英世とは?
野口英世(のぐちひでよ)といえば、多くの人が一度は聞いたことがある名前ではないでしょうか。まずは、野口英世とはどんな歴史人だったのかについて簡単に紹介します。
野口英世の生涯
野口英世は、1876年(明治9年)11月9日に3人兄弟の長男として福島県で生まれ、細菌学者として活躍したのち51歳で亡くなりました。
野口英世は1歳半の時、囲炉裏に落ちて左手に大きなやけどを負い、指の癒着により左手が不自由になってしまいます。しかし、周りのサポートもあり苦難を克服。やけどを治すための手術を受けたことで、医学の素晴らしさを感じ、医学に生きる道を選択しました。
野口英世は当時の最先端の医学を学ぶため、アメリカを拠点に世界で活躍。最終的にノーベル賞候補へ何度も推薦されるほど、細菌学者としての地位を築いていきます。しかしながら、黄熱病の研究中に自らも感染してしまい、この世を去りました。
いつからお札の肖像画になっている?
野口英世は世界の医学に貢献した人物ということもあり、千円札の肖像画として採用されています。千円札の肖像画として印刷されるようになったのは、2004年(平成16年)11月1日からです。
表面には野口英世の肖像画が、裏面には日本の象徴でもある富士山と桜が描かれています。
英世は改名した名前
多くの人に知られている「野口英世」という名前ですが、実はこの名前は本人の意思によって改名されたものです。改名する前の本名は、「野口清作(のぐちせいさく)」でした。
改名をした理由は、坪内逍遥の小説『当世書生気質』にあります。その主人公の名前が「野々口精作」で自分の名前に酷似していたこと、そしてこの主人公の行動が自分と悪い意味で似ていたためです。
野口英世は自分の短所を直したいという思いから、「野口英世」と改名に至ったとされています。
野口英世の子孫
1911年、野口英世がアメリカのロックフェラー研究所に勤めていた34歳の頃、アメリカ人女性のメリー・ロレッタ・ダージスと出会い、結婚。しかし、2人の間に子どもはいませんでした。
野口英世の死後、妻のメリーは福島県に住む義姉のイヌへの仕送りとして、遺産や遺族年金の一部を送り続けたとされています。
野口英世の功績
細菌学者として世界で活躍した野口英世。ここからは、彼が残した功績について解説します。
世界を股にかけて細菌の研究
1892年、野口英世が15歳になった頃、やけどにより不自由だった左手の手術に成功。それを境に、医学・英語・フランス語・ドイツ語を学び、さらには医学生として一層勉学に励みました。その後、20歳になると医師免許を取得し、医者として活躍していくことになります。
そして、21歳で「近代日本医学の父」とも称される北里柴三郎を所長とする伝染病研究所の助手になると、海外とのやりとりや細菌予防などの分野にも足を踏み入れていきました。
その後、野口英世は1900年に単身で渡米。蛇毒研究に従事すると、1904年にはロックフェラー医学研究所の一等助手に27歳の若さで抜擢されます。そこで梅毒スピロヘータの研究など、当時世界的に流行していた伝染病を解決するために尽力していきます。
それからも帰国や海外出張を繰り返しながら、亡くなるまでの間、数々の病気の原因解明に努めました。
黄熱病の研究とワクチン開発との関係性
野口英世が取り組んだ研究の中で有名なものとしては「黄熱病の研究」があげられるでしょう。
黄熱病(正式な医学的名称は黄熱)とは、ヒトやサルを宿主とする、蚊を媒介としてかかる病気のことです。厚生労働省によると、黄熱ウイルスに感染すると3~6日の潜伏期間を経て発熱や背部の顕著な筋肉痛、頭痛、悪寒、食欲減退、嘔吐などの症状が出現するとされています。治療しなければ、重症者の50%が黄熱で死亡するという恐ろしい病気ですが、当時は症状を和らげる対症療法しか存在しませんでした。
黄熱病の脅威から人々を守るためには、ワクチン接種による予防が重要だと考えるようになった野口英世は1918年、黄熱病が流行していたエクアドルへと赴任。黄熱病の病原体を究明すべく研究に明け暮れ、一時はその病原体となる細菌を突き止めたかのように思われました。
ただ後年、野口英世が黄熱病の病原体だと判断した細菌「レプトスピラ・イクテロイデス」は本来の病原体ではないことが明らかになっています。実は病原体の正体は細菌ではなく、ウイルスだったのです。その事実に気づいていたウイルス学者のマックス・タイラーが研究を重ねた結果、黄熱病のワクチン開発に成功。この業績が認められ、1951年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
結果的に黄熱病のワクチン開発を野口英世が成し遂げることはできませんでした。ただ、アメリカやメキシコ、ブラジル、アフリカなどの世界各地において蛇毒や梅毒、そして黄熱病といった未知の病気の研究に取り組み、ノーベル医学賞の候補に3回も名を連ねた彼の功績が色あせることはないでしょう。
野口英世の死因
同僚の研究員がアフリカにおいて黄熱病をわずらって亡くなったという知らせを受けた野口英世は、黄熱病のさらなる研究に取り組むため1927年、アフリカへと赴きます。その翌年の1928年、西アフリカのアクラで研究に従事している最中に黄熱病に罹患。治療の甲斐もむなしく、51歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。
野口英世の訃報は、日本のみならず世界中に知らされたと記録されていることから、全世界にとって彼がいかに重要な功績を遺した人物であったのかがうかがえます。
野口英世の功績が後世に与えたもの
野口英世は、医学界の発展に多大なる貢献をした人物であり、現代においてもその功績をもとに作られた施設や制度が存在しています。
野口英世記念館
野口英世記念館とは、1939年(昭和14年)の開館から80年以上にわたって運営されている、野口英世が生まれた福島県に設立された資料館です。
今では東北を中心とした小学校への出張授業も行っており、野口英世の生き方から学ぶべき思想や業績を次世代に伝える重要な役割を担っています。
野口英世記念医学賞
野口英世記念医学賞とは、1928年(昭和3年)に創設された表彰制度です。これは「野口英世が生前行った研究業績に関係が深い優秀な医学研究を讃える」ことを目的としています。
毎年1~2名(該当がない年もある)、主に大学病院の医学博士が受賞していますが、研究テーマとしては「インフルエンザ」「白血病」「がん」など、身近な病気に関するものもあり、私たちの病気に対する不安を解消してくれるような研究も多く存在しています。
野口英世アフリカ賞
野口英世が黄熱病をわずらいアフリカで殉職したことを受け、野口英世アフリカ賞という表彰制度が内閣府の政策として設けられています。
この表彰制度は、「アフリカのための医学研究・医療活動それぞれの分野で功績を挙げた人たちを表彰し、アフリカを始め人類全体の福祉と保健の向上」を目的とされています。
この表彰には内閣総理大臣により受賞者が決定されるだけでなく、賞金としても1億円が用意される非常に大規模な表彰制度です。野口英世の冠がついていることからも、彼が遺した功績の素晴らしさがわかるでしょう。
野口英世の名言
医学に生き、世界中の人類に対し大きな実績を挙げた野口英世ですが、名言として語り継がれている言葉があります。ここでは、いくつか代表的なものを紹介します。
誰よりも三倍、四倍、五倍勉強する者、それが天才だ。
若くから医学の道を志し、探求のためにはどんな努力も惜しまないという野口英世の情熱的な性格がわかる名言です。野口英世は「ライバルに打ち勝つ」というよりも、「誰よりも細菌学に詳しくなりたい」と思っていたのかもしれません。
私は少しも恐れるところがない。私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきたのだ。
黄熱病をはじめ、野口英世の「世界に蔓延する病と戦う決意」を感じることができる名言です。「何かをなすために何も恐れるものはない」という強い熱意が、世界中の人の命を救うことにつながったのでしょう。
一方、この熱意があったがために、自分の命よりも研究を優先して死に至ってしまったのかもしれません。
過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ。
未来を変えようとする、野口英世の人間力が伝わる名言です。感染病の研究に従事していた野口英世は、「こうなってしまった現実を嘆く」のではなく、あくまでも「これからどうしていくか」ということを考える人物だったのでしょう。
野口英世の年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
1876年 | 11月9日に福島県で誕生 |
1883年 | 三ツ和小学校に入学 |
1889年 | 猪苗代高等小学校に入学 |
1892年 | 会津会陽医院に入門、左手を手術 |
1896年 | 医術開業前期試験に合格し、高山歯科医学院の学僕となる |
1897年 | 医術開業後期試験に合格。高山医学院講師となったのち順天堂医院に勤務 |
1898年 | 英世に改名。伝染病研究所に勤務 |
1900年 | 渡米 |
1901年 | フレキスナー博士の助手になる |
1903年 | カーネギー学院研究助手になる。デンマークに留学 |
1904年 | ロックフェラー医学研究所の一等助手になる |
1911年 | メリー・ダージスと結婚 |
1914年 | 東京帝国大学より理学博士の学位を授与、ノーベル賞の候補にあがる |
1915年 | 日本に一時帰国。約2か月の滞在を経て再び渡米 |
1918年 | 黄熱病の病源体を発見 |
1919年 | 黄熱病病源体の論文を発表 |
1925年 | 正五位に叙せられる |
1926年 | オロヤ熱病源体の論文を発表 |
1927年 | トラコーマ病原体の論文を発表 |
1928年 | 黄熱病により死去 |
野口英世の生涯を描いた映画
野口英世の生涯を描いた作品としては、1992年公開の映画「遠き落日」があります。野口英世の生涯を母・シカとの関係を通して描いた伝記ドラマです。
野口英世役を演じたのは俳優の三上博史さん。母・シカ約は女優の三田佳子さんが演じています。そのほかにも、仲代達矢さんや牧瀬里穂さん、山城新伍さんなどそうそうたる名優が出演した作品です。なお、三田佳子さんは本作で第16回日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞を受賞しています。
映像で見ると、野口英世の生涯をよりわかりやすく学べるかもしれません。野口英世についてもっと学びたいという方は、ぜひ視聴してみてはいかがでしょうか。
野口英世は学びに生きた努力家
野口英世は細菌学者として誰よりも努力を重ね、医学界の発展に寄与してきました。彼の研究により数多くの命が救われたことは、世界に大きな影響を与えた素晴らしい功績と言えるでしょう。
努力を続ければ偉業を成し遂げられるということを証明した野口英世の生き方は、今を生きる私たちも見習うべき存在です。