福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、一万円札の肖像画の人物として有名ですが、どんな生涯を送った人物なのかをくわしく知っている人は少ないのではないでしょうか。
この記事では、福沢諭吉の功績や名言について、生涯を振り返りながら解説します。福沢諭吉は、現在の日本にとって欠かすことのできない重要な人物ですので、この機会にぜひ勉強してみてください。
福沢諭吉(ふくざわゆきち)とは
福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、社会の教科書にも登場する有名な歴史の偉人です。福沢諭吉とは日本にとってどんな存在なのかについて解説します。
明治時代の有名な啓蒙思想家
福沢諭吉は、明治時代に活躍した啓蒙思想家のひとりです。啓蒙思想とは、理性の啓発によって伝統的な権威や旧来の思想を批判することで、人間生活の進歩や改善を図ろうとする、18世紀のヨーロッパで全盛となった思想のことをいいます。
福沢諭吉は幕府の遣欧米使節に3度参加し、本の翻訳を通じて啓蒙思想に精通していきました。ほかにも慶應義塾大学の創設や、後世にも読み継がれる著書『学問のすすめ』といった著作物の発表など、日本の発展に大きく貢献します。
お札の肖像画になったのはいつからいつまで?
福沢諭吉は日本の学問に大きな影響を与えた人物ということもあり、1万円札の肖像画として採用されています。福沢諭吉が1万円札の肖像画として印刷されるようになったのは、2004年(平成16年)11月1日からです。
ちなみに、福沢諭吉の肖像画が描かれている1万円札は2種類流通しています。
表面の左下に偽造防止のホログラムが入っていて、裏面に鳳凰像が描かれているお札が、新しく流通している1万円札です。一方、表面にホログラムがなく、裏面に2羽のキジが描かれているのが古い1万円札となります。
どちらも問題なく1万円札として使用できますが、お財布に古い1万円札が入っていたらちょっとラッキーかもしれませんね。ちなみに、2024年には1万円札のデザイン変更が予定されており、肖像画は渋沢栄一に変わります。
福沢諭吉の生涯
福沢諭吉は、68年間の人生を学問とともに駆け抜けました。ここからは福沢諭吉の生涯を振り返ってみましょう。
幼少期(誕生)〜青年期(26歳)
福沢諭吉は1835年12月12日に、現在の大分県中津市にあたる豊前中津藩の下級武士の子として、大阪にある中津藩蔵屋敷で生まれました。「諭吉」という名前は、父親が福沢諭吉の誕生日に手に入れた本の名前に由来するとされています。福沢諭吉は、3歳で父親を亡くしました。
福沢諭吉は12歳を超えた頃から、当時信じられていた迷信や神仏に疑問を感じるようになり、学問と武道の両方を学ぶ文武両道な青年へと育っていきます。
1854年、21歳になった福沢諭吉は、兄の勧めで長崎に出て蘭学(オランダの学問)を学びました。下宿先の手伝いをしながらオランダ語の初歩を学びますが、学習スピードがあまりに速かったことを下宿先の人物に妬まれ、長崎を去ることになってしまいます。
兄の死や実家の負債の清算などを乗り越え、24歳になった福沢諭吉は1857年、緒方塾の塾長となり、生理学や医学、物理学や化学にも触れ始めました。その後、25歳で江戸に出て、慶應義塾大学の起源となる蘭学の家塾を開きます。
福沢諭吉は江戸の近くにある横浜を見物したことで、オランダ語が役に立たないことに落胆しつつも、辞書を片手に独学で英語の研究を始めるようになりました。ちなみに、若い頃から酒飲みでタバコ好きだったそうです。
青年期(27歳)〜中年期(40歳)
1860年、福沢諭吉は27歳になると、旅行でサンフランシスコとハワイに訪れ、英語の辞書であるウェブスターを持ち帰りました。帰国後は翻訳家として、幕府に雇われるようになります。
1861年、28歳で結婚した福沢諭吉は、30歳で長男をもうけ、その後も順調に学問や翻訳と向き合いました。
福沢諭吉は公務として英語の翻訳を行いながら、横文字の新聞雑誌を翻訳して塾生の学費をまかなうなど副業のようなことにも手を出し始めます。そして、1867年の34歳になる頃には、幕府の随員として再びアメリカに出ました。5か月間の滞在を経て、アメリカの原書を多数土産として持って帰国しています。
1868年、35歳になった福沢諭吉は幕府に仕えるのを辞め、家塾の名前を慶應義塾と名付け、塾長・学者としての人生を歩み始めました。37歳には、暗殺の危機が訪れるも命からがら逃れています。翻訳や洋学校設立の必要性について藩の重役に説いたのも、この頃です。
40歳になった福沢諭吉は演説の重要性を唱え、自宅で集会を開いて演説討論の練習を始めました。なお、福沢諭吉は40歳までに、5人の子どもをもうけています。
中年期(41歳)〜晩年(68歳)
福沢諭吉は40代前半になっても、三田演説会の結成や民間雑誌の発刊、また東京府会議員にも選出されるなど、勢力的な活動を続けます。
そして40代後半になった頃には、現在の日本学士院にあたる東京学士会院の設立と同時に初代会長に選出されました。福沢諭吉は政府の機関新聞紙の引き受けを頼まれたりするなど、対外的にも重要な人物として認められていきます。
50代前半になるとその勢いはやや落ちつき、日本全国を旅行する計画や初めての芝居鑑賞を楽しむなど穏やかな時間を過ごすようになります。その後、57歳の時に慶應義塾大学部が設置され、今も残る文学・法律・理財の3科を置きました。
60代に入った福沢諭吉は、もっぱら子どもや家族を連れ立った旅行にいそしみます。 しかし1901年、68歳の時に病気を患い、三田慶應義塾内の自宅で死去しました。
福沢諭吉の死因
福沢諭吉の死因は、「脳出血」とされています。脳出血とは、脳の血管が破れて脳の中に出血し、その後血液が脳細胞を圧迫して死に至ることもあるという病気です。脳出血は現代の日本人においても多い死因として知られており、諭吉は2度目の脳出血で亡くなりました。
福沢諭吉の功績
福沢諭吉は啓蒙思想を持ちながら、その優れた語学力を武器として日本の学力の底上げに一役を担います。
『西洋事情』の出版
福沢諭吉は、1866年より『西洋事情』という書物を出版しました。この本には、海外に行った際に福沢諭吉が目にしたレディーファーストの概念を始め、意見の異なる人たちを尊重する考えについて書かれています。
福沢諭吉は計10巻に及ぶ『西洋事情』で、政治、議会、学校、新聞、病院など、福沢諭吉が目にした西洋の考え方をまとめ、日本に西洋の概念を広めました。
のちの慶應義塾を設立
福沢諭吉の代表的な功績として多くの人に知られているのが、慶應義塾の設立です。慶應義塾では身分に関係なく教育が受けられ、福沢諭吉は塾生に学ぶことの大切さを教えました。
また、慶應義塾には福沢諭吉の私財が注ぎ込まれており、このことからも福沢諭吉が学問を重んじる人物であったことがわかります。
『学問のすすめ』の出版
明治時代に入ると「文明開化」と呼ばれる、生活に西洋文化が広まり始めました。その中で福沢諭吉が書き上げたのが、1872年から1876年にかけて出版された『学問のすすめ』です。
正式表記は『学問のすゝめ』であり、福沢諭吉の代表作となった書物でもあります。この本では、変わりゆく日本において、国民の自立に最も重要なのは学問であり、知識を習得することであると述べられています。
福沢諭吉の名言
福沢諭吉が残した名言は、現在も慶應義塾大学の教育理念として受け継がれています。
天は人の上に人を造らず
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」という福沢諭吉の名言は、明治初期に福沢諭吉が執筆した『学問のすすめ』で書かれている一文です。
この言葉は人間の平等性について説いたものであり、現在の慶應義塾大学の教育理念にもなっています。
独立自尊
独立自尊とは、「自他の尊厳を守り、自分の判断や責任で行動を起こす」という意味を持つ福沢諭吉の名言です。
福沢諭吉は西洋文化に触れ、他人との平等性が大切なものであると感じただけでなく、学問で日本人一人ひとりの自立が重要であるという思想を持ちました
福沢諭吉は現代の日本の発展に欠かせない人物
福沢諭吉は、特に学問の分野において多大な功績を残し、一万円札の肖像画にも選ばれる人物となりました。福沢諭吉が西洋の文化や、学問の重要性を説いたことにより、今の日本があるといっても過言ではないでしょう。
福沢諭吉の著書は『学問のすすめ』をはじめとし、今でも読むことができます。彼の思想をもっと知りたいという人は、これを機に手にとってみてはいかがでしょうか。