夏目漱石(なつめそうせき)は、国語の教科書に作品が採用されたり、1,000円札に描かれていたりと、日本人には馴染み深い文豪ですよね。しかし、どんな人生を送っていたのか知っているという人は少ないのではないでしょうか。
この記事では、『吾輩は猫である』『坊ちゃん』などで有名な夏目漱石の生涯と、代表的な作品のあらすじを紹介します。どのような人物だったのかを知って、聞き覚えのある作品があればチェックしてみましょう。
夏目漱石(なつめそうせき)とは
夏目漱石(なつめそうせき) は、明治から大正時代にかけて活躍した小説家・英文学者で、本名は金之助です。漱石は「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という四字熟語をもじったペンネームで、「失敗を認めず、負け惜しみする人」という意味があります。
夏目漱石は、1867年江戸牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区牛込喜久井町)の生まれです。日本を代表する作家のひとりで、『こころ』や『夢十夜』といった小説は高校の国語や現代文の教科書にも採用されています。
2017年には漱石山房記念館が新宿区に建てられました。
夏目漱石がお札の肖像になっていたのはいつまで?
夏目漱石といえば、以前1,000円札の肖像画として使用されていた記憶がある人も多いのではないしょうか。
夏目漱石の1,000円札は、1984年から2007年まで、20年以上もの間発行されていました。もちろん現在でも1,000円として利用できますし、2021年現在でも、お釣りやタンス預金などで目にすることもあるでしょう。
2024年には現在の野口英世に代わり北里柴三郎の新札が登場しますし、夏目漱石が描かれた1,000円札を見つけたら記念に取っておいてはいかがでしょうか。
夏目漱石の脳は東大に保存されている
夏目漱石の脳は、東大の医学部にホルマリン漬けで保存されています。日本人の男性の脳の平均は大体1,350gですが、夏目漱石はそれよりも若干重く1,425gありました。
夏目漱石の生涯
日本のみならず世界でも愛され続ける小説を多数残した夏目漱石。その作品には、彼の人生観が色濃く反映されています。
夏目漱石が小説を書く上で大切な原体験となった、彼の生涯を追ってみましょう。
幼少期~正岡子規との出会い
夏目漱石は1867年、現在の新宿区に小兵衛直克(こひょうえなおかつ)と千枝の子供として生まれました。上に兄が4人、姉が3人もいたために生まれてすぐに塩原家に養子に出されますが、9歳の時に義父母が離婚してしまい漱石は実家に戻っています。
夏目漱石は里子に出されていた時に天然痘にかかり、大人になっても鼻にその跡がずっと残っていました。夏目漱石といえば少し右を向いた写真が多いのは、これを気にしていたからとされています。
夏目漱石は1890年に現在の東大文学部である帝国大学文科大学に入学。この頃、俳人として知られる正岡子規(まさおかしき)と漢詩文を通じて親交を深めたとされています。
教員~留学時代
1893年に大学を卒業した夏目漱石は、愛媛の松山中学校や熊本の第五高等学校の講師として働きました。1900年には文部省から命じられてイギリスに留学します。
1903年に帰国すると、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として日本人ではじめて第一高等学校と現在の東京大学にあたる東京帝国大学の講師になりました。この時の講義内容は『文学論』『文学評論』に英文学研究としてまとめられています。
しかしこの文学論は学生から人気がなく、また夏目漱石が留学時から英文学研究に対して違和感を覚えていたこともあり、心労が重なって神経衰弱に陥ってしまいました。
その様子を目にした俳人で知られる高浜虚子(たかはまきょし)が夏目漱石に小説を書くことを勧めたことで、処女作『吾輩は猫である』が誕生するに至ります。
その後、『倫敦塔(ろんどんとう)』『坊っちゃん』を続けざまに発表した夏目漱石は、一躍人気の作家になりました。
朝日新聞社の専属作家になる
1907年、40歳になった夏目漱石は教職を辞めて朝日新聞社に入社し、専属作家になります。入社後の1作目には『虞美人草』を書き上げました。
夏目漱石は早稲田南町(現在漱石山房記念館のある場所)に引っ越し、その自宅で毎週木曜日に鈴木三重吉など若い文学者を集めた「木曜会」を開くようになります。夏目漱石はこの会合を晩年まで続け、芥川龍之介など多くの名高い小説家を輩出しました。
夏目漱石はこの頃に『夢十夜』『三四郎』『それから』『門』を書き上げ、作家としての地位を不動のものにしていきます。
晩年
夏目漱石は『門』の執筆中に胃潰瘍を患い、療養のために現在の伊豆にある修善寺を訪れました。しかし病状は悪化し、大量吐血を繰り返すなど危篤状態に陥ってしまいます。
その後なんとか回復した夏目漱石は、『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』『行人(こうじん)』『こころ』『道草』を発表しました。
文部省からの文学博士号の授与を辞退したのもこの頃、1911年のことです。
病身にあった夏目漱石は、事前の本人確認もなく強引に学位授与を決めた文部省の一方的なやり方に怒りを感じて、博士号を拒否したとされています。
夏目漱石の死因
『道草』に続いて『明暗』を執筆していた夏目漱石でしたが、1916年に胃潰瘍が再発してしまい、『明暗』は未完のまま50歳でこの世を去ります。
最期の言葉は「何か喰いたい」だったそうです。
夏目漱石の代表作をあらすじとともに紹介
近代日本の代表的作家である夏目漱石。ここでは、夏目漱石の代表的な作品と、そのあらすじを紹介します。
『吾輩は猫である』
『吾輩は猫である』は、1905年に夏目漱石が最初に発表した小説です。夏目漱石自身をモデルとした、中学教師である「珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)」に飼われる猫の目線で、人間社会を風刺的に描いています。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」から始まる書き出しは有名で多くの方が一度は見聞きしたことがあるでしょう。
当初は1897年に創刊された俳句雑誌「ホトトギス」に連載していましたが、好評だったために出版に至っています。
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『坊っちゃん』
『坊っちゃん』 は、1906年に愛媛県の松山中学校で教師をしていた頃の経験をもとに書かれた小説です。旧仮名遣いのまま「坊つちやん」と表記されることもあります。
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」主人公・坊っちゃんが四国の中学校講師となり、教頭の「赤シャツ」らと衝突したのち、職を辞すという物語です。
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『草枕』
『草枕』は、1906年に発表された中編小説で、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」の書き出しが特に有名です。
旅に出た青年画家と、宿の娘の交流を描いた作品で、「非人情」と言われる当時の夏目漱石の文学観・芸術観が表現されています。
『こころ』
『こころ』は、1914年に発表された長編小説です。「こゝろ」と書かれることもあります。「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」と上・中・下の三部作で描かれており、高校の教科書に掲載されているのは第三部の「先生と遺書」の部分が多いです。
主人公である大学生の「私」が、鎌倉の海で「先生」に出会い、交流を深めていく物語。内向的で謎も多い「先生」の言動、その理由が第三部で描かれる手紙で明かされるという展開になっています。
新潮文庫版の『こころ』は、2021年時点で新潮文庫の累計発行部数ランキングの1位(750万部以上)となっていて、作品の人気のほどがうかがえます。
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夏目漱石の作品には「三部作」が多く存在する
夏目漱石の作品には、前期三部作・後期三部作と呼ばれるものがあります。
前期三部作は『三四郎』『それから』『門』、後期三部作は『彼岸過迄』『行人』『こころ』とされ、それぞれ共通したテーマが設けられていました。
前期三部作では人間の自我や愛をテーマとして扱っており、後期三部作ではより人間の孤独や不安などに焦点を当てた作品になっています。
夏目漱石が「I love you.」を「月が綺麗ですね」と訳したのは本当?
夏目漱石というと、「まだ漱石が英語を教えていた頃、生徒に 『I love you. 』の訳し方を『月が綺麗ですね』とすべきと教えた」という逸話が有名です。
しかしながら、この「月が綺麗ですね」という名言には、はっきりとした根拠がないとされています。
この逸話は他の創作作品に登場したり、SNSなどで引き合いに出されたりすることも多いですが、噂や都市伝説として楽しむにとどめておくのがいいでしょう。
夏目漱石は近代日本を代表する文豪
夏目漱石の『こころ』や『吾輩は猫である』といった作品を、学生時代に教科書で読んだことがあるという人は多いでしょう。また、読んだことがない作品でも、「小説の有名なフレーズだけは知っている」ということもよくあります。
作家として活躍していた時期は12年と意外にも短かった夏目漱石ですが、その作品の多くは今でも日本にとどまらず世界中の人に愛される作品となっています。気になる作品があったら、ぜひ一度読んでみてはいかがでしょうか。