藤原鎌足(ふじわらのかまたり)は飛鳥時代の政治家で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の側近として大化の改新を進めた人物です。死の直前までは中臣鎌足(なかとみのかまたり)と名乗っており、日本の政治の基盤を変えた功績として大織冠と内大臣、そして藤原姓を賜りました。

この記事では、藤原鎌足の人物像と功績、子孫繁栄の歴史について解説します。

  • 藤原鎌足とは

    藤原鎌足について解説します

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とは

藤原鎌足は、飛鳥時代に生まれた政治家です。日本の政治を大きく変えた「大化の改新」を推し進めた中心人物であり、後に天皇となる中大兄皇子のもとで政治家として活躍しました。

さらに日本の歴史上、強い勢力を誇った藤原氏の祖であり、現代でも全国に子孫が存在します。

藤原鎌足は飛鳥時代の政治家

藤原鎌足は当時権力を握っていた蘇我氏の討伐から死に至るまで、政治の中心に関わっていた人物です。幼少期は学問を好んでおり、兵法書の「六韜(りくとう)」を暗記して、占術や儒教についても学んでいました。

飛鳥時代の614年に生まれ、669年10月16日に生涯を閉じました。出生は大和国高市郡(奈良県橿原市)や大和国高市郡藤原(奈良県高市郡)、常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)など、複数の説があります。現在は奈良県桜井市にある談山神社(たんざんじんじゃ)にて、祀られています。

藤原鎌足は中臣氏の一族

藤原鎌足が藤原氏を賜った時期は臨終の際であり、生前の長い間は中臣鎌足(なかとみのかまたり)として、中臣氏を名乗っています。また、幼少期は中臣鎌子(なかとみのかまこ)と呼ばれていました。

中臣氏は神事や祭祀を司る豪族であり、朝廷でも力を持っている家系です。家業の祭官に就くように求められましたが、固辞しており、後に権力を振りかざしていた蘇我氏を倒すべく、政治の道へと進みます。

  • 藤原鎌足とは

    藤原鎌足は飛鳥時代に活躍した政治家です

藤原鎌足の歴史

藤原鎌足は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の側近として、政治の中核を担い、さまざまな功績を残しました。推進した大化の改新により、現在まで続く天皇の称号が正式なものとなっています。

乙巳の変(いっしのへん)

藤原鎌足は当時猛威を振るっていた蘇我氏の蘇我入鹿(そがのいるか)を中大兄皇子とともに暗殺する「乙巳の変(いっしのへん)」を起こしました。天皇中心の政治を目指した聖徳太子の死後、蘇我氏は増長を重ねたため、危機感を持った藤原鎌足は、中大兄皇子を味方につけ、暗殺を計画したのです。

暗殺を実行した日は645年の「三国の調の儀式」の執行日でした。高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の朝鮮三国から貢ぎ物を持った使者が朝廷を訪れる日であり、蘇我入鹿が参朝することを2人は予測していました。

そして、蘇我入鹿の訃報を聞いた父の蘇我蝦夷(そがのえみし)は自宅に自ら火を放って自害したため、かつて栄えた蘇我氏はあっけなく滅亡したのです。

中大兄皇子の側近となる

蘇我氏を倒した中大兄皇子は、孝徳天皇(こうとくてんのう)が即位した際に皇太子となり、藤原鎌足を内臣(うちつおみ)に命じました。内臣は左大臣や右大臣よりも下の序列ですが、天皇の政治顧問として、政治の実権を握っていく役割を担いました。

藤原鎌足は内臣として、後述の大化の改新にまでつながる国政の改革に中心人物として関わっていきます。

大化の改新の推進

「大化の改新」は絶大な権力を持っていた蘇我氏を滅した、乙巳の変がきっかけとなり始まった国政改革です。乙巳の変の実行者である皇太子の中大兄皇子と内臣の藤原鎌足が中心となって大化の改新を進めました。

以前までの豪族中心ではなく、天皇中心の中央集権国家を築き、国政を変える動きを中大兄皇子と藤原鎌足が協力して行いました。646年には新たに即位した孝徳天皇が施政方針の「改新の詔(かいしんのみことのり)」を発しています。

改新の詔には「公地公民制」の記載があり、天皇中心の国家に変わったことにより、現代まで続く日本の元号制度が始まりました。日本初の元号は「大化」です。

ほかにも、国を郡として分割して管理する「国郡制度」や6年に1度戸籍を作り、土地を与える「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」、税を負担させる「祖調庸の税制」など、4つの内容が改新の詔に記されていました。

大織冠と内大臣に任命される

中大兄皇子の側近として大化の改新を推進し、多大な功績を残した藤原鎌足は、晩年に大織冠(たいしょかん)と内大臣(ないだいじん)に任命されました。任命した人物は、ともに大化の改新に関わった天智天皇(てんじてんのう)となった中大兄皇子です。

大織冠とは冠位の最高位であり、歴史上藤原鎌足のみが与えられた冠位です。内大臣は名誉称号で、いずれも藤原鎌足の功績を称えて与えられました。

  • 藤原鎌足の歴史

    藤原鎌足は中大兄皇子とともに大化の改新を進めました

藤原鎌足の死後~子孫繁栄の歴史

藤原鎌足は、死後も歴史に大きな影響を与えました。死の直前に藤原姓を賜ったことから、後の藤原氏の繁栄が始まったのです。

藤原氏の祖

中臣氏だった鎌足は天智天皇に大織冠と内大臣を任命された際、同時に藤原姓を与えられました。その翌日に藤原鎌足は死去しました。つまり、現代まで続く藤原姓の祖先となった人物こそが、藤原鎌足なのです。

歴史上の人物としても、平安時代に摂関政治を行い、藤原氏の最盛期を築いた藤原道長や藤原頼通が、藤原鎌足の子孫にあたります。

藤原氏の子孫は全国に広がる

藤原鎌足が祖となっている藤原氏の子孫は、1300年以上もの歴史を経た現在でも残っています。藤原氏のほかにも、「藤」の漢字がつく姓は現在も多くあるため、藤原氏は全国各地にさまざまな支流を生み出してきたわけです。

死の直前に藤原姓を与えられた藤原鎌足ですが、子の藤原不比等(ふじわらのふひと)が藤原姓を受け継ぎました。藤原不比等の子孫だけが藤原姓を許されたため、4人の子が藤原氏の直系である藤原四家(南家、北家、式家、京家)の祖となりました。

藤原四家はそれぞれ独立していましたが、朝廷で政権の中心に留まり続けることとなります。式家と京家は早々と途絶えてしまいましたが、北家と南家は続いており、特に北家は藤原氏の主流として、後世まで栄えています。

また、さまざまな支流がある藤原氏の子孫として、代表的な姓を総称して「十六藤(じゅうろくとう)」と呼びます。具体的には、安藤、伊藤、遠藤、加藤、工藤、後藤、近藤、佐藤、斎藤、神藤、進藤、春藤、須藤、内藤、尾藤、武藤を指します。

現在でも幅広く使われている姓であり、藤原氏が全国に広がっている由縁といえます。藤原氏の直系の子孫以外にも、ゆかりのある姓は現代まで多く残っているのです。

談山神社(たんざんじんじゃ)に祀られる

藤原鎌足は現在、奈良県桜井市の「談山神社(たんざんじんじゃ)」に祀られています。死後当初は御墓が摂津国阿威山(大阪府高槻市)に造られましたが、後に大和国多武峯(奈良県桜井市)に改葬され、談山神社の始まりである妙楽寺が建立されました。

藤原鎌足を祀った談山神社は世界唯一の木造十三重塔があり、縁結びや四季折々の景色を楽しめる神社となっています。

藤原鎌足は紙幣に使われた

藤原鎌足は過去に紙幣の肖像になったことがあります。改造百円券や甲百円券、乙二十円券、丁二百円券として、採用されていました。

乙二十円券に採用された際は、祀られている談山神社の十三重塔とともに描かれています。

  • 藤原鎌足の死後

    藤原鎌足は奈良県桜井市の談山神社に祀られています

藤原鎌足は大化の改新を推進した中心人物

藤原鎌足は、飛鳥時代の神事や祭祀を担当する豪族の家系に生まれた政治家です。幼少期は学問を好んでおり、生前の多くを中臣氏である中臣鎌足として過ごしています。

中大兄皇子とともに、蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変に始まり、豪族中心の政治から天皇中心の政治へと変えた大化の改新を推進するなど、日本の歴史に大きく名を残しています。

晩年はその功績が認められ、大織冠と内大臣に任命され、藤原姓を賜り、藤原鎌足と名乗るようになりました。藤原氏の歴史は藤原鎌足から始まり、歴史上の人物や現在にも多くの子孫を残しています。