8月24日から9月5日まで13日間にわたり熱闘が繰り広げられたパラリンピック東京大会。自国開催である今大会は、これまでとは異なりテレビをはじめとするメディアに広く取り上げられた。

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これによりパラリンピックに接し、障がい者スポーツに対する意識が大きく変わった人も多いのではないだろうか。私たちは感じ、理解する機会を得た。多様性を認め合える社会、そして共生を重んじることの大切さを─。

■レベルが急上昇、観る者を魅了

「障がい者を見世物にする気か!」
いまから57年前、1964東京パラリンピック開催時には、そんな批判の声も聞かれた。
当時の日本には「障がい者がスポーツを楽しむ」という発想がなかった。「無理だ」「そんなことをしたら危ない」とほとんどの人が思っていたのである。
「パラリンピックの父」ルートヴィヒ・グッドマンに師事し、東京でのパラリンピック開催に尽力した中村裕は、「お前、それでも医者か!」との罵声も浴びせられたという。
いま、「障がい者がスポーツを楽しむ」のは、ごく普通のこと。だが、障がい者スポーツが周囲の理解を得るには、長い時間がかかった。障がい者と、そうでない人両方の意識改革が必要だったのである。

9月5日に「TOKYO2020パラリンピック」が閉幕した。
コロナ禍により開催自体が危ぶまれ、無観客で行われた大会だったが、成功裡に終わったと思う。
これほどまでに日本国民が熱心に観戦したパラリンピックは、これまでなかった。理由は自国開催だからだが、それでよかったと感じる。日本は、金13、銀15、銅23の計51個のメダルを獲得。だが、その成績以上に意義深い大会だった。

観戦した多くの人が、2つのことに気づいたはずだ。
1つは、パラスポーツの競技レベルの高さ。
「世界から障がい者が集まって行われる運動会」をイメージしていた人は驚いただろう。彼ら彼女たちが、れっきとしたアスリートであることに。
車いすテニスの国枝慎吾、義足ジャンパーのマルクス・レーム(ドイツ)、車いすバスケットボール、車いすラグビーの激闘…挙げれば切りがないが、パラアスリートたちは自らの肉体を極限まで磨ぎ、技術を高めて観る者を魅了した。
世界記録も連発された。これは、競技のレベルが急激に上昇していることを意味する。また、一見すると単純な遊びに思われがちなボッチャの競技性の奥深さまでも、広く知られたのではないか。
「見世物にする気か!」と叫ぶ人は、もういない。

■「自分が障がい者になったら」

2つめは、パラアスリートたちのバックボーン。
世界には苛烈な状況が多々あり、それぞれの選手に物語がある。
原発事故や大気汚染が原因の先天性障がい、戦地で腕や足をなくした者、突如として生じた難病、障がいを理由に親から見捨てられての孤児院生活、進行中の不治の病との闘い等々。こちらも挙げれば切りがない。
多くの選手の話を聞き衝撃を受けた。

私たちは日々の生活に追われ、視野を広く持てないことが多々ある。
でも、パラリンピックを通して、「もし自分が障がい者になったら」と考えた人も少なくなかっただろう。
絶望から立ち上がれなかったのではないか、前を向いて進む勇気を持ち続けられるだろうか、と。

骨形成不全症という難病に見舞われ、病状は現在も進行中の米国人スイマー、マッケンジー・コーン。そんな中でもハードなトレーニングに身を浸し今大会、競泳・女子400m自由形で金メダルを獲得した彼女は笑顔で言う。
「人と自分を比較して悲観したことはない。なぜならば、これが私の普通だから」
胸を打たれた。
彼女だけではないだろう。パラアスリートたちは、強い心と澄んだ感性を持ち合わせていた。

「多様性を認める」「差別はいけない」
頭ではわかっていても、感情が伴わねば、それは理解したことにならない。
だが今回のパラリンピックで、障がい者の思いを自分に引き寄せて考える機会を私たちは得た。知識としてではなく心で理解することが、共生社会の成熟をもたらすのだ。
無観客開催により会場に熱狂はなかった。
だがその分、個々が考える時間を得られたことは逆に有意義だったようにも思う。パラリンピックの開催意義は、社会全体の意識改革にこそあると信じるから。

次回のパラリンピックは3年後のパリ。だが、その前にも障がい者スポーツに目を向けたい。パラ各競技の世界選手権は、さまざまな国で行われる。来年には、神戸市で『世界パラ陸上選手権大会』が開催される。

文/近藤隆夫