8月24日から9月5日にかけて開かれる『第16回夏季パラリンピック東京大会』には約160の国と地域が参加─。オリンピック同様、緊急事態宣言下の無観客開催ながら、パラリンピアンの熱闘に注目が集まる。

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さて、パラリンピックは、いつ、いかにして始まったのか? 「パラリンピックの父」ルートヴィヒ・グットマンの功績、そして、今日に至るまでの大会変遷を知ることで、パラアスリートたちの躍動をより深く楽しもう。

■61年前に「第1回大会」

「オリンピックの父」といえば、フランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン。
「クーベルタン男爵」と呼ばれることの多い人物である。
彼は、紀元前からギリシャで行われていた古代オリンピックに多大な興味を持ち、これをもとにしたスポーツの祭典開催に情熱を注ぐ。そして1896年4月、アテネでオリンピックの第1回大会が開かれるに至った。

パラリンピックにも父がいる。
ルートヴィヒ・グットマン。
ナチスによるユダヤ人排斥の動きによりドイツからイギリスに亡命した医師だ。
第二次世界大戦下の1940年代前半、ロンドン郊外にあったスト―ク・マンデビル病院の脊髄損傷科にいた彼は日々、傷ついた兵士たちの診察、治療にあたっていた。ここで、脊髄損傷により下半身が麻痺、車いす生活を余儀なくされる者と数多く接する。
彼らに対して、グットマンはスポーツをリハビリテーションに用いた。それがきっかけとなり1948年7月、ロンドン五輪に合わせてスト―ク・マンデビル病院内で車いす患者16名によるアーチェリー大会を開く。これが、パラリンピックの原点だと言われている。

その後、バスケットボール、ポロ、卓球などさまざまなスポーツも組み入れられ『スト―ク・マンデビル競技大会』に発展。1953年には、オランダからも選手が参加し国際大会となり、 1960年、イギリス、オランダ、フランス、イタリア、ベルギーの5カ国により『ISMGC(国際スト―ク・マンデビル大会委員会)』が設立される。初代会長には、グットマンが就いた。

同年、オリンピックが開催されたローマで『スト―ク・マンデビル競技大会』も行われ、23カ国から約400選手が参加。IPC(国際パラリンピック委員会)が設立された後、この年の大会が『第1回パラリンピック』と定められている。

グットマンは、車いす生活を送りながらスポーツに取り組む者を、こう言って励ました。
「失ったものは数えなくていい、残されたものを最大限に活かそう!」
さらに、こう説いた。
「私は最初、スポーツを治療に活かすことを考えた。でも途中でもっと大切なことに気づいたんだ。人間は肉体的に不自由になったからといってネガティブになる必要はない。スポーツを通して、心を輝かせることができる。そこが重要なんだ」

■グットマンが残した言葉

いま、『東京オリンピック』というワードが単独でメディアに登場することは少ない。『東京オリンピック・パラリンピック』と併記される場合がほとんどだ。「オリンピック」ではなく「オリパラ」。

では、1960年ローマでの「第1回大会」以降、オリンピックとパラリンピックは常にセットで開催されてきたかといえば、そうではない。
1964年は、オリンピック、パラリンピックの両方が東京で行われた。だが、以降の5大会は、分離開催。パラリンピックは、<1968年テルアビブ、1972年ハイデルベルグ、1976年トロント、1980年アーネム、1984年はニューヨークとスト―ク・マンデビル>で行われている。

再びオリンピックと同都市開催となったのは、1988年のソウル大会から。
IPCが設立されたのは、その翌年(1989年)9月である。
そして、2000年のシドニー大会の期間中にIOC(国際オリンピック委員会)会長ファン・アントニオ・サマランチとIPC会長ロバート・D・ステッドワードの間で次の合意がなされた。
「オリンピック開催国は、大会終了後に引き続いてパラリンピックを開催することを義務づける」
以降、オリンピックとパラリンピックは正式に同年・同都市で開かれることとなった。

大会を重ねる中で夏季パラリンピックの規模は大きくなり、認知度も上昇した。
1960年、ローマでの第1回大会の参加国は23。この時、日本は参加していない。日本が参加するようになったのは、1964年の東京大会からである。同大会には21カ国から378選手が出場。
その後も広がりを見せる。
1988年ソウル大会(61カ国、3057選手)、2000年シドニー大会(122カ国、3881選手)、2016年リオ・デ・ジャネイロ大会(159カ国、4333選手)、そして今年の東京大会には約160ヵ国から約4400選手が集結、22競技539種目が行われる。

2016年リオ・デ・ジャネイロ大会まで、パラリンピックの試合を長尺で中継するのはNHKだけだった。だが今年は地上波の民放各局からも試合の模様が、お茶の間に届けられる。日本においてもパラリンピックの開催意義が深く浸透した証しだろう。
障がい者に対する認識は、パラリンピックを通して以前とは大きく変わった。

最後に、グットマンの言葉を紹介しておこう。1950年代に彼は、こう話している。
「私たちが開いている『スト―ク・マンデビル競技大会』が、いつの日かオリンピックに匹敵するイベントになることを願う。そうなった時、人々は障がいを含めてさまざまな意味で多様性を認め合える。世界に平和が訪れていることだろう」
パラリンピックの父が他界して41年が経つ─。

文/近藤隆夫