富士通は1981年5月20日、同社初のパーソナルコンピュータ「FM-8」を発売。2021年5月20日で40年の節目を迎えた。FM-8以来、富士通のパソコンは常に最先端の技術を採用し続け、日本のユーザーに寄り添った製品を投入してきた。この連載では、日本のパソコン産業を支え、パソコン市場をリードしてきた富士通パソコンの40年間を振り返る。掲載済みの記事にも新たなエピソードなどを追加し、ユニークな製品にフォーカスしたスピンオフ記事も掲載していく予定だ。その点も含めてご期待いただきたい。

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1993年10月18日、富士通はDOS/V(※)対応のPC/AT互換アーキテクチャーを採用した「FMVシリーズ」を発売した。デスクトップPCはエントリーからフラッグシップまで3機種9モデル、ノートPCはカラー液晶搭載モデルやモノクロ液晶搭載モデルなど3機種8モデルを同時にリリース。本気でDOS/Vパソコン市場に参入する姿勢を示した。全機種にWindows 3.1を標準搭載し、17万8,000円からという価格設定や今後3年間に100万台という過去に例がない規模の販売目標を掲げた点からも、その本気ぶりが伝わってきた。

※:DOS/V
PC/AT互換のPC上で、ソフトウェアだけで日本語表示を実現した日本アイ・ビー・エムのOS。「DOS/V」は通称。

  • 1993年10月に発売となった「FMVシリーズ」のデスクトップモデル

    1993年10月に発売となった「FMVシリーズ」のデスクトップモデル

CPUには、Intelのi486SXやi486DX、i486DX2を採用。デスクトップPCではオーバードライブプロセッサによるアップグレードを可能にしたほか、全機種にVESA仕様のローカルバスを持たせた。Windows 3.1およびDOS/Vに対応した28社93種類のソフトウェアをそろえ、「ファミリーハード」と呼ぶ富士通自らが動作確認した他社製周辺機器の豊富なラインナップも訴求。PC/AT互換機ならではの特徴を前面に打ち出した。

他社のDOS/Vパソコンと差別化を図るために、CPUの省電力モードを自動制御する設定などによって、米環境保護庁の「国際エネルギースタープログラム」に準拠した省エネパソコンであることもアピール。さらに、米Diamond Multimedia製のVIPER VLBグラフィックアクセラレーターを搭載し、通常モデルと比べて約2.5倍の描画性能を実現する発売記念モデルを3,000台限定で用意した。

ユーザーサポート面でも、富士通が持つ全国974カ所の保守拠点や、SEによるサポート体制を充実。企業のクライアント/サーバーシステムとしての導入においても、DOS/V陣営のなかでは最も優れた体制を敷いていることを強調してみせた。

富士通の本社で行われた記者会見には、約200人の記者が参加。冒頭で富士通の大槻幹雄副社長(当時)は、「富士通は大いなる意義を持って、PC/AT互換機の投入を決定した。これによって、パソコン事業を富士通の大きな柱に育て上げる」と宣言した。

  • FMVシリーズのノートPC「FMV-433」

大いなる意義――

そこには、2つの大きな意味があった。

ひとつは、富士通自らがIT産業の本流に存在するためには、パソコン事業の成功が不可避であったという点だ。富士通は、この時点でFMRシリーズFM TOWNSという2つの異なるアーキテクチャーのPCを持っていたが、1993年時点の合計シェアは6.8%。50%以上のシェアを持つNECにはまったく歯が立たない状況にあった。

当時のパソコン市場はWindows 95発売前夜であり、年間の国内出荷規模は250万台前後。1人1台環境が進んだ2020年度の出荷実績(約1,730万台)と比較とすると、わずか15%程度の規模に過ぎないタイミングだ。メインフレームやオフコンでは首位の座を獲得していた富士通だが、今後の急速な普及が見込まれるパソコン市場において、存在感を発揮できないままでは、IT産業の本流にはいられないのは明らかだった。パソコン事業の成否は、富士通のコンピュータ事業全体を左右する取り組みに位置づけられていたのだ。

富士通でパソコン事業を統括するパーソナルビジネス本部長を務めた神田泰典常務理事(当時、のちに富士通顧問)は以下のように語り、FMVシリーズに取り組む意気込みを示した。

「過去、富士通がパソコン事業で十分な成果を収めることができなかったのは、口ではやるといいながらも、いざとなると『それは富士通らしくない』、『富士通らしいやり方ではない』という意見が出て、手をつけられないことが多かったことにある。だが今度は、これまでのように腰砕けになることは許されない。本気になれば、富士通がトップシェアを取れるというところを見せたい。今度こそ、富士通の決意の強さが試されている」(神田氏)

もうひとつの意義は、国内パソコン市場の健全な成長のために、独占市場を崩すという志だ。当時、NECのPC-9800シリーズは1982年の発売以降、一時期は70%を超えるシェアを持ち、その状況から「ガリバー」とも称されてきた。また、セイコーエプソンがPC-98互換機を発売し、シャープもエミュレータ方式によるPC-98互換機を投入。そのほかにも数社がPC-98互換機市場への参入を模索するといった動きも、PC-98陣営の地盤を強固なものにしていた。

もちろん、PC-98包囲網の動きは何度かあった。

たとえば、1986年には当時の文部省および通産省がCEC(コンピュータ教育開発センター)仕様のTRONパソコンにより、教育分野の標準パソコンを提案するといった政府主導の取り組みがあったが、参入メーカーが少なく主流にはなりえなかった。1987年10月に発足したAX協議会は、最終的には620社の参加企業を得ながらも日本固有の独自性が強く、PC/AT互換アーキテクチャーを生かせなかった。その結果、本体の出荷台数が伸びずに、これも市場の本流にはならなかった。

DOS/V登場

続く「第三の矢」ともいうべく形で放たれたのが、1990年10月に日本アイ・ビー・エム(IBM)が発表したPC/AT互換機用のOS「DOS/V」である。1991年3月に発足したOADG(PCオープン・アーキテクチャー推進協議会)によって、DOS/V陣営の本格的な形成がスタート。IBMによる仕様公開の決定を受けて、国内の主要パソコンメーカー(11社)が参加した。

続いて1992年10月には、コンパックが12万8,000円という当時としては破格のDOS/Vパソコンを発売し、国内に「コンパックショック」と呼ばれるインパクトをもたらす。1993年1月には、デル・コンピュータ(現・デル)が10万円を切る製品を用意して国内市場への参入を表明。ダイレクト販売というそれまでにない手法でDOS/Vパソコンの販売を始めた。まさに、黒船襲来ともいえる状況が日本のパソコン市場に起こり、強力な布陣でPC-98包囲網を形成することになったのだ。

だがそれでも、PC-98の牙城はすぐには崩れなかった。1993年時点でも、NECのシェアは52.8%。これにPC-98互換機を手がけるエプソンの6.4%というシェアを加えると、国内パソコン市場の約60%をPC-98陣営が占めていた。当時、NECのパソコン事業を統括していた高山由氏(のちに専務取締役)は、「4割のシェアで6割のPC-98をどう包囲するんだ」と、ユニークな言い方でPC-98包囲網の成果があがっていないことを指摘していた。

そうしたなか、最後に立ち上がったといえるのが富士通だ。富士通はAX協議会への参加を見送り、OADGについても年間300万円の会費を払って「登録」はするが、「入会」はしないという微妙なスタンスを取っていた。しかし1993年10月のFMVシリーズ発表にあわせて、OADGに正式会員として「入会」することを発表。日本におけるPC-98包囲網が本当の意味で完成したのだ。その後、富士通は国内パソコン市場のDOS/V陣営において、事実上の旗振り役を担うことになった。

当時、富士通のパーソナルビジネス本部で本部長代理を務めていた杉田忠靖氏(のちに富士通副社長)は以下のように振り返る。

「日本のユーザー利益を考えると、日本のパソコン市場にも健全な競争環境が生まれなければならないと考えていた。実際、1社寡占状態にあった日本のパソコン価格は、海外に比べて高価であった。世界に目を向けると、パソコン向けソフトウェアや周辺機器のほぼすべてが、世界標準であるIBMのPC/AT上で開発されている。日本のユーザーに貢献するには、PC/AT互換のDOS/Vしかないと考えた。日本のパソコン市場の発展と、日本のユーザーに利益をもたらすという志のもとに、FMVシリーズ製品化の検討を開始した」(杉田氏)

富士通のFMRシリーズやFM TOWNSは、独自のアーキテクチャーによってNECの牙城に挑んできたが、結果としてNECの後塵を拝したままだった。「AX仕様では富士通が参入する魅力はないと考えてきた。だが、OADGはAXとは話が異なる。OADGに登録して以降、検討を重ねてきた結果、PC/AT互換機の市場に参入することを決めた」(杉田氏)と語る。

FMVの「V」は?

実は、FMVシリーズの投入にあわせて富士通は、DOS/Vパソコンという表現を極度に嫌った。背景として、DOS/Vそのものが、メインフレーム市場で激しく競ってきた日本IBMが提唱したものという理由が大きいだろう。日本IBMが主導で設立したOADGには、「登録」しても「入会」しないというスタンスだった理由もここにある。

筆者は当時、富士通の幹部たちに取材するとき何度も「FMVのVはDOS/VのV」という言質を取ろうとしたが、全員がのらりくらりとはぐらかしたものだ。

ある幹部は「ご自由にそう受け取ってもらってもいいが」と前置きしながら、「FMVシリーズがPC-9800シリーズと勝負するのは、DOS上のアプリケーションではなく、Windows上のアプリケーション。FMVの標準プラットフォームはWindows。その環境ではPC-9800シリーズの2倍近い処理速度を実現できる。FMVシリーズはWindowsパソコンであり、DOS/Vパソコンではない。だから、DOS/Vパソコンとはいわず、PC/AT互換機という」と語っていた。

さらにしつこく聞いた結果、ようやく導き出したVの意味は「ビクトリーのVというところかな」というコメント。いまではこれが公式な名前の由来となっている。「DOS/Vパソコン」という表現を最も嫌った富士通が、最も売れたDOS/Vパソコンを作ることになった。

このとき富士通は、FMRシリーズとFM TOWNSにFMVシリーズを加えた3つのアーキテクチャーを持つことになったが、1993年10月のFMVシリーズ発表会見で大槻副社長が「富士通のパソコン事業はPC/AT互換機とする」と宣言。FMRシリーズやFM TOWNSをFMVシリーズに統合していくことは、決定事項だったともいえる。

実際にFM TOWNSは、FMVシリーズを発売した1993年10月時点で、すでに米国市場においてPC/AT互換機能を搭載した形で製品化していた。日本でも、1995年10月にFMV-TOWNSを発売して統合路線を明確化している。一方で、FMRシリーズも、FMVシリーズ発売時点で「今後5年間は製品を供給する」と明らかにしており、1998年4月の製品を最後にFMVシリーズに統合する形となった。

24年間も続いた「パーソナルビジネス本部」の誕生

FMVシリーズがスタートする前に、富士通は重要な組織変更を行っている。パーソナルビジネス本部の発足だ。これも、富士通のパソコン事業において欠かせない大きな転換点だった。

1992年6月26日に発足したパーソナルビジネス本部は、パソコンなどの開発・製造を担当していたパーソナルシステム事業本部、パソコンなどの販売を担当していたグローバルマーケティング本部OA販売推進統括部、SE部門であったシステム統括部を統合した組織だ。パソコン、ワープロ、FAX、電話といったパーソナル製品の開発、生産、販売、SEを一体化した。従来の縦割り組織を「パーソナル製品」という切り口によって、商品ごと、チャネルごとに展開し、市場の変化にすばやく対応し、きめ細かくサポートすることを狙ったものだ。

新たなパソコンの事業化に向けて、責任を明確化し、迅速に製品開発を行える体制を構築したのが、パーソナルビジネス本部である。この組織の名称は、その後も形や狙いを変えながら、富士通のパソコン事業を長年にわたって牽引する組織となった。富士通クライアントコンピューティングとして分社化した2016年まで、24年間も続くことになる。