自分から孤独を望む人はいません。「周りの人が煩わしいから、一人で静かに過ごしたい」というのは、孤独ではありません。本当は誰かと一緒にいたいのに、どこへ行っても、誰と関わってもうまくいかず、満たされず、一人ぼっちを感じてしまう。それが「孤独」です。
10代から老年期まで、75年間に渡って被験者の人生をつぶさに記録し、人間の幸福について調べた、ハーバード大学の長期研究があります。
その研究を指揮した心理学者ロバート・ウォールディンガー氏によれば、孤独な人は、「あまり幸せだとは感じておらず、健康の衰えが早く、脳機能が早期減退し、孤独でない人より寿命も短い」。一方、人間関係に恵まれている人は、「幸せかつ、身体的に健康で、つながりが少ない人より長生きする」そうです。
さらに重要なことは、「友人の数でもなく、生涯を共にする相手の有無でもなく、身近な人たちとの関係の質」だといいます。身近な人たちとの関係の質がよければ、家族や友だち、コミュニティと、よきつながりを保つことができる。身近な人たちとの関係の質が悪ければ、孤独、孤立しやすい。
つまり、孤独は、誰かがあなたにもたらしたのではありません。あなた自身がつくりだしたもの、なのです。あなたのその、どこへ行っても、誰と関わっても上手くいかない、「ありよう」。あなたのその、他人が近寄りがたい「ありよう」が、孤独を生み出したのです。
ブッタの「五戒」に学ぶ孤独の乗り越え方
仏教ではこの、残念な「ありよう」を変革するために、「五戒(ごかい)」と呼ばれる、5つの道徳を守って生きることを、勧めています。
- 不殺生戒: 生き物をむやみに殺さず、命を大切にする。
- 不偸盗戒: 金品を盗んだり、他人の時間をムダにするなど、人に迷惑をかけない。
- 不邪淫戒: 浮気をしたり、不道徳な性行為をしない。
- 不妄語戒: 嘘(陰口、悪口、二枚舌なども)を言わず、正直にある。
- 不酤酒戒: お酒や麻薬など、精神を乱すものを取り入れない。
これら5つの戒を、1つでも多く守ろうと、努力する。すると自然に、自分の「ありよう」が変わり、周囲との調和が起きてくる。
なぜ五戒を守ることで、そのような変革が起こるのかといえば、五戒は道徳だからです。道徳を身に着けた人には、人徳がもたらされます。
また、五戒を守ることは、自分との約束を守ることでもあります。自分との約束を守るには、忍耐力が必要です。忍耐は、心を強くします。心が強い人は、人から信用されるようになります。
そう、あなたが五戒を守る努力をすると、五戒があなたを孤独から守ってくれるのです。
心に「開国の時期」と「鎖国の時期」を作る
最近、特に男性の間で、「群れない、一匹狼的な、孤独な男こそモテる、カッコいい、魅力的」というような、間違ったイメージが広がっているような気がしています。
孤高の人と、孤独な人は違います。社会のつながりに感謝し、他者に敬意を示しながらも、自らの目的のために、時間と環境をつくって集中する人を、孤高の人と呼びます。一方で、世間を疎ましく思い、身近な人をバカにし、ワガママと甘えを繰り返した結果、孤立してしまった人は、ただの孤独者です。「こじらせた残念な人」に過ぎません。
モテる人、カッコいい人、魅力ある人は、前者です。前者を望むのであれば、心に「開国の時期」と「鎖国の時期」を作ることをオススメします。
浮世絵や浄瑠璃など、日本が世界に誇る「日本らしい文化」を成熟させたのは、平安時代と江戸時代です。これらの時代、日本は外国に対して鎖国をしました。その結果、それまで吸収してきた外国の文化が、日本独自の文化として醸成されたのです。
開国して、ひっきりなしに外国からヒト、モノ、カネ、情報が入ってくる状態は、確かに国内を活性化します。けれどもしばらくの間、鎖国をして、外部からの刺激が絶たれれば、自ずと内側への探求が始まります。自国の中で資源を求め、自国の中でヒトを求め、自国の中で考えるようになります。その結果、独自の文化、独特の「魅力」が生まれる、というわけです。この開国と鎖国を、自分の人生に応用してみるのです。
私たちはみな、違う感性をもっています。同じ家に、同じ両親のもとに育った兄弟であっても、違う性格、違う性質、違う感性をもっている。私は、この、生まれ持った個々の感性のことを、「仏性(ぶっしょう)」と呼んでいるのですが、周囲を見渡してみると、カッコいい人、魅力的な人は、この「仏性」を精一杯、堂々と発揮して生きておられます。
とくに成功者と呼ばれる、魅力的な人たちの過去をお聞きしていくと、その人生の過程に必ず、自らの仏性を「人に喜ばれる形に、人の痛みや苦しみを救う形に、社会のお役に立てる形に、育て、開花させた時期」があることに気づきます。その、自己の仏性と向き合う、ひたむきな集中期こそが、鎖国期なのです。
上司も部下も、親も子も、みんな「友」だと思う
人間は、文字通り、「人の間」に生きています。多数の、多様なる人との関係を生きています。親、子、友人、恋人、上司、部下など、呼び方は違えど、一人の人が、多数との、多様なる人との関係を生きています。
私の子は、会社に行けば、誰かの上司かもしれません。私の親は、会社に行けば、誰かの部下かもしれません。
私の友人は、誰かの奥さんかもしれません。私の友人は、誰かの夫かもしれません。
平日の仕事中は、顧客に頭を下げてまわっている営業マンも、日曜日のオフの日には、店員に傅(かしず)かれる、顧客であるかもしれません。
平日の仕事中は、部下を怒鳴りつけている強面の上司も、葬儀の日は、母の棺の前に嗚咽する、親思いの子かもしれません。
私たち人間は、こうして、立場や役割を変化しながら存在しており、仏教ではこのあり方を「縁起」と呼びます。ところが私たちは、この多様に変化する「縁起」を知っているようで、本当には理解していません。
そのため「私」も「家族」も固定化して考え、さらには、自己同一化して、自分の所有物のように考えてしまうことが、あるのです。
私の子。私の妻。私の夫。私の恋人。私の部下。その感覚をお互いが喜んで、気持ちよい関係が保たれているなら、問題ありません。
けれども実際には、「私」という、エゴによって人を縛り付けようとした結果、「身近な人から疎まれてしまう」人が少なくありません。
私のYoutube上の悩み相談番組『大愚和尚の一問一答』には、「自分の思い通りにならない」人間関係について、多数の相談が寄せられます。
特に「子どもが言うことを聞かない」という親からの相談や、「部下が言うことを聞いてくれない」という上司からの相談が目立ちます。
お釈迦さまの言葉を記した、『ダンマパダ(真理のことば)』の中に、次のような詩句があります。
「『私には子がある。私には財がある』と思って、愚かなものは悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてや、どうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」
私たち人間には、エゴがあります。エゴとは、「私」を世の中で一番重要な存在ととらえ、私を中心に世の中を考えるワガママな感覚のことです。
エゴには、身近な人を、自分の所有物のように捉えてしまう習性があります。「親、子、部下、恋人」私たちが使うそれらの言葉の裏には、必ず「私の」というエゴが隠れています。このエゴを離れて、大切な人と良質な関係を保つために、お釈迦さまが推奨なさった呼び方があります。
それが、「友」です。
お釈迦さまは、すべての人に、「友よ」と呼びかけられました。どんな人も上にも下にも置かない。それでいて敬意と、関心と、親しみを持って人を包み込む魔法の呼び名。それが「友」なのです。上司も部下も、親も子も、みんな「友」だと思う。そのスタンスがきっと、あなたの周りに良質なご縁を広げてくれることでしょう。